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【感動】下地一明 現在|奇跡バスケットボールコーチ物語

      2017/07/17

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奇跡のバスケットボールコー

1

今から9年前の2007年3月24日、プロバスケットボールチームの試合会場で、ある人物のセレモニーが行われました。

その人物は、選手でもなければ、監督でもない、しかしその時、会場は感動と驚きに包まれました。

これは、病いと絶望に立ち向かいながらも、バスケットボールを愛し続けた男の壮絶な物語です。

下地一明さんと安里幸男監督の出会い

今から40年前の1976年、下地一明(しもじ・かずあき)は、沖縄で生まれました。
中学からバスケットを始めた彼は、中3で既に身長191cmでした。

2その後、バスケットの強豪校、沖縄の北谷(ちゃたん)高校に進学しました。
期待を胸にバスケ部に入部したのですが、体育館に行くと怖い顔をした監督が待ち受けていました。

「お前ら、あいさつはどうした!?」

部員よりも早く体育館に来ていたのは、沖縄バスケ界、伝説の指導者と呼ばれる、監督の安里幸男(あさとゆきお)でした。
無名校を全国ベスト4にまで押し上げたこともある名将だったのです。

そんな安里が課す練習の厳しさは、下地の想像以上でした。

「次は、シャトルラン100本!」

朝練は6時半から2時間、放課後は16時から夜遅くまで続きました。

(倒れた下地に)「下地、そんな所で寝るな!倒れたら俺が許すとでも思ったか!」

あまりの辛さに、吐いてしまうこともしばしばでした。

北谷高校バスケットボール部監督(当時)・安里幸男さん≫

3

「(当時の下地は)ウドの大木ですよ。ただそこに大きい子がいるだけの話。走れない、飛べない、守れない、打てない、無い無い尽くしの下地一明だから」

「いいか、今日の反省と課題を自分なりに考えて書くんだぞ」

それは、安里が生徒達に書かせていた練習ノート。
”自分で考えられる人間”に育てるためのものでした。
下地のノートは、課題や反省点が驚くほどしっかり書かれていました。

安里の指導のもと、下地はメキメキと実力をつけ、一年生からレギュラーを獲得しました。
高校を卒業後は、東京の中央大学に進学しました。
リーグ戦で得点王争いのトップを走り、ついには全日本の代表候補入りを果たしました。

しかし、チームの中心になればなるほど、強引なプレーが顔を覗かせるようになっていきました。
しかもそれは、高校時代、安里に指摘されていた欠点でもあったのです。

(安里からの電話)「下地、お前また天狗になっているのか」

「先生、オレ、チームを勝たせようと必死になってて…」

「勝たせるだと!何様のつもりだ。また、俺が俺がの個人プレーか!周りが全く見えてない、そんなのは最低のプレーヤーだ」

しかしこのとき、安里ですら想像できない、黒い影が迫っていたのです。

マルファン症候群による解離性大動脈瘤

1997年10月17日、大学3年で迎えた秋の関東リーグ戦。
下地の得点王がかかっていた試合でした。

相手の肘が胸に接触。
大事を取ってベンチに退いたのですが、胸に激痛が走り、倒れてしまったのです。
いったい何が起こったのか?

すぐさま病院へ搬送され、診断の結果、下されたのは…

”マルファン症候群による解離性大動脈瘤”

生まれつき血管の強度が弱く、壁が裂けやすいため、大動脈の内部に裂け目ができます。
そこに血液が流れ込んで、血管が膨らんでしまう病気です。

5

既に下地の血管は、破裂寸前の状態でした。
何とか、手術は成功したのですが…。

「えっ!?じゃあ、バスケットは?」

「厳しいでしょう。激しい運動を続ければ、命の保証はありません」

「嘘だろ…」

得点王も、日本代表も、全ての夢が消えました。

コーチに転身

失意のまま、一般学生と同じ様に就職活動を行い、1999年下地は、工具メーカー「OSG」に入社。
会社のバスケ部は、実業団に所属するチームでした。
“少しでもバスケに関わっていたい” そう思った下地は雑用しかできませんでしたが、毎日、練習場に顔を出しました。
分かってはいたのですが、それでもいざ選手を見ると、彼らが眩しく見えたのです。

更に…。
「見ろよ、あれ、下地さんじゃない? 代表候補だった…。何でモップなんか掛けてるんだ?」
たまたま練習試合で訪れていた学生たちの話している声が聞こえてきました。
ついこの間までトップ選手だった彼には、屈辱でしかなかったのです。

そんなある日、会社のチームの練習でのこと…。

「なあ、下地」

ある選手が声を掛けてきました。
「またバカにされるのか」と下地は心の中で思いました。

「少し、頼みがあるんだけど。ゴール下のポストプレー、教えてくれないか?」

「……いいですけど」

一人の選手にアドバイスをしていると、他の選手たちからも「教えてい欲しい」と頼まれるようになりました。

”教えるだけなら、この体でも出来る”

下地は、現役時代には得られなかった、新鮮な充実感を感じ始めていました。

2004年(入社から5年)、そんな彼に、人生の転機が訪れることに。
プロバスケットボールチーム「新潟アルビレックスBB」、その2軍チームのコーチ就任の誘いを受けたのです。

所属するメンバー9名は、皆一軍に入り、プロで活躍することを夢見ていました。
しかし現実は、アマチュアの大会ですら初戦で敗退するなど、伸び悩んでいたのです。

「新潟アルビレックスBB」社長(当時)・中野秀光さん≫
「大学時代、病気で倒れるまでの、彼のゴール下のプレーヤーとしての頑固さ。一人ぶら下げててもシュートを決めてくるという、そこのハートの部分に私が惚れて、彼に(コーチとして)来てもらいました」

実はこの少し前(2001年)、下地は「解離性大動脈瘤」を再発していました。
幸い処置が早く、大事には至らなかったのですが、「残されたバスケット人生を指導者として全うしたい」、そう思うようになり、迷わずコーチを引き受けたのです。

かつての自分と同じ選手たち

そして迎えた練習初日、場所は高校の体育館を借りて行う予定だったのですが…。
集合時間にもかかわらず、選手の姿がどこにもありませんでした。
その後、やっと練習に来た選手達に、「体育館を貸してくれた高校の先生に挨拶に行く」と言うと…。

「えっ!?僕らがですか?」

「挨拶は礼儀だ。他人を思いやれない奴に、バスケットなんかできないぞ」

そして練習でも、自分本位な個人プレーが目に余りました。

「だめだ、だめだ!どいつもこいつも、俺が俺がの個人プレーばっかり。周りが全く見えていない。そんなのは最低の…」

それはまるで、かつての自分でした。

「どうしてそんなに一人で決めようとするんだ?」

「決まってるじゃないですか。この中で一番になって、プロに誘われたいですから」

スカウトが目的で、個人プレイに走っていたのです。
一体、どうすれば彼らの考えを正せるのか?
いきなり、下地は難題を抱えました。

すると彼は…。
誰よりも早くコートに来て、準備を始めました。
高校時代の監督、安里の教えを参考にしたのです。

さらに、練習の反省と課題を選手たちに書かせました。
自分で考えられる人間に育てるために。
しかし、どれも「言われたから仕方なく書いた」そんな内容でした。

2軍チームを教える傍ら、下地は、新潟アルビレックスのスクールで、幼い子供たちも指導しました。
「下(しも)コーチ」の愛称で呼ばれるようになっていました。

一方、2軍選手たちの意識改革は、思うようには進みませんでした。
しかしそんなある日、選手達は下地のノートを見つけました。

中には、練習内容だけでなく、選手一人一人が取り組むべき課題が、こと細かに書かれていました。

「ヤマ、ピボットの使い分け。スタンスの確認」

「シマ、ボールミートの徹底!」

「今日は気持ちの問題であり、自分たちがどうあるべきかを忘れてしまった。明日は自信を持って、バスケットボールを楽しんでほしい。自分たちを信じて」

チームを強くしたいだけじゃない、一人一人をちゃんと思ってくれている…。
そのことに気づいた選手達は、少しずつ変わっていきました。

その変化は、彼らが記していたノートにも…。

「自分の中で一番反省しているのが、シュートミスやイージーミスやフリースローを外したりしてしまい、チームが波に乗れなかったことです。ディフェンス面は自分はまだまだだったけど、チームディフェンスは良かったと思います」

仲間を思う気持ち、チーム意識の高まりが、ノートに表れ始めました。

新潟アルビレックスBB元育成選手・寺下太基さん≫
「僕らは、バスケットだけしてればいいという気持ちでいたので、実際僕らも勘違いしていたという事もあるし、下地さんがそれに気づかせてくれた。全員が練習の用意したり、全員で最後に後片付けしたりだとか、バスケット以外の事で、人としてだとかルールだとか規律だとか、一から鍛え直されました」

次第に選手たちの思いと、下地の情熱が一つになり、一丸となったチームは、大会ごとに着実に力をつけていきました。
そしてこの年(2005年)、新潟県代表として出場した全日本クラブ選手権、1年前には初戦敗退していたこの大会で、初の準優勝を勝ち取ったのです!

そして翌年のプロを選抜するドラフト会議で、合計4人もの選手が念願のトップチーム入りを果たしました。
こうした指導力が評価され、下地は新潟アルビレックスBBの、1軍プロチームのアシスタントコーチへ昇格、チームメンバーと共に歩き出しました。
2度目の発症から5年、ようやく居場所を見つけました。

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3度目となる「解離性大動脈瘤」の発症

しかし、恐れていた事が……。
2006年11月、3度目となる「解離性大動脈瘤」の発症でした。

チームの埼玉遠征中に発症し、そのまま昏睡状態に。
手術から一週間が経っても、下地が目覚める様子はありませんでした。
そこに、報せを受け、沖縄から安里がやって来ました。

「下地、いつまで寝ているつもりだ。返事をしろ」

「お前の事を、ずっと心配していたんだぞ。大学の時も、コーチになった時も」

「いいか、お前はチームから期待されてるんだ。その期待を裏切る気か。そんな奴は最低だぞ」

安里は必死に下地に声をかけました。

北谷高校バスケットボール部監督(当時)・安里幸男さん≫
「呼び戻すしかない。できることはそれだなと。僕の力で呼び戻せる訳ではないんだけど、(病院に)行って、彼のちょっとした力になれないかなと思って、そういう思いだけで行ったんですね」

そして手術から一ヶ月が経った頃(12月19日)。
ようやく、昏睡状態から脱しました。
しかし、辛うじて首と手の指が動くだけ、腕も足も全く動きませんでした。

大動脈瘤によって、血流の大部分が遮断されると、運動機能を司る脊髄に血液が行き渡らず、脊髄自体が機能不全に陥ることがあります。
そして、一度機能しなくなった脊髄は、たとえ手術で瘤を解消したとしても、機能が回復するとは限りません。
それは、立つ事も歩く事も厳しいことを意味していました。

しかし社長の中野は、絶対にチームに復帰させるつもりでいました。

「新潟アルビレックスBB」社長(当時)・中野秀光さん≫
「もう歩けなくなろうが、車椅子でベンチに座っていて構わないと思っていました。技術を教えなくても彼はハートを教えられますので。君の戻る場所はここしかない…」

目覚めてから5日目。
リハビリを始めるも、やはり手足は動かず、気持ちだけが先走りました。

「お願いします、立たせてください」

「それはまだ…」

「無理矢理にでもいいですから!」

しかし、裸足なのに、床の冷たさを感じることができませんでした。
それは、神経が機能していないことを意味していたのです。

「リハビリは、もういいです」

「えっ!?」

「無理です、もう…」

「いや、これからの頑張り次第で…」

「やったって意味ないんです。どうせもう動けないんだ。何も出来ないんですよ、俺はもう…」

以来、一切のリハビリを拒否、生きる希望すら失っていました。

応援してくれる人たち

そんな時、2軍時代から指導していた寺下選手が見舞いにやって来ました。
寺下は、他の選手達の応援メッセージを録音したテープを持ってきていました。

「こんにちは下地さん、公威です。下地さん、元気ですか?色々メッセージが聞けるという事なんで。下地さんと一緒に遠征に行った途中、色々話してくれましたよね。その話が僕にとって、すごく宝物です。下地さん頑張って、また一緒にバスケットしましょう」

「下地さん 杉山です。下地さんが帰ってきた時に、杉山はホント馬鹿だなって言われないように、しっかりとフォーメーション覚えて頑張っていこうと思っています。下地さんも頑張ってください」

「下地さん 早く良くなって帰ってきてください。最後見た自分より、いいプレーヤーになってるように頑張ります」

「下地さん 寺(下)です。下地さんの復活を誰よりも待ってます」

共に汗を流した、アルビレックスの選手たち、そしてコーチ陣からの熱いエールでした。

さらに、スクールの子供達と、父兄が作ってくれたメッセージカード。
そして、皆が折ってくれた、合計1万8千羽もの折り鶴でした。
実は、チームのファンやスクール生の親が一丸となり、各試合会場で折ってくれていたのです。

12

「これだけ沢山の人たちが、下地さんを待ってるんです。選手もスタッフも、子どもたちもチームのファンも、みんな、下地さんの復活を信じているんです。だから、病気なんかに絶対負けないでください」

その日から下地の心が、動き出しました。
折り鶴の数と同じ、1万8000回を目指して、毎日、足を動かすことを自らに課しました。
もちろん、感覚のない足が動くはずはありません。
しかし、下地は止めませんでした。
一羽一羽の思いに答えるように、「動け、動け」と念じながら…。
そして4日後、何と、足首が動いたのです!

奇跡の復活

そして、倒れてから約4ヶ月が経った、2007年3月24日。
新潟アルビレックスBBのホーム最終戦が行われる会場で、試合前にあるセレモニーが行われました。
大観衆の前に現れたのは、自分の足で歩く下地の姿でした!

これは、アシスタントコーチである彼のためだけに行われた、異例の復帰セレモニーだったのです。
そこには、彼の復活を願い続けた恩師・安里の姿もありました。

「下地一明…奇跡的な復活を成し遂げることができました。ありがとうございます」(安里)

「手術後、目が覚めて自分の状況を知らされた時、もうバスケットなんかできないんだと思いました。だけど、中野社長、廣瀬監督、いつも自分のために闘ってくれたチームのみんな、会社のみんな、最高の笑顔で応援してくれたスクール生、そして、僕の体をここまで戻してくれた病院の先生方、僕の親代わりをしてくれる沖縄の恩師、3ヶ月間毎日のように足を運んでくれた親友、そして新潟のブースター(サポーター)の皆さんの励ましのお陰でここまで回復できたと思います。これからもバスケットボールを愛し、バスケットボール発展のために精一杯頑張っていきたいと思います。本当にありがとうございました」

病いに倒れること3度、再起不能とまで言われた下地が、奇跡の復活を果たしたのです!

「新潟アルビレックスBB」社長(当時)・中野秀光さん≫
「本当に幸せでした。本当に幸せというか、感謝しましたね、下地君に。よくぞ歩いてくれた」

安里幸男さん≫
「彼は本当に奇跡の人ですよ、それこそ。普通は生きてませんよ。必要とされてるんです、下地一明という男は」

下地一明さん≫
「出て行った瞬間には抑えられない感情が出てしまって、人の温かさだとか、思いだとか、語らずに伝わって来る。その感情が伝わってきたのが分かったので、思わず(セレモニーで)泣いてしまった。今でもそうなっちゃうんですけど、あまり最近 涙もろくなかったんですけど、あの時の(みんなの)正直な気持ちは伝わりましたね。あれがなければ、僕は多分今日ここにも立ってないですし、バスケットの指導者にはなっていなかったのかなという思いはありますね。何か動かされるというのは、人の心なんだな、想いなんだなというのは本当に伝わって。あの時、正直人の優しさってこんなに凄いもんなんだなというのは感じました」

3度に渡って死の淵から蘇り、奇跡の復活を遂げた下地さんは、その後も2年間、新潟アルビレックスBBで、アシスタントコーチとしてチームに貢献した後、2011年2月、同じプロリーグの富山グラウジーズのヘッドコーチに就任し、名実ともに指導者としての地位を確立しました。
そして、チームを史上初のプレーオフ進出へと導いたのち、惜しまれつつも退団。

現在は、地元沖縄でもう1つの夢に挑戦しています。
それは、子供達にバスケットを教えることです。
しかも驚くべきことに、下地さんは松葉杖なしで歩けるようになっていました。
厳しいリハビリの末、ここまで回復を遂げたのです!

16

その傍らには、恩師・安里さんの姿も。
一緒に指導を行うこともあるといいます。

下地一明さん≫
「正直、まだまだ(一人前の)指導者って思ってないんで、不思議な気持ちはありますね」

安里幸男さん≫
「間違いなく、一流のコーチですよ。見ててね、とっても頼もしいですよ。喋り過ぎがちょっと欠点かもしれないけど」

下地一明さん≫
「喋り過ぎは先生から学んだかもしれないです」

”師から教え子へ。バスケットへの情熱は、受け継がれていく。 ”

 

奇跡のバスケットボールコーチ 2016年9月15日 奇跡体験!アンビリバボーまとめ

1

今から9年前の2007年3月24日、プロバスケットボールチームの試合会場で、ある人物のセレモニーが行われました。

その人物は、選手でもなければ、監督でもない、しかしその時、会場は感動と驚きに包まれました。

これは、病いと絶望に立ち向かいながらも、バスケットボールを愛し続けた男の壮絶な物語です。

下地一明さんと安里幸男監督の出会い

今から40年前の1976年、下地一明(しもじ・かずあき)は、沖縄で生まれました。
中学からバスケットを始めた彼は、中3で既に身長191cmでした。

2その後、バスケットの強豪校、沖縄の北谷(ちゃたん)高校に進学しました。
期待を胸にバスケ部に入部したのですが、体育館に行くと怖い顔をした監督が待ち受けていました。

「お前ら、あいさつはどうした!?」

部員よりも早く体育館に来ていたのは、沖縄バスケ界、伝説の指導者と呼ばれる、監督の安里幸男(あさとゆきお)でした。
無名校を全国ベスト4にまで押し上げたこともある名将だったのです。

そんな安里が課す練習の厳しさは、下地の想像以上でした。

「次は、シャトルラン100本!」

朝練は6時半から2時間、放課後は16時から夜遅くまで続きました。

(倒れた下地に)「下地、そんな所で寝るな!倒れたら俺が許すとでも思ったか!」

あまりの辛さに、吐いてしまうこともしばしばでした。

北谷高校バスケットボール部監督(当時)・安里幸男さん≫

3

「(当時の下地は)ウドの大木ですよ。ただそこに大きい子がいるだけの話。走れない、飛べない、守れない、打てない、無い無い尽くしの下地一明だから」

「いいか、今日の反省と課題を自分なりに考えて書くんだぞ」

それは、安里が生徒達に書かせていた練習ノート。
”自分で考えられる人間”に育てるためのものでした。
下地のノートは、課題や反省点が驚くほどしっかり書かれていました。

安里の指導のもと、下地はメキメキと実力をつけ、一年生からレギュラーを獲得しました。
高校を卒業後は、東京の中央大学に進学しました。
リーグ戦で得点王争いのトップを走り、ついには全日本の代表候補入りを果たしました。

しかし、チームの中心になればなるほど、強引なプレーが顔を覗かせるようになっていきました。
しかもそれは、高校時代、安里に指摘されていた欠点でもあったのです。

(安里からの電話)「下地、お前また天狗になっているのか」

「先生、オレ、チームを勝たせようと必死になってて…」

「勝たせるだと!何様のつもりだ。また、俺が俺がの個人プレーか!周りが全く見えてない、そんなのは最低のプレーヤーだ」

しかしこのとき、安里ですら想像できない、黒い影が迫っていたのです。

マルファン症候群による解離性大動脈瘤

1997年10月17日、大学3年で迎えた秋の関東リーグ戦。
下地の得点王がかかっていた試合でした。

相手の肘が胸に接触。
大事を取ってベンチに退いたのですが、胸に激痛が走り、倒れてしまったのです。
いったい何が起こったのか?

すぐさま病院へ搬送され、診断の結果、下されたのは…

”マルファン症候群による解離性大動脈瘤”

生まれつき血管の強度が弱く、壁が裂けやすいため、大動脈の内部に裂け目ができます。
そこに血液が流れ込んで、血管が膨らんでしまう病気です。

5

既に下地の血管は、破裂寸前の状態でした。
何とか、手術は成功したのですが…。

「えっ!?じゃあ、バスケットは?」

「厳しいでしょう。激しい運動を続ければ、命の保証はありません」

「嘘だろ…」

得点王も、日本代表も、全ての夢が消えました。

コーチに転身

失意のまま、一般学生と同じ様に就職活動を行い、1999年下地は、工具メーカー「OSG」に入社。
会社のバスケ部は、実業団に所属するチームでした。
“少しでもバスケに関わっていたい” そう思った下地は雑用しかできませんでしたが、毎日、練習場に顔を出しました。
分かってはいたのですが、それでもいざ選手を見ると、彼らが眩しく見えたのです。

更に…。
「見ろよ、あれ、下地さんじゃない? 代表候補だった…。何でモップなんか掛けてるんだ?」
たまたま練習試合で訪れていた学生たちの話している声が聞こえてきました。
ついこの間までトップ選手だった彼には、屈辱でしかなかったのです。

そんなある日、会社のチームの練習でのこと…。

「なあ、下地」

ある選手が声を掛けてきました。
「またバカにされるのか」と下地は心の中で思いました。

「少し、頼みがあるんだけど。ゴール下のポストプレー、教えてくれないか?」

「……いいですけど」

一人の選手にアドバイスをしていると、他の選手たちからも「教えてい欲しい」と頼まれるようになりました。

”教えるだけなら、この体でも出来る”

下地は、現役時代には得られなかった、新鮮な充実感を感じ始めていました。

2004年(入社から5年)、そんな彼に、人生の転機が訪れることに。
プロバスケットボールチーム「新潟アルビレックスBB」、その2軍チームのコーチ就任の誘いを受けたのです。

所属するメンバー9名は、皆一軍に入り、プロで活躍することを夢見ていました。
しかし現実は、アマチュアの大会ですら初戦で敗退するなど、伸び悩んでいたのです。

「新潟アルビレックスBB」社長(当時)・中野秀光さん≫
「大学時代、病気で倒れるまでの、彼のゴール下のプレーヤーとしての頑固さ。一人ぶら下げててもシュートを決めてくるという、そこのハートの部分に私が惚れて、彼に(コーチとして)来てもらいました」

実はこの少し前(2001年)、下地は「解離性大動脈瘤」を再発していました。
幸い処置が早く、大事には至らなかったのですが、「残されたバスケット人生を指導者として全うしたい」、そう思うようになり、迷わずコーチを引き受けたのです。

かつての自分と同じ選手たち

そして迎えた練習初日、場所は高校の体育館を借りて行う予定だったのですが…。
集合時間にもかかわらず、選手の姿がどこにもありませんでした。
その後、やっと練習に来た選手達に、「体育館を貸してくれた高校の先生に挨拶に行く」と言うと…。

「えっ!?僕らがですか?」

「挨拶は礼儀だ。他人を思いやれない奴に、バスケットなんかできないぞ」

そして練習でも、自分本位な個人プレーが目に余りました。

「だめだ、だめだ!どいつもこいつも、俺が俺がの個人プレーばっかり。周りが全く見えていない。そんなのは最低の…」

それはまるで、かつての自分でした。

「どうしてそんなに一人で決めようとするんだ?」

「決まってるじゃないですか。この中で一番になって、プロに誘われたいですから」

スカウトが目的で、個人プレイに走っていたのです。
一体、どうすれば彼らの考えを正せるのか?
いきなり、下地は難題を抱えました。

すると彼は…。
誰よりも早くコートに来て、準備を始めました。
高校時代の監督、安里の教えを参考にしたのです。

さらに、練習の反省と課題を選手たちに書かせました。
自分で考えられる人間に育てるために。
しかし、どれも「言われたから仕方なく書いた」そんな内容でした。

2軍チームを教える傍ら、下地は、新潟アルビレックスのスクールで、幼い子供たちも指導しました。
「下(しも)コーチ」の愛称で呼ばれるようになっていました。

一方、2軍選手たちの意識改革は、思うようには進みませんでした。
しかしそんなある日、選手達は下地のノートを見つけました。

中には、練習内容だけでなく、選手一人一人が取り組むべき課題が、こと細かに書かれていました。

「ヤマ、ピボットの使い分け。スタンスの確認」

「シマ、ボールミートの徹底!」

「今日は気持ちの問題であり、自分たちがどうあるべきかを忘れてしまった。明日は自信を持って、バスケットボールを楽しんでほしい。自分たちを信じて」

チームを強くしたいだけじゃない、一人一人をちゃんと思ってくれている…。
そのことに気づいた選手達は、少しずつ変わっていきました。

その変化は、彼らが記していたノートにも…。

「自分の中で一番反省しているのが、シュートミスやイージーミスやフリースローを外したりしてしまい、チームが波に乗れなかったことです。ディフェンス面は自分はまだまだだったけど、チームディフェンスは良かったと思います」

仲間を思う気持ち、チーム意識の高まりが、ノートに表れ始めました。

新潟アルビレックスBB元育成選手・寺下太基さん≫
「僕らは、バスケットだけしてればいいという気持ちでいたので、実際僕らも勘違いしていたという事もあるし、下地さんがそれに気づかせてくれた。全員が練習の用意したり、全員で最後に後片付けしたりだとか、バスケット以外の事で、人としてだとかルールだとか規律だとか、一から鍛え直されました」

次第に選手たちの思いと、下地の情熱が一つになり、一丸となったチームは、大会ごとに着実に力をつけていきました。
そしてこの年(2005年)、新潟県代表として出場した全日本クラブ選手権、1年前には初戦敗退していたこの大会で、初の準優勝を勝ち取ったのです!

そして翌年のプロを選抜するドラフト会議で、合計4人もの選手が念願のトップチーム入りを果たしました。
こうした指導力が評価され、下地は新潟アルビレックスBBの、1軍プロチームのアシスタントコーチへ昇格、チームメンバーと共に歩き出しました。
2度目の発症から5年、ようやく居場所を見つけました。

3度目となる「解離性大動脈瘤」の発症

しかし、恐れていた事が……。
2006年11月、3度目となる「解離性大動脈瘤」の発症でした。

チームの埼玉遠征中に発症し、そのまま昏睡状態に。
手術から一週間が経っても、下地が目覚める様子はありませんでした。
そこに、報せを受け、沖縄から安里がやって来ました。

「下地、いつまで寝ているつもりだ。返事をしろ」

「お前の事を、ずっと心配していたんだぞ。大学の時も、コーチになった時も」

「いいか、お前はチームから期待されてるんだ。その期待を裏切る気か。そんな奴は最低だぞ」

安里は必死に下地に声をかけました。

北谷高校バスケットボール部監督(当時)・安里幸男さん≫
「呼び戻すしかない。できることはそれだなと。僕の力で呼び戻せる訳ではないんだけど、(病院に)行って、彼のちょっとした力になれないかなと思って、そういう思いだけで行ったんですね」

そして手術から一ヶ月が経った頃(12月19日)。
ようやく、昏睡状態から脱しました。
しかし、辛うじて首と手の指が動くだけ、腕も足も全く動きませんでした。

大動脈瘤によって、血流の大部分が遮断されると、運動機能を司る脊髄に血液が行き渡らず、脊髄自体が機能不全に陥ることがあります。
そして、一度機能しなくなった脊髄は、たとえ手術で瘤を解消したとしても、機能が回復するとは限りません。
それは、立つ事も歩く事も厳しいことを意味していました。

しかし社長の中野は、絶対にチームに復帰させるつもりでいました。

「新潟アルビレックスBB」社長(当時)・中野秀光さん≫
「もう歩けなくなろうが、車椅子でベンチに座っていて構わないと思っていました。技術を教えなくても彼はハートを教えられますので。君の戻る場所はここしかない…」

目覚めてから5日目。
リハビリを始めるも、やはり手足は動かず、気持ちだけが先走りました。

「お願いします、立たせてください」

「それはまだ…」

「無理矢理にでもいいですから!」

しかし、裸足なのに、床の冷たさを感じることができませんでした。
それは、神経が機能していないことを意味していたのです。

「リハビリは、もういいです」

「えっ!?」

「無理です、もう…」

「いや、これからの頑張り次第で…」

「やったって意味ないんです。どうせもう動けないんだ。何も出来ないんですよ、俺はもう…」

以来、一切のリハビリを拒否、生きる希望すら失っていました。

応援してくれる人たち

そんな時、2軍時代から指導していた寺下選手が見舞いにやって来ました。
寺下は、他の選手達の応援メッセージを録音したテープを持ってきていました。

「こんにちは下地さん、公威です。下地さん、元気ですか?色々メッセージが聞けるという事なんで。下地さんと一緒に遠征に行った途中、色々話してくれましたよね。その話が僕にとって、すごく宝物です。下地さん頑張って、また一緒にバスケットしましょう」

「下地さん 杉山です。下地さんが帰ってきた時に、杉山はホント馬鹿だなって言われないように、しっかりとフォーメーション覚えて頑張っていこうと思っています。下地さんも頑張ってください」

「下地さん 早く良くなって帰ってきてください。最後見た自分より、いいプレーヤーになってるように頑張ります」

「下地さん 寺(下)です。下地さんの復活を誰よりも待ってます」

共に汗を流した、アルビレックスの選手たち、そしてコーチ陣からの熱いエールでした。

さらに、スクールの子供達と、父兄が作ってくれたメッセージカード。
そして、皆が折ってくれた、合計1万8千羽もの折り鶴でした。
実は、チームのファンやスクール生の親が一丸となり、各試合会場で折ってくれていたのです。

12

「これだけ沢山の人たちが、下地さんを待ってるんです。選手もスタッフも、子どもたちもチームのファンも、みんな、下地さんの復活を信じているんです。だから、病気なんかに絶対負けないでください」

その日から下地の心が、動き出しました。
折り鶴の数と同じ、1万8000回を目指して、毎日、足を動かすことを自らに課しました。
もちろん、感覚のない足が動くはずはありません。
しかし、下地は止めませんでした。
一羽一羽の思いに答えるように、「動け、動け」と念じながら…。
そして4日後、何と、足首が動いたのです!

奇跡の復活

そして、倒れてから約4ヶ月が経った、2007年3月24日。
新潟アルビレックスBBのホーム最終戦が行われる会場で、試合前にあるセレモニーが行われました。
大観衆の前に現れたのは、自分の足で歩く下地の姿でした!

これは、アシスタントコーチである彼のためだけに行われた、異例の復帰セレモニーだったのです。
そこには、彼の復活を願い続けた恩師・安里の姿もありました。

「下地一明…奇跡的な復活を成し遂げることができました。ありがとうございます」(安里)

「手術後、目が覚めて自分の状況を知らされた時、もうバスケットなんかできないんだと思いました。だけど、中野社長、廣瀬監督、いつも自分のために闘ってくれたチームのみんな、会社のみんな、最高の笑顔で応援してくれたスクール生、そして、僕の体をここまで戻してくれた病院の先生方、僕の親代わりをしてくれる沖縄の恩師、3ヶ月間毎日のように足を運んでくれた親友、そして新潟のブースター(サポーター)の皆さんの励ましのお陰でここまで回復できたと思います。これからもバスケットボールを愛し、バスケットボール発展のために精一杯頑張っていきたいと思います。本当にありがとうございました」

病いに倒れること3度、再起不能とまで言われた下地が、奇跡の復活を果たしたのです!

「新潟アルビレックスBB」社長(当時)・中野秀光さん≫
「本当に幸せでした。本当に幸せというか、感謝しましたね、下地君に。よくぞ歩いてくれた」

安里幸男さん≫
「彼は本当に奇跡の人ですよ、それこそ。普通は生きてませんよ。必要とされてるんです、下地一明という男は」

下地一明さん≫
「出て行った瞬間には抑えられない感情が出てしまって、人の温かさだとか、思いだとか、語らずに伝わって来る。その感情が伝わってきたのが分かったので、思わず(セレモニーで)泣いてしまった。今でもそうなっちゃうんですけど、あまり最近 涙もろくなかったんですけど、あの時の(みんなの)正直な気持ちは伝わりましたね。あれがなければ、僕は多分今日ここにも立ってないですし、バスケットの指導者にはなっていなかったのかなという思いはありますね。何か動かされるというのは、人の心なんだな、想いなんだなというのは本当に伝わって。あの時、正直人の優しさってこんなに凄いもんなんだなというのは感じました」

3度に渡って死の淵から蘇り、奇跡の復活を遂げた下地さんは、その後も2年間、新潟アルビレックスBBで、アシスタントコーチとしてチームに貢献した後、2011年2月、同じプロリーグの富山グラウジーズのヘッドコーチに就任し、名実ともに指導者としての地位を確立しました。
そして、チームを史上初のプレーオフ進出へと導いたのち、惜しまれつつも退団。

現在は、地元沖縄でもう1つの夢に挑戦しています。
それは、子供達にバスケットを教えることです。
しかも驚くべきことに、下地さんは松葉杖なしで歩けるようになっていました。
厳しいリハビリの末、ここまで回復を遂げたのです!

16

その傍らには、恩師・安里さんの姿も。
一緒に指導を行うこともあるといいます。

下地一明さん≫
「正直、まだまだ(一人前の)指導者って思ってないんで、不思議な気持ちはありますね」

安里幸男さん≫
「間違いなく、一流のコーチですよ。見ててね、とっても頼もしいですよ。喋り過ぎがちょっと欠点かもしれないけど」

下地一明さん≫
「喋り過ぎは先生から学んだかもしれないです」

”師から教え子へ。バスケットへの情熱は、受け継がれていく。 ”

[出典:アンビリバボー2016.9.15]

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