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【FOREVER】 高倉健さん特集 人気映画ポスターと写真画像で偲ぶその素顔

      2017/02/04

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映画「幸福の黄色いハンカチ」「南極物語」「鉄道員(ぽっぽや)」などで知られる俳優の高倉健(本名:小田剛一)さんが、2014年11月10日午前3時49分、東京都内の病院でご逝去されました。享年83歳。高倉さんは遺作となった2012年の主演映画「あなたへ」の収録後、次回出演作の準備中、体調を崩し入院。以来、現在まで治療中でした。

葬儀は高倉さんの遺志で近親者のみで既に済ませたとのこと。所属事務所「高倉プロモーション」は「生ききった安らかな笑顔でございました」とのメッセーを伝えました。

同事務所からマスコミ宛てに送られたFAX内容は次の通り。

映画俳優 高倉健は、次回作準備中、体調不良により入院、治療を続けておりましたが、容体急変にて11月10日午前3:49都内の病院にて旅立ちました。生ききった安らかな笑顔でございました。

病名 悪性リンパ腫「往く道は精進にして、忍びて終わり悔いなし」83歳の命を全う致しました。

治療に携わって下さいました病院スタッフの皆様から温かい涙とともにお見送りを戴き、故人の遺志に従い、すでに近親者にて密葬を執り行いました。

これまで、お励まし戴きました皆様、心より深く感謝申し上げます。有難うございました。

今は、お一人おひとりの心の中に宿る故人の笑顔に、静かに祈りを捧げて戴けますことを願っております。

尚、勝手ではございますが、供花、供物などご遠慮させて戴きますこと、あわせてご了承下さいますようお願い申し上げます。

合掌

2014年11月18日

高倉プロモーション

高倉健さんは福岡県中間市出身で、福岡県立東筑高等学校時代に英語とボクシングに興味を持ち、貿易商を目指して明治大学商学部を卒業。

後、希望する就職先がなく、一旦帰郷するものの、1955年(昭和30年)に大学時代の知人のツテで東映ニューフェイス第2期生として東映に入社。

入社後、わずかひと月半で、映画「電光空手打ち」の主役デビューが決定。

 


網走番外地(予告編)

1977年公開の「幸福の黄色いハンカチ」は、北海道を舞台としたロードムービーで、網走刑務所から出所した不器用ながら情に厚い中年男を演じ、第1回「アカデミー賞」最優秀主演男優賞を受賞。また、同作品も「アカデミー賞」最優秀作品賞を受賞。


幸福の黄色いハンカチ(予告編)

ブラック・レイン


遺作となった映画:あなたへ(予告編)

プロフィール

高倉 健(たかくら けん、1931年2月16日 – 2014年11月10日)は、日本の俳優・歌手。

愛称、健さん。福岡県中間市出身、身長180cm、血液型B型。

高倉プロモーション所属。戦後の日本を代表する映画スターである。

半世紀以上活躍しており、代表作は映画『網走番外地』シリーズ、『日本侠客伝』シリーズ、『昭和残侠伝』シリーズ、『新幹線大爆破』、『幸福の黄色いハンカチ』、『八甲田山』、『南極物語』、『鉄道員(ぽっぽや)』など、いずれも邦画史上に残るヒットを記録している。

2006年度文化功労者。2013年には文化勲章を受章した。

生い立ち


1931年に福岡県中間市の裕福な一家に生まれる。父は旧海軍の軍人で、炭鉱夫の取りまとめ役などをしていた。母は教員だった。

幼少期の高倉は、肺を病み、虚弱だった。終戦を迎えた中学生の時、アメリカ文化に触れ、中でもボクシングと英語に興味を持った。学校に掛け合ってボクシング部を作り、夢中になって打ち込み、戦績は6勝1敗だった。

英語は小倉の米軍司令官の息子と友達になり、週末に遊びに行く中で覚え、高校時代にはESS部を創設して英語力に磨きをかけた。

福岡県立東筑高等学校全日制課程商業科を経て、貿易商を目指して明治大学商学部商学科へ進学。在学中は相撲部のマネージャーを1年間務めていた。大学卒業後、思ったような就職先がなく一旦帰郷した。

俳優へ


1955年に大学時代の知人のつてで、美空ひばりらが所属する新芸プロのマネージャーになるため喫茶店で面接テストを受けたが、その場に居合わせた東映東京撮影所の所長で映画プロデューサー・マキノ光雄にスカウトされ、東映ニューフェイス第2期生として東映へ入社。

同期に今井健二・丘さとみ・岡田敏子・五味龍太郎らがいる。

当時、ニューフェイスは映画デビューまでに俳優座演技研究所で6か月の基礎レッスン、さらに東映の撮影所で6か月の修行(エキストラ出演など)を経験することが決められていたが、俳優座研究所では「他の人の邪魔になるから見学していてください」と云われる落ちこぼれだったという。

しかし採用から1か月半で主役デビューが決定、その際にマキノの知人から「高倉健」と芸名をつけられる。本人はシナリオに書かれてあった主人公の役名「忍勇作」が気に入り、「これを芸名に」と希望したが却下され、嫌々ながらの芸名デビューともなった。

演技経験も皆無で、親族に有名人や映画関係者がいるわけでもない無名の新人だったが、翌1956年の映画『電光空手打ち』で主役デビュー。元々俳優を目指していた訳ではなかったことから、初めて顔にドーランを塗り、化粧をした自分を鏡で見た時、情けなくて涙が止まらなかったという。

その後、アクション・喜劇・刑事・ギャング・青春もの・戦争・文芸作品・ミステリなど、幅広く現代劇映画に出演し、この頃から主演スターの一人として活躍していたが、まともな演技のトレーニングも受けたこともないまま、数多くの作品に出演し続けることがコンプレックスになっていた。1960年代前半まで時代劇映画をメインにしていた東映では、片岡千恵蔵・中村錦之助・美空ひばりの映画などにも助演していた。

仁侠映画


1963年に出演した『人生劇場 飛車角』以降、仁侠映画を中心に活躍。1964年から始まる『日本侠客伝シリーズ』、1965年から始まる『網走番外地』シリーズ、『昭和残侠伝シリーズ』などに主演。『網走番外地』シリーズの主題歌(同タイトル)は、のちに歌詞の一部が反社会的であるとの理由で一時は放送禁止歌になったが公称200万枚を売り上げ、『昭和残侠伝』シリーズの主題歌『唐獅子牡丹』もカラオケなどで歌い継がれている。

70年安保をめぐる混乱という当時の社会情勢を背景に、「不条理な仕打ちに耐え、ついには復讐を果たす着流しのアウトロー」である高倉演じる主人公は、学生運動に身を投じる学生を含め、当時の男性に熱狂的な支持を受けたが、本人は年間10本以上にも及ぶ当時のハードな制作スケジュール、毎回繰り返される同じようなストーリー展開、という中で心身ともに疲弊し、気持ちが入らず不本意な芝居も多かったという。

そうした中で、何度か自ら映画館に足を運んだ際、通路まで満員になった観客がスクリーンに向かって喝采し、映画が終わると主人公に自分を投影させて、人が変わったように出ていくさまを目の当たりにし、強い衝撃を受けたという。

これについて「これ、何なのかな……と思ったことあるよ。わかりません、僕には。なんでこんなに熱狂するのかな、というのは。だからとっても(映画というのは)怖いメディアだよね。明らかに観終わった後は、人が違ってるもんね」と、当時の様子を客観視し語っている。

当時の風貌は、劇画『ゴルゴ13』の主人公・デューク東郷のモデルにもなり、同作の実写映画版への出演は、原作者のさいとう・たかをたっての要望であったという。

独立


映画『カミカゼ野郎 真昼の決斗』 (1966年、にんじんプロダクション / 國光影業) を皮切りに、ハリウッド映画や東映以外の作品にも出演していたが、1970年に「ヤクザ映画にも出演し続けるが、好きな映画を作る自由も認めてほしい」と、東映社長・大川博の了承をもらい、高倉プロを設立する。しかし翌1971年8月に大川が死去。社長が岡田茂に代わり、特例は認めないと反故にされた。

1972年11月、高倉の海外旅行が、“高倉健 蒸発”、“仕事を放り出して蒸発することで、高倉プロを認めさせる最後の手段に出た”と報道された。帰国した高倉は「僕はそんな手段を使って、会社とやり合うようなケチな根性は持ってない」と説明したものの、1973年の『仁義なき戦い』がヒットしてから、岡田は「鶴田浩二も高倉健もしばらく止めや」と実録路線に変更したため、高倉と岡田の関係は悪化。

「このまま東映にいたら、ヤクザ役しかできなくなる」という危機感も加わり、東映作品の出演を拒みだした高倉は、1976年に退社した。

フリー転向後、同年の映画『君よ憤怒の河を渉れ』(永田プロ / 大映) にて主演。10年以上、出演し続けた仁侠映画のイメージから脱却した。1977年には『八甲田山』、『幸福の黄色いハンカチ』の2作品に主演し、第1回日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞と、第20回ブルーリボン賞の主演男優賞のダブル受賞に輝いた。

これ以後も数々の作品に出演し、合計4度の日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞、2度のブルーリボン賞の主演男優賞に輝いている。これと前後してアメリカ映画や中国映画などの海外作品にも出演しており、1998年には紫綬褒章を受章した。一方でテレビドラマへの出演は1977年の初主演作『あにき』をはじめ、5作品である。

その出演理由も「故郷にいる母親に、テレビで毎週自分の顔を見て安心して欲しいから」というものである。CMにも数多く出演しているが、富士通のパソコンFMVのCMでは『幸福の黄色いハンカチ』で夫婦を演じた倍賞千恵子と再び夫婦役で共演、コミカルな演技を見せた。2006年4月2日の『世界遺産』(TBS)で初めてナレーションを務めた。

晩年


2005年8月12日、『網走番外地』シリーズの石井輝男監督が死去。石井の遺志により、網走市内の潮見墓園に墓碑が建立され、2006年8月5日、納骨の儀が執り行われた。“安らかに 石井輝男”と記されたこの墓碑の碑文は、高倉によってしたためられたものである。

2006年11月に行われた天皇・皇后主催の文化勲章受章者・文化功労者を招いたお茶会に出席して以来、公の場から離れ、姿を見せていなかったが2009年11月、同年8月に亡くなった女優の大原麗子の墓参に訪れ、掃除をし、30分以上語りかけていたことが2010年8月に報じられた。

2012年8月、前作『単騎、千里を走る。』から6年ぶり、205本目の主演作品となる映画『あなたへ』で銀幕復帰。11月27日、本作により「第37回報知映画賞」主演男優賞を受賞した。高倉の同映画賞での受賞は1977年に『八甲田山』、『幸福の黄色いハンカチ』で主演男優賞を受賞して以来、35年ぶりである。

本作では12月6日に発表された「第25回日刊スポーツ映画大賞・石原裕次郎賞」でも主演男優賞を受賞。作品は石原裕次郎賞を受賞した。2013年1月22日に発表された日本アカデミー賞優秀主演男優賞にも選出されたが、「若い人に譲りたい」との理由で、これは辞退している。受賞辞退は2002年の『ホタル』以来2度目となる。

同年10月2日、『あなたへ』で共演した大滝秀治が肺扁平上皮がんのため、87歳で死去。訃報を受け、公式に「大滝さんの最後のお仕事の相手を務めさせていただき、感謝しております。本当に素晴らしい先輩でした。静かなお別れができました」とのコメントを発表した。

2012年10月10日には「五十有余年におよぶ活躍と、孤高の精神を貫き、独自の境地を示す映画俳優としての存在感」により、第60回 菊池寛賞に選出された。授賞式は欠席し、代理人を通じて「思いがけない受賞で驚いています。非常に光栄です。ありがとうございます」とのコメントを寄せた。

2013年6月5日、横浜市のロイヤルホールヨコハマで行われた勝新太郎の『17回忌を偲ぶ会』では渡哲也・藤村志保らとともに発起人に名を連ね、会場にも足を運んでいる。

同年10月25日、政府は高倉を含む5人に文化勲章を授与することを決定、11月3日、皇居で親授式が行われた。この受章に際しては「今後も、この国に生まれて良かったと思える人物像を演じられるよう、人生を愛する心、感動する心を養い続けたいと思います」とのコメントを発表している 。

2014年、8月26日に亡くなった米倉斉加年のお別れの会が10月13日に開かれた際に、故人に宛てて弔電を発したのが公の場での最後の活動となった。同年11月10日午前3時49分、悪性リンパ腫のため東京都内の病院で死去した。83歳没。

人柄


礼儀正しい人物として知られ、すべての共演者に挨拶を忘れず、監督やプロデューサーをはじめ、若い新人俳優やスタッフにも必ず立ち上がり、丁寧にお辞儀して敬意を払う。

1984年の日本生命のCMでの「自分、不器用ですから」の台詞で武骨で寡黙なイメージがあるが、実際は常に誰かが側に居てほしいと言うほどに話し好き、いたずら好きで、ユーモアを交えながら共演者やスタッフを和ませている。またロケ先では周辺を散策し、地元の住民との交流も欠かさない。

千葉真一は高倉を “ 一生あこがれの存在で永遠の師匠 ” と公言している。

「(千葉が)デビューして間もない頃、健さんが食事によく連れて行ってくれた。また、学生服しか持っておらず、取材向きの洋服がない時に健さんからスーツをもらった」

「役者として少し売れてきた後でも(千葉自身の)撮影がない時には、健さんの付き人をしていた」

「(千葉が)離婚した時に健さんから手紙で励まされ、それが心の支えになった」

「(千葉が)東映の労働組合委員長と撮影進行で衝突して、映画界を辞めようと思った時に、健さんが思いとどまらせ、一緒に謝ってくれた」
など
「健さんは厳しい人だけど、ちゃんと愛がある。そばにいて、俳優としても人間としても、大切なことをいっぱい教わった」と語っている。

役者として人間として尊敬している人物は多く、『幸福の黄色いハンカチ』で共演した武田鉄矢は、現場で高倉を発見すると100メートルほど離れた所からでも「健さーん!」と叫びながら手を振り、全力疾走で走ってきたという。

石倉三郎、小林稔侍、板東英二らからもこよなく慕われており、石倉は芸名に「倉」の字をもらい、小林も息子の名前に「健」を付けている。

気持ちの通じ合った共演者にはブライトリング、ロレックス、ヴァシュロン・コンスタンタンなどの腕時計やライターなど、記念の品に感謝の言葉と「高倉健」の名前を彫ったモノをプレゼントする習慣があり、千葉真一、田中邦衛、渡瀬恒彦、板東英二、宇崎竜童、ビートたけしが貰っている。

田中も高倉をこよなく尊敬し、出かける際にはその時計を身に付けている。『あなたへ』で共演した岡村隆史は撮影現場での取材中、「岡村! 嘘ばっか言ってんじゃないよ(笑)!」と近寄ってきた高倉から、「忘れもんだよ」と高倉の私物であるポルシェ911のキャップ(帽子)にオリジナルのバッジが添えられた物を、プレゼントされている。

『ブラック・レイン』で共演したマイケル・ダグラスは大阪京橋の野外シーンロケで、日本人のファンが高倉に憧れて接する姿を目撃。

その様子をダグラスは「アメリカではブルース・スプリングスティーンの時だけだよ。あんなに尊敬される姿を見られるのは!」と驚いていた。

『君よ憤怒の河を渉れ』が中華人民共和国に輸入され、中国人の半分が観たともいわれており、宣伝のために田中邦衛と訪中した時、宿泊先のホテルには高倉を一目見たいというファンが大勢詰め掛けた。

高倉のファンである映画監督・張芸謀(チャン・イーモウ)は『単騎、千里を走る。』の撮影の際、高倉が休憩の時に椅子に一切座らず、他のスタッフに遠慮して立ち続けていたことや、現地採用の中国人エキストラ俳優にまで丁寧に挨拶していたのを見て「こんな素晴らしい俳優は中国にはいない」と発言している。2006年4月には北京電影学院の客員教授に就任している。

『夜叉』で共演したビートたけしは撮影中のエピソードとして、真冬の福井ロケのある日、オフだったにもかかわらず、高倉がロケ現場へ激励に現れた。厳しい寒さの中、出演者・スタッフは焚火にあたっていたが、高倉は全く焚火にあたろうとしない。

スタッフが「どうぞ焚火へ」と勧めるが、高倉は「自分はオフで勝手に来た身なので、自分が焚火にあたると、皆さんに迷惑がかかりますので」と答えた。このためスタッフだけでなく、共演者誰一人申し訳なくて、焚火にあたれなかったと発言している。

やがて「頼むからあたってください。健さんがあたらないと僕達もあたれないんです」と泣きつかれ、「じゃあ、あたらせていただきます」となり、やっと皆で焚火にあたることができた。撮影初日が終わり、役者・スタッフの泊まる旅館へ到着し、食堂へ行くと、高倉と監督の前だけ、皆とは違った「ふぐ刺し」が並んでいた。

これを見た高倉は「自分も皆さんと同じ料理にしてください」と遠慮し、手をつけなかったという。突然の事で数も揃わないことから、高倉と監督以外は「カワハギの薄造り」で急場をしのぎ、事なきを得たという。

漫才師から役者業に進出してきたたけしに対抗して、田中邦衛と組んで漫才界に進出しようという話題になったことがあり、田中は「止めといたほうがいい」と制止した。高倉が「それじゃお前は何をやるんだ?」と言うと、田中は「二種免許取ります」と返答したという。たけしは高倉と田中がタクシーの運転手になる可能性を、真剣に検討していることに大ウケした。

昼間に高倉とたけしが車に同乗して移動していた時に、渋谷駅ハチ公改札前近くのスクランブル交差点で信号待ちの為に停車したところ、高倉は窓を開けていきなり「おーい、高倉ー!」と大声で何度も車外へ叫び続け、信号が変わり車が走り出すとようやく窓を閉めて元に戻り「いやあ、こんなに沢山の人が通っているのに、誰も気が付かないもんなんだなあ、俺がここに居るって」と独りで喜んでいた。

高倉とたけしが車に同乗していることを多数の一般人に知れてしまうと、野次馬で混乱が発生する危険性が容易に予想されたにも拘らず、大都会での他人に対する無関心を逆手にとって面白がっていたとたけしが語っている。

役作り・姿勢


余計なテクニックを廃し、最小限の言葉で、演じる人物の心に込み上げるその瞬間の心情を表す台詞・動きを表現する芝居を真骨頂としており、基本的に本番は1テイクしか撮らせない。これについて「映画はその時によぎる本物の心情を表現するもの。同じ芝居を何度も演じる事は僕にはできない」と述べている。

また「普段どんな生活をしているか、どんな人と出会ってきたか、何に感動し何に感謝しているか、そうした役者個人の生き方が芝居に出ると思っている」としており、肝に銘じているという。

「俳優にとって大切なのは、造形と人生経験と本人の生き方。生き方が出るんでしょうね。テクニックではないですよね」とも言い切る。仕事に対する姿勢の一端として「親族の葬儀なども一度も参列していないし、それを理由に撮影中止にしてもらったことはない。それは自分にとってのプロとしてのプライドであり、課してきたこと」「(この仕事に就いた時から)捨ててるもんだと思いますよ。捨てなくたって、やろうと思えばできるんだもんね」と語っている。

『あ・うん』撮影時に母親を亡くした時も葬儀には参列せず、軽妙な役柄を演じ切った。
「俳優にとって身体は唯一の資本」を信条とし、細心の注意を払っている。筋力トレーニング・ジョギングを欠かさなかったが、2012年時点ではウォーキングやストレッチを日課としている。

トレーニングの際には脳への刺激や咀嚼力の維持を目的に、マウスピースを使用している。酒を飲まず、煙草も1日に80本も吸うヘビースモーカーであったが、映画『八甲田山』が3年がかりの長期ロケとなったため、完成の願掛けに正月の成田山の初詣の際、禁煙して以来、30年以上絶っている。

都内に居る時には毎日、血糖値測定や健康チェックを行い、朝食ではミューズリーやグラノーラなどのシリアルにプレーンヨーグルトをかけたものを常食とし、毎日しっかり摂ることで体のリズムを整え、夕食まで殆ど食べない生活を続けている。

こうした努力により、体重は70 kg以下を維持しており、若い頃からウエストサイズは変わっていない。

自身は賭け事も一切せず、麻雀好きの片岡千恵蔵からは「麻雀ができないで、なんで良い役者になれるか 健坊」と何度も怒られたが、結局覚える事は無かったという。また銀座のような歓楽街に出ていくこともしない。

この事については「変わってると言えば、変わってるのかもしれないね。だから『色気が無い』とか言われちゃうんじゃないの? やっぱりそっちを少しは勉強しておかなくちゃいけなかったのかもしれない。でももう遅いからね、それは……」と述懐している。

このような仕事への真摯な姿勢は北大路欣也も影響を受けたと述べている。

本来はチョコレートなど甘い物好きであるが、我慢するように心がけているという。ビートたけしは『夜叉』の撮影中の話として、現場で食事を殆ど口にしない高倉だが、待ち時間には付き人に声をかけ、チョコレートの詰め合わせの箱を持って来させて、中から大好きな「ナッツ入りチョコレート」を選んで食べていたという。

ある日付き人がそのお気に入りのチョコレートを食べてしまった事から「俺の好きなナッツの入ったやつ、まだ残ってたろ? なんで喰っちまったんだよ!!」と子供のように口を尖らせて怒っている様子を目撃し、イメージとのギャップに思わず笑ってしまった、と語っている。

撮影現場で座らないということについて「疲れますよ、やっぱり。ただ、座ると何となくもう・・・。だんだん精神的にファイトが無くなるような気がして、立っていたほうがいいなと・・・」と自分に課した事のひとつである事を明かしている。

一方では「たけちゃんがあっちこっちで『座らない』『火に近づかない』なんて言うもんだから、おいそれと出来なくなった」と冗談にして答えている。「撮影現場でも座りますよ」とも語っているが、それはあくまで「座っている場面を演じている時に……」である。

何よりも「現場に居てこそ感じられる事がある。その場の景色や空気、スタッフの努力など、見ていて鳥肌が立つ思いの時がある。だからこそここに居たい」「自分よりもお金を貰っていない人たちのほうがはるかに頑張っている。

現場はそうした人たちによって成り立っている。そんなことに気づくまで何十年もかかった」と、出番以外も常に現場に立ち続ける事への思いを語っている。

完全なオフの期間を含めて都内にいる時にはほぼ毎日、40年来懇意にしている港区高輪にある理髪店に通い、髪を切っている。ここには高倉専用の個室が用意されており、撮影に入る際には店主と髪型を打ち合わせて、役柄のイメージでカットしてもらう。この個室で長時間過ごす事もあり、高倉の私物も数多く持ち込まれている。事務所からの連絡を受けるためにFAX電話も設置されている。

常に感性に磨きをかけ、「感じやすい心」を保っておくために、読書や刀剣・美術品鑑賞、映画、音楽など、常に気に入ったものに触れる機会を作り、海外旅行へも出かけていく。撮影に際して、台本のカバーや裏表紙には有名、無名に関係なく、気に入った「心を震わせる」フレーズや詩歌などを貼りつけたり、忍ばせて持ち歩いている。

『あなたへ』の撮影では、相田みつをの詩や会津八一の短歌などと一緒に、雑誌に掲載されていたという東日本大震災の被災地での1コマを撮影した写真も一緒に貼りつけて持ち歩いていた。

山本周五郎の著作のフレーズや、主人公の生き方について書かれた木村久邇典の『男としての人生 – 山本周五郎のヒーローたち 』もお気に入りの1冊として持ち歩いている。

長期間の撮影の中では、ベテランの高倉でも感情のコントロールが出来ない時があり、そうしたときは持っているこうした物にすがっているという。また台本だけでなく、自宅の洗面所などにもこうしたものが貼られており、気持ちを盛り上げている。この事について「俳優ってそれほど頼りないものなんですよ」と語っている。

映画『網走番外地」ではヒロインもラブロマンスも無く、刑務所や脱獄が主題の映画となって売り上げが見込めないと予算をカットされた。添え物映画でモノクロ作品にすると社長の大川博に言われ、意見すると「嫌なら主演を梅宮辰夫に変える」とまで言われてしまう。仕方なくロケ地の北海道で撮影に入ったが、監督の石井輝男がなかなかやって来ない。

スタッフと様子を見に旅館へ行くと、石井が窓の隙間から雪が入り込んだ粗末な部屋で丸くなって寝ていた。高倉は「この映画をヒットさせるためなら…。監督を笑顔にするためなら、俺はどんなことでもするぞ」とスタッフに漏らし、『網走番外地』シリーズは年2、3作、計18作のシリーズとなった。

1976年に東映から独立以降、作品の内容、スタッフ、ギャラなど自分が本当に納得できる作品を選んで出演している。一方で、「より厳しい状況に身を置いて、役者としての自分を磨くこと」も信条としている。

初の松竹出演となった『幸福の黄色いハンカチ』の冒頭で、刑務所から刑期を終え出所した直後の食堂で、女性店員についでもらったグラスに入ったビールを深く味わうように飲み干した後、ラーメンとカツ丼を食べるシーンがある。

その収録で「いかにもおいしそうに飲食する」リアリティの高い演技を見せ、1テイクで山田洋次監督からOKが出た。あまりにも見事だったので、山田が問い尋ねると「この撮影の為に2日間何も食べませんでした」と言葉少なに語り、唖然とさせた。

1983年、降旗康男監督作品『居酒屋兆治』の準備が進行していた頃、黒澤明監督作品『乱』に「鉄修理(くろがねしゅり)」役での出演を打診されている。「でも僕が『乱』に出ちゃうと、『居酒屋兆治』がいつ撮影できるかわからなくなる。僕がとても悪くて、計算高い奴になると追い込まれて、僕は黒沢さんのところへ謝りに行きました」と述懐している。

黒澤は当初から高倉を想定してこの役を書いており、この時には自ら高倉宅へ足繁く4回通い、「困ったよ高倉君、僕の中で鉄(くろがね)の役がこんなに膨らんでいるんですよ。僕が降旗君のところへ謝りに行きます」とまで申し出ているが、高倉は「いや、それをされたら降旗監督が困ると思いますから。

二つを天秤にかけたら誰が考えたって、世界の黒澤作品を選ぶでしょうが、僕には出来ない。本当に申し訳ない」と謝罪、この話を断った。黒澤からは「あなたは難しい」と言われたが、その後偶然『乱』のロケ地を通る機会があり、「畜生、やっていればな……」と、後悔の念があったと語っている。

東映を離れ、フリーに転じてから、1つの作品を終えるたびにスクリーンから離れ、マスコミや公の場から距離を置く事を決まり事としている。それは、1つの作品を終えるたびに高倉を襲うという、“深い喪失感”に関係しているという。

特に『あなたへ』に主演する前には、自身最長となる6年間の空白期間が生じた。前回主演した日中合作の映画『単騎、千里を走る。』の後、中国人の共演者やスタッフたちと別れるときに感じた気持ちと『あなたへ』の出演を決めたことについて、

「分かんないね……。多分ね、この別れるのに涙が出るとかっていうのは、お芝居ではないところで、泣いているのだと思うんですよね。ああ楽しかったとか、別れたくないとか、もう二度と会えないかもしれないとか。
特に中国のスタッフは。だから、そういうものを自分がお金に取っ替えてるっていう職業ってのは、悲しいなあってどっかで思ったのかもしれないね。それを売り物にするものでは、ないんじゃないかなっていう。
でもしょうがないですよね、同じ人とずっとはやれないんだから。そういう切ない仕事なんですよ。だから、それはそんなに気を入れなければいいんだっていう、そのこともわかってるんだけども、やっぱり出会って仕事だ、出会って仕事だって言う。
分かってるんだけど、強烈なのを受けると、しばらく。なんとなく、恋愛みたいなものなんじゃないの。多分、恋愛だよね。じゃなきゃ泣きませんよ。お金もらうところじゃないんだもん、映ってないところで泣くんだから。泣くんですよ。大の大人が(笑)。
それが中国は強烈だったってことでしょうね。いや、今でも分かりませんよ。じゃあ、なんで今度(『あなたへ』)はやったのって言ったら、こんなに断ってばかりいると、またこれ断ったら(降旗)監督と、もうできなくなる年齢が来てるんじゃないかなと、2人とも。それはもう1本撮っておきたいよなっていうのが、今回の。本音を言えばそうかもしれないよ」

と、その心情を初めて漏らしている。

交友


東京アメリカンクラブのメンバーである高倉は外国人の友人・知人が多い。千葉真一は高倉に誘われて同クラブへ行った時や、パンアメリカン航空のパーティーへ出席した時に、千葉のファンであるフライトアテンダントを高倉から紹介されたりなど、ハリウッド映画出演前から英語に堪能な高倉を目の当たりにしている。

かつて東映内には千葉真一・梅宮辰夫・山本麟一・山城新伍など、高倉を慕う人達で集まって遊ぶ「野郎会」というものがあった。名の由来は「男(野郎)ばかり」なのと「何でもやろう」を語呂あわせにしたもので、何か月かごとに集まってその時の幹事が決めた遊びをしていた。

高倉は酒を飲まないので野球をしたり、山城が幹事の時には遊郭に行って、お大尽遊びの真似事をしていた。明治大学の先輩で東映ニューフェイスでも1期上である山本も高倉と仲が良く、この集まりに参加していた。

『網走番外地シリーズ』『昭和残侠伝シリーズ』で共演した潮健児は自伝『星を喰った男』の中で、「面倒見がよく、周囲に気を遣い、傍に誰か話し相手が居ないとしょげてしまう程の寂しがり屋」「大勢役者が揃って『何かやる』という時、その言いだしっぺは大抵、健さんだった」と回想している。

長嶋茂雄との親交は互いの若い時からつとに知られており、正月には成田山新勝寺にて初詣を共に行っていたこともある。長嶋の長男である一茂が1999年12月3日に箱根神社で結婚式を挙げた時、高倉が出席したので、結婚式取材に駆けつけた取材陣が驚いた一幕があった。

村田兆治の引退試合中継を見て感銘を受け、それまで面識も無かった村田の住所を関係者に一通り尋ねて調べ、さらに留守中だった村田の自宅前に、花束を置いて帰ったという話がある。

仰木彬は高校の後輩。石原裕次郎とも親交があり、「健さん」「裕ちゃん」と呼び合う仲だった。

山口組三代目・田岡一雄とも親しい。田岡を江利チエミとの結婚披露宴へ招待したり、江利と共に清川虹子の自宅で田岡や美空ひばり・小林旭夫妻とも親交した。

酔っていた小林が高倉に自分の腕時計をプレゼントしようとしたが、高倉は丁重に断るものの、当時の小林は映画スターとして高倉より格上だったこともあり、受け取れと強引に迫られ、困り果てていた高倉をその場にいた田岡が「健さん、もらっとき。気にせんでええ。旭にはワイのをやるよってな」と助け舟を出し、険悪になりかかった雰囲気を丸く収めてもらった。

田岡が1965年(昭和40年)に心筋梗塞で危篤に陥り、面会謝絶だったが高倉は江利を伴い、見舞いに訪れた。後に『山口組三代目 (映画)』『三代目襲名』で高倉は田岡を演じることとなるが、撮影現場を訪ねてきた田岡に激励されている。

ビートたけしとは1985年の『夜叉』で共演以来親交があり、互いに大ファンである。2012年9月8日放送の「プロフェッショナル 仕事の流儀 高倉健スペシャル」の中でも、撮影の合間、高倉がたけしに「えぇ、たけちゃん、えぇ、勝新太郎です。会いたいよー」と冗談まじりに声色を変えて、携帯電話から留守電にメッセージを入れている様子が放送されている。

志村けんと岡村隆史もお気に入りのコメディアンである。志村には自ら電話を入れ、『鉄道員(ぽっぽや)』の出演を要請。「お笑い一本」との姿勢を一貫していた志村を口説き落とした。『鉄道員』公開後、志村の番組「Shimura-X天国」(フジテレビ系)のトークコーナーに小林稔侍が出演した際にはVTR出演し、志村の演技を絶賛する一方、東映時代から懇意にしてきた後輩で、弟同然の付き合いをしている小林には「セリフを覚えて来ない、気持ちを引き締めてほしい」などと、真顔で苦言を呈しながらもユーモラスに茶化し、小林を赤面させている。

岡村隆史とは第23回日本アカデミー賞で同席。岡村は高倉に長年のファンであることを伝えた。この時、主演作『無問題』で話題賞を受賞し、「将来は高倉健さんのような俳優になりたい」との受賞スピーチで会場から笑いが巻き起こる中、高倉は独りにこやかに立ち上がって拍手を送った。2010年、岡村が病気で半年にわたり療養した際にも電話や手紙でメッセージを送り、激励している。

趣味


趣味は旅・乗馬・ライフル射撃・車・刀剣の収集など。コーヒーと夜更かしが好きで、若いころはよく撮影に遅刻することがあり、監督を怒らせることもあった。自身も「自分は遅刻魔だった(笑)」と告白している。

好きなミュージシャンは大塚博堂である。友人にもらったカセットテープを聞いて、「自分にない何かがある」と感銘を受けたことがきっかけだった。デビュー曲「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」はじめ、大塚とよく組んで仕事をしていた作詞家の藤公之介に「大塚と組んで曲を作ってほしい」と電話で頼んだこともあったが、この時は大塚が多忙で別の作曲家が曲を担当した。

しかし、その後間もなく大塚が急死したため、「夢のコラボ」は幻に終わった。大塚の曲では「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」「旅でもしようか」「ふるさとでもないのに」を特に気に入っている。直接対面することは無かったが、大塚のメモリアルイベントなどでは、一ファンとして何度かメッセージを贈っている。

千葉真一と野際陽子の結婚10周年記念には「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」をBGMにして、自ら祝辞をカセットテープに録音してプレゼントしており、千葉と野際からとても喜ばれた。

東日本大震災の発生後、メディアでよく聴く機会が増え、以来毎日のように聴くようになった曲として山下達郎の「希望という名の光」を挙げており、台本のカバーに歌詞カードを忍ばせている。

キリン「生茶」のCMで共演した総合格闘家の宇野薫によると、高倉は格闘技にかなり詳しく「休憩中に健さんから『UFCの試合をよく観ていますよ。応援しています』と話しかけられ驚きました」と語っている。

世界で一番好きな場所はハワイ。このことについて沢木耕太郎に「ドスを片手に敵地に乗り込む高倉健とハワイの取り合わせは意外なようだが、それは何故か」と問われて、高倉は「人が温かい」ことと、東映時代に過酷なスケジュールをこなしている中で、たまの休みにハワイの海岸で寝て過ごす開放感がたまらなかった、と述懐している。

江利チエミ

1959年2月16日、1956年の映画『恐怖の空中殺人』での共演が縁で江利チエミと結婚。3年後の1962年、江利は妊娠し子供を授かるが重度の妊娠高血圧症候群(この当時は「妊娠中毒症」と呼ばれていた)を発症し、中絶を余儀なくされ子宝には恵まれなかった。

また1970年1月21日には当時世田谷区瀬田(旧・玉川瀬田町)にあった邸宅を火災で焼失するなど、波乱含みの夫婦生活だった。1971年9月3日に離婚を発表。高倉はその後独身を通している。江利は離婚後、1982年2月13日、脳出血と吐瀉物誤嚥による窒息のため45歳で不慮の死を遂げている。

葬儀には姿を現さなかった高倉だが、江利の命日には毎年欠かさず早朝に一人でひっそりと墓参、花を手向け、本名を記した線香を贈っている。

離婚に至った原因も実際は不仲によるものではなく、江利の異父姉が芸能人である江利を妬み、妹を貶めるため意図的に仕組んだ事が原因とされている。家政婦・江利の付き人として小田家に入り込み、江利からの信用を得て実印を預かるなど、家族同然の立場になると、やがてふたりへの誹謗中傷や夫妻の財産横領を行うようになり、発覚後も容疑を否定、週刊誌で反論や夫婦の私生活についてリークや誹謗中傷を展開するなど悪質・執拗なもので、挙句に失踪・自殺未遂騒動を起こしている。

結局「これ以上迷惑をかけられない」と江利側から申し出たものである。この異父姉はその後、江利自身により刑事告訴され、実刑判決を受けている。

1962年の主演映画『三百六十五夜』は、東映東京撮影所の所長兼取締役・岡田茂がなかなか芽の出ない高倉をスターにするため、江利・美空ひばり・雪村いづみの三人娘と鶴田浩二の共演で企画された作品だった。

岡田は江利に「亭主の高倉主演で『三百六十五夜』を撮りたい。当てて高倉に実績を残すためにも、三人娘で色どりを添えたいんだ」とオファーしたが、「いやです。わたしは仕事と私生活を混同したくないんです。亭主は亭主です。そういう映画には出たくない」と即座に断られた。

高倉は岡田から「おまえ、女房になめられてるじゃないか。今後ウチでは、チエミは一切つかわんからな。チエミごときになめられて、勝手なことをやられているようでは一人前になれないぞ。おまえが大スターになって見返さんと駄目だよ」と発破をかけられ、奮起を促されたという。

祖先は鎌倉時代の執権北条家の一門である名越氏の一族・刈田式部大夫と言われた北条篤時で、篤時の子孫が西国に移り、大内氏に仕えた後に北九州へ向かった。当地で北条の名を捨て『小松屋』の屋号で両替商を営み、後に筑前国藩主黒田家から名字帯刀を許されて小田姓を名乗るようになった。江戸時代末期に『東路日記』を記した、筑前国の庄屋の内儀・小田宅子(おだいえこ)は先祖にあたる。

バラエティ番組やトーク番組への出演は『スター千一夜』『ズバリ!当てましょう』(フジテレビ)、『土曜大好き!830』(関西テレビ)、『徹子の部屋』(テレビ朝日)や、親交のある田中邦衛・北大路欣也と3人で出演した1980年の『すばらしき仲間』(中部日本放送)程度であったが、平成になってからは、新作映画のプロモーションを兼ねて『SMAP×SMAP』(関西テレビ・フジテレビ)(1997年9月15日放送分)や、2001年5月17日に放送された『クローズアップ現代』「第1424回 高倉健 素顔のメッセージ」(NHK)では国谷裕子キャスターとのロング・インタビューを行っている。

ちなみに『SMAP×SMAP』(BISTRO SMAP)にゲスト出演したこの回は、2005年12月26日に放送された同番組の特番『SMAP×SMAP 歴史的瞬間全部見せます!! 史上最強の4時間半SP!!』で視聴者から寄せられた『BISTRO SMAP名場面リクエスト』第1位に輝いている。

2012年8月18日、『あなたへ』のプロモーションで『SmaSTATION!!』(テレビ朝日)に出演。15年ぶりのテレビ番組へのゲスト出演で、人生初の生放送となった[50][注釈 16]。9月8日、『プロフェッショナル 仕事の流儀 高倉健スペシャル』と、9月10日『プロフェッショナル 仕事の流儀 高倉健インタビュースペシャル』(NHK)では『あなたへ』の撮影現場への長期密着取材に応じ、俳優生活56年にして初めて自身のプライベートに関する事や本音、俳優としての信条などの一部を明らかにしている。

『オレたちひょうきん族』に出演したかったらしく、ビートたけしに「僕にもひょうきん族出演の機会をください」と署名した写真を渡したことがあるが、それを聞いた高田文夫は、(あくまでシャレで)「『タケちゃんマン』に弟子の“ケンちゃんマン”を出そう」と提案している。

理想の俳優はジャン・ギャバンで、決して大仰でない抑えた芝居に徹しながら(ジャン・ギャバンが演じている、という)存在感があり、それでいながら神父からギャングに至るまで、どんな役柄を演じても似合う(作品の中で破綻をきたさない)「ああいう芝居を目指したい」という。

「でも、役者の理想と実生活の理想は別だよね。ジャン・ギャバンって実生活は本当に不幸な、寂しい人生だったし……」とし、実生活での理想は、前妻シモーヌ・シニョレと死別後、1987年、38歳年下の秘書と結婚し、1988年、65歳にして長男を儲けたイヴ・モンタンを挙げ、「いいよねぇ。フランスの奴、みんな憧れてるよ」と語っている。

感銘を受けた映画は『ゴッドファーザー』(1972年)、『ディア・ハンター』(1978年)だという。特に『ディア・ハンター』では、主演俳優で親交のあるロバート・デ・ニーロが「あんな芝居はもう二度とできない」と語っていた事も含め、非常に大きな衝撃を受けた、と語っている。

1972年、東映の先輩である萬屋錦之介の勧めで神奈川県の鎌倉霊園に生前墓を建立している。この墓所内には上述にある、「この世に生を受けなかった我が子」のために、水子地蔵も建てられている。
[出典:Wikipedia]

(了)

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