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【感動】黒田博樹引退の裏に隠された驚愕の半生と母の教え

   

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黒田投手が語る半生・ありえない決断と母の教え

2016年11月3日放送「奇跡体験!アンビリバボー」より

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《アンビリバボーな決断を下した男》

広島カープの投手・ 黒田博樹、41歳。
彼ほど、人生の選択において《アンビリバボーな決断を下した男》はいないでしょう。

今年、広島カープを、25年ぶりのリーグ優勝に導いた立役者の黒田選手ですが、つい先日、現役引退を表明しました。
日本シリーズの第3戦、最後のマウンドに立ち、20年間の現役生活にピリオドを打ちました。

「200勝を超える投手としての輝かしいキャリアに終止符を打ち引退を発表」

その引退は、遠く海外でも報じられ、彼の生き様は、世界中の人々の心を動かしています。
今夜のアンビリバボーは、日本シリーズを前に特別に応じてくれた、黒田選手の独占インタビュー。

「ありえない決断」の数々

黒田は、2008年からの7年間、メジャーリーグで活躍しました。
そこは超一流が集まる、弱肉強食の世界、結果が出なければ容赦なくクビになります。
そのため選手は、少しでも長くチームと契約するために自分を売り込むのです。

黒田は、かつて6年契約を勝ち取った松坂投手と同等の実力と評価されていました。
2007年、ロサンジェルス・ドジャースとの入団交渉の際、ドジャースの申し出は「4年契約、50億円」。
松坂より2年少ない提示でした。

代理人から4年契約と聞いた黒田は難色を示しました。
「5年、6年では?」 と言う代理人に対し、「3年に減らしてほしい」と黒田は言いました。
その言葉に、代理人は驚きました。
契約を1年短くするという事は、年俸の総額が10億円近くも減るからです。

「そんな事を言う選手は聞いた事がない、一体なぜ?」と聞かれ、黒田は答えました。
「まだメジャーで一球も投げてないのに、何年も実績を積んだ選手より、条件が良いなんて納得できない」

10億円を拒否するというそのあり得ない決断に、アメリカの球界関係者は、心底驚きを隠せなかったといいます。

こうしてメジャー入りした黒田は、3年間で28勝30敗と、安定した活躍を見せ、ドジャースとさらに1年契約を結びました。
そして迎えた4年目の夏、再び決断の時が訪れます。

2011年、優勝を狙っているチームから、トレードの打診がきました。
メジャーでは、優勝を争っているチームが、戦力を強化するため、早々と優勝争いから脱落したチームから、シーズン中でも有力選手を引き抜くケースが多いのです。
世界最高峰のメジャーリーグでの優勝を経験することは、選手として最高の名誉です。

ところが黒田は、「興味ない」と断ってしまいます。
「行ったばっかりのチームで優勝しても素直に喜べない」という理由でした。
この決断を、地元紙は驚きをもって報じました。

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「黒田は自分の信念を貫いた。日本生まれの選手が異なる価値観を示した」(ロサンジェルス・タイムズ)

ドジャースファンは黒田の残留に歓喜し、シーズン終了までより一層の声援を送りました。
ドジャースでの4年目は、13勝16敗と活躍。
その後彼は2012年から、全米一の名門チーム・ニューヨークヤンキースに移籍して、3年連続10勝以上をあげるという快挙を成し遂げました。

20億ではなく、5億の広島へ

一昨年、シーズン終了後、黒田が他球団と契約できる権利を獲得すると、高額のオファーが殺到しました。
以前在籍していた「ドジャース」は、年俸19億円、そして「パドレス」は、最高額の20億円を提示!
次に袖を通すユニフォームは、ドジャースか、パドレスかと注目が集まりました。

ところが、翌年2015年、黒田の姿は広島にありました。
なんと年俸20億円ではなく、その4分の1、推定年俸5億円で広島カープと契約したのです。
なぜ彼は、こんなあり得ない決断を下したのでしょうか?

黒田博樹投手≫
「広島に帰ってきたいという気持ちと、帰らないといけないというか…」

黒田が下してきた、常識とは懸け離れたいくつもの決断には、これまであまり語られることのなかった、彼の波乱万丈の半生が影響していました。

大きな影響を与えた母

1975年、黒田博樹は大阪で生まれました。
プロ野球の選手だった父・一博さんは、南海ホークスで外野手として活躍しました。

3

引退した父が監督を務める少年野球チームで、黒田は野球を始めました。

彼に大きな影響を与えたのが、母・靖子さんでした。
かつて、オリンピックを目指した砲丸投げの選手でした。

黒田博樹投手≫
「一言で言うと本当に男っぽい人だったので、学校の体育の先生をやっていたんで、今では考えられないんですけど、生徒をバシバシ、男であろうが女であろうが殴っていたというのを聞いて、凄いなと思ったんですけど…」

当然、子育ても熱血。
黒田少年が自宅に帰ってくると、母は玄関で仁王立ち。
「遊びに行く前に宿題やる、いつも言うてるやろ!」と竹刀で頭を叩かれました。

黒田博樹投手≫
「何で家に竹刀があったのか分からないですけど、小さい時は裸のまま外に放り投げられたり…」

スポーツ選手の両親をもち、恵まれた体格の黒田は、高校受験を前に「甲子園に出たい!」という夢を抱きました。
志望校は、当時、元巨人の元木大介選手がいた私立「上宮高校」で、甲子園常連校でした。

黒田は両親に、上宮高校で野球をやらせてくださいと頼みました。
「やり抜く自信、ホンマにあるの?」と母に問われ、「はい、あります!」と答えた黒田。
しかしこの後、人生最大の苦難が待っていたことを、黒田はまだ知りませんでした。

母から教えられた《筋を通す》ことの大切さ

黒田が入学した上宮高校は、野球のエリート揃いでした。
その証拠に、彼の入部当時にいた全部員の中から、のちに7人がプロ入りを果たしています。
「とんでもないところに来てしまった…」と黒田は思ったそうです。

1年生の夏合宿でのことでした。
打たれてしまった黒田は、「黒田!お前あとで、試合終わったらずっと走っとれ!」と監督に言われました。

黒田博樹投手≫
「監督に走っとけと言われると、良いって言われるまで外野を走り続けなければいけないんですよね。その時はちょうど夏の合宿だったんで、合宿中はずっと朝から晩まで走りっぱなしだったんですけど…」

休む事、食事をとる事も許されませんでした。
そして、許しを貰えないまま、4日目の夜になりました。
そんな時…。

黒田博樹投手≫
「その時一緒に走っていた先輩のご両親が、当然食事もできない状態で、水も隠れて飲むような状態だったので、そのご両親が一旦家に連れて帰ってくれて、当然4日間も風呂にも入っていなかったので、とりあえずお風呂に入れてくれて、ご飯を食べさせてもらって、『朝早い時間帯に学校に戻って、またランニング始めれば良いんじゃない』っていう形で、家に連れて帰っていただいたんで。(先輩の)ご父兄がうちの家に電話して…」

先輩の親は気を利かせて、黒田の家に電話をして事情を話したのですが、それを聞いた母はこう言ったのです。

「有り難いんですけど、お金は払いますんで、ウチの子だけタクシーで学校へ戻して走らせて下さい」

黒田博樹投手≫
「とんでもない親だと思いましたけどね、はい」

のちに、母の真意に気づいた黒田は、著書「決めて断つ」でこう語っています。

”自分がお世話になると決めた監督から命じられたことならば、どんなことがあってもその教えは守るべきで、上宮高校を選んだ以上、黙ってそれに従う”

4

《筋を通す》ことの大切さ、それを母から教わったからこそ、「行ったばっかりのチームで優勝しても素直に喜べない」と。
元々、優勝を目指して戦ってきたドジャースのメンバーと、最後まで一緒に戦うことが「筋」だと考えたのです。

その姿勢を貫き、のちにはメジャーリーグでも活躍する黒田でしたが、高校時代の彼は、エースどころか3年間補欠でした。
しかも、学校も甲子園出場の夢叶わず、野球部を引退。

専修大学に入学

それでも野球を諦めきれず、関東の強豪・専修大学に入学し、猛練習に耐え続けました。
その頃、心の支えとしていた言葉があります。

『耐雪梅花麗』…雪に耐えて梅花麗し
西郷隆盛が詠んだ漢詩の一節で、意味は「苦しまずして栄光なし」。

6

黒田博樹投手≫
「高校時代に、それこそ本当に試合で投げても打たれるで、常に監督に走っとけと言われて、朝から晩まで走るだけの野球生活だったんで、今苦しい思いしているけどやっぱり、いつかは花が咲く時があるんじゃないか、その時の自分の気持ちがすんなりその言葉に入っていけたというか…」

黒田は、大学2年で球速140kmを超えるまでに成長。
そんな頃、一人の男性がグラウンドにたびたび姿を見せるようになりました。
その男性こそが広島カープのスカウト、苑田聡彦さんです。

苑田聡彦さん≫

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「球に力がある、魂が入ったような、キャッチボールからそんな感じがしましたね。打たれても打たれても(打たれた)球で勝負する、絶対逃げなかったですね。この子は絶対成功するなと確信を持っていましたね。ただ、カープに入団して、5本柱4本柱くらいにはなれるんじゃないかなとは思いましたけど、こんな大選手になるとは…」

大学4年生の時には、球速150kmを記録、ついにチームのエースとなりました。
すると、他球団のスカウトからも注目されるようになりました。
しかし黒田は、当時採用されていた《逆指名制度》で広島に入団、その理由は?

8

黒田博樹投手≫
「僕が2年生くらいの頃から、苑田さんがずっと球場に足を運んで、神奈川の端の方の球場で、寮もそこだったので。何も声をかけられる事もなく、ただずっと来られていたのを見ていたので…」

当時の規定で、プロのスカウトがアマチュアの学生に声をかけることは禁止されていました。

黒田博樹投手≫
「それだけ僕のことを見て、そこまで評価して頂けてるのなら、カープ(に入団する)しかないなっていう気持ちになりましたね」

なんと、球団を決めた理由は、年俸などの条件面ではなく、自分を見ていてくれていたスカウトマンへの気持ち「情」だったのです!

情を重んじる決断を下した理由

黒田は一体なぜ、この時、《情を重んじる決断》を下したのでしょうか?
それにも理由がありました。
母、靖子さんの存在です。

広島に入団して5年目、2001年のことでした。
高校で教鞭をとっていた母が病に倒れました。
がんが進行していたのです。
しかし、病床にあっても、プロになった黒田に「チームに迷惑をかけたらいけない」と叱咤していました。
そんな母も病には勝てず、2002年、60歳の若さで他界しました。

黒田博樹投手≫
「僕がプロに入った時に病気で亡くなったんですけど、その時に(教え子がいる)学校に霊柩車を通らせてもらって…」

授業中にも関わらず、多くの生徒が出てきて、手を合わせてくれました。
中には、泣いている生徒もいました。
「厳しくも温かい眼差しで教え子に接する」情の深い教師でした。

黒田博樹投手≫
「その時の(教え子だった)生徒の皆さんの顔を見て、自分の母親なんですけどね、偉大な人だったんだなと思いました」

母の死後、聞かされたことがあります。
病状が悪化していましたが、息子に余計な心配をさせないため、あえて気丈に振る舞っていたと。
息子を思う母の優しさでした。

そんな母譲りの「情」を受け継いだ黒田だからこそ、真っ先に自分を見出し、ずっと見守ってくれた苑田スカウトに恩を感じ、カープを選んだのです。
そして広島に入団した黒田は、一年目から試合に出場すると、5年目にはエースとして頭角をあらわし、以降大黒柱として活躍することになるのです。

ファンからのメッセージで黒田が下した決断

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プロ生活10年目を迎えた2006年、ファンにはどうしても気がかりなことがありました。
カープには、避けがたい運命があります。
巨人や阪神など、大きな親会社がある球団とは違い、資金力に乏しい市民球団です。
よって、赤字は決して許されません。
主力選手の年俸が上がると、その金額を支払うことが困難となり、手放さざるを得ないのです。

実績を積んだ選手が、他球団と自由に交渉出来る「フリーエージェント宣言」をすると、カープは引き止めはしません。
この年、他球団と交渉出来る資格を得たカープのエース黒田の獲得に、国内外の複数の球団が乗り出していました。

ファンの関心は、シーズン終了後に黒田が「フリーエージェント宣言」をし、移籍するか、或いは残留するかに集まっていました。
カープは、優勝から遠ざかること15年、この年も既に5位が決定していたシーズン終盤。
広島市民球場での試合が最後に迫った頃、黒田は悩んでいました。

「高校時代、ずっと補欠だった自分が今、多くの球団から高く評価され、ラブコールを受けている」
しかし、無名の学生だった自分をいち早く見出し、育ててくれたカープ、そして、辛いときも熱い声援を送り続けてくれたカープファンへの思いとの間で、黒田の心は揺れ動いていました。

そんな状況を知ったファンは、驚くべき行動に出ました。
迎えたホーム最終戦、広島市民球場は異様な空気に包まれました。
9回ツーアウトの場面で黒田が登場。
すると、スタンドに横断幕が。
書かれていたのは、ファンからのメッセージ。

”我々は共に戦ってきた。今までもこれからも…。未来へ輝くその日まで。君が涙を流すなら、君の涙になってやる。Carpのエース黒田博樹”

本当は残留して欲しい、しかしたとえ移籍しても、最大限のエールで背中を押してあげたいという、ファンの切なくも熱い思いでした。

黒田博樹投手≫
「今までFA宣言(の権利)を取った選手に対して、そういうファンの人の動きを見たことがなかったので、まさか自分にそうやって、して頂けると思っていなかったので、正直、嬉しかったというのを覚えているところですけどね」

ファンは思いました。
カープのユニフォームを着る黒田を見るのは、これが最後なのだと。

答えが出たのは、3週間後の記者会見(2006年11月6日)。
黒田の口から出た言葉は…。

「私、黒田博樹は、FA権を行使せずに、広島東洋カープに残留することを、ここで皆様にお伝えしたいと思います」

快く送り出したい、そんな思いでファンが書いた横断幕に、黒田が残留を決意したのです!

メジャーに移籍する黒田

残留の翌年2007年、黒田に強い想いが芽生え始めます。
メジャーへの移籍です。

黒田博樹投手≫
「僕自身は、国内で他のチームに行くというのは想像できなかったですし、他の球団と話をすることも一切なかったですし、テーブルにつくことも一切なかったんで、国内で自分が動くというのは考えてなかったですけどね…」

なぜなら、勝負に勝つためには、時に打者に対し、厳しいボールを投げざるを得ないことがあります。

黒田博樹投手≫
「今まで一緒に戦ってきた選手を相手に、インサイドに強いボールを投げたり、なかなか自分には出来ないんじゃないか…」

「世界最高峰の舞台で野球をしたい」という想いは日増しに強くなり、ついに黒田はメジャーリーグ移籍を決断、会見を開きました。

「広島のファンの方、本当にたくさんいらっしゃると思うんですが、伝えたい事、メッセージがあれば是非お願いしたいですが…」
「そうですね、あの、本当に…。まあ、あの……」

思わず声を詰まらせ、涙ぐむ黒田の姿を見たファンに、彼を責める者はいませんでした。
そして黒田は、11年間苦楽を共にしたカープのユニフォームを脱ぎました。
この年、もう一人の中心選手がFA宣言をしてカープを去りました。
四番打者の新井貴浩。

会見で「今の気持ちを教えてください」と聞かれ「辛いです…。カープが大好きなんで」と涙を流して答えた新井。
新井は、阪神に移籍しました。

世界の心を動かした「生き様」①

一方、メジャーリーグ入りした黒田は、海の向こうでも熱い気持ちで人々の心を動かしました。
メジャー2年目の2009年、この日黒田に、予期せぬ出来事が起こりました。
バッターの強い打球が頭を直撃!
打った相手も心配そうに見つめるなか、病院に搬送され、即入院。

10

長期離脱を余儀なくされ、落胆していた時でした。
病室に、相手打者から手紙が届きました。

”あなたにけがをさせてまで、私はメジャーで野球をやろうとは思わない”

もちろん、わざと狙って打ったはずもない、まったく落ち度がないにもかかわらず、彼は自分を強く責めていたのです。
手紙を読んだ黒田は、こんなコメントを送りました。

”僕が野球をやめたとき、君という名選手にボールを当てられたと、胸を張れる選手になってほしい”

選手生命を脅かしかねない事態だったにも関わらず、相手を気遣い励ましたのです。

世界の心を動かした「生き様」②

黒田と心を交わした選手は他にもいます。
ドジャース不動のエース、クレイトン・カーショー。

12

現役最強の左腕と呼ばれ、今季、メジャーの最高年棒を誇る大投手です。
実は彼は、黒田と毎日キャッチボールをする練習パートナーでした。
年は13歳若いのですが、入団時期が一緒だったのです。

黒田がシーズン最後の当番日のことでした。

黒田博樹投手≫
「彼は最後の登板が終わって、そのままシーズンオフに入っていくんで、そのシーズンもたくさん投げてるピッチャーだったので、普通はアメリカ人の感覚ではもう投げないんですよね。まったくキャッチボールもせずにボールも触らないっていう状態なんですけど。ただ、僕の登板が最後に残っていたんですけど、一試合。彼はいつも毎日キャッチボールしていたので『キャッチボールしよう』って言われたんですよね。その時『シーズン終わってあとは肩を休めないと』と言ったんですけど、彼は『僕(黒田)の登板が終わってないんで、それが終わらないと僕(カーショー)のシーズンは終わらない』って言ってくれたんで。もう言葉にならないというか、お互い…」

実はこの頃、ドジャースで4年間実績を積み上げたことで、数々の球団が黒田の獲得に乗り出そうとしていました。
「黒田が他球団に移籍する可能性は、限りなく高い」
最後のキャッチボールになることを、カーショーは予感していたのでしょう。

そして黒田は、移籍先を決める交渉で「ドジャースと対戦しない、アメリカンリーグのチームにしてください」

カーショーと対戦するナショナルリーグを避け、滅多に戦うことのない、違うリーグへの移籍を希望したのです。
プロなら当然優先する「条件面」ではなく、黒田は「情」を大事にしたです。

シーズンオフ、移籍先が決まった黒田は、カーショーにその連絡をしました。
”ヤンキースに、行くことになった”

すると程なくして届いた返信には…
”ヒロ、来年から僕は、誰とキャッチボールすればいいんだい?”

クレイトン・カーショー≫
「彼がいない事に少しずつ慣れたけど、今でも寂しい。素晴らしい男だからね。友人も皆、彼を尊敬している。プロに徹した男だから。彼が活躍しているのは嬉しいよ」

知られざる黒田の苦悩

その後、ヤンキースに移籍した黒田は、そこでも3年続けて10勝以上を記録しました(3年間で38勝33敗)。
プロになって以来、常に第一線で活躍を続けてきた黒田、まさに誰もが羨む野球人生を送ってきたかに思えるのですが…。

”中学生以来、野球を楽しいと思ったことは本当に一度もない。”(著書「決めて断つ」)

黒田博樹投手≫
「どっちかというと苦しい野球人生というか、そういう人生だったような気はしますけどね…」

いったい何故でしょうか?
そこには、知られざる黒田の苦悩が隠されていました。

ピッチングを楽しいと思った事は一度もないと言う黒田。
理由は、少年時代の原体験にありました。

胸をときめかせ、プロ野球の試合を見に行った黒田少年は、ひいきのチームが勝つと、こう思ったといいます。

”きっと、僕が観に来たから勝ってくれたんだ”

そしてそんな彼は、プロ入り後、こう思うようになっていました。
「僕にとっては、シーズンの中の1試合。だが、今日見に来てくれたファンにとっては、思い出に残る大切な1試合になるかもしれない」

”お客さんが入っている時点で、負けていい試合は絶対に存在しない”(著書「決めて断つ」)

これが黒田の信念となりました。
だからこそ「打たれることが怖かった」。

”怖いから練習して上達するしかない”(著書「決めて断つ」)

彼にとって野球は常に、《恐怖との戦い》でした。
この恐怖が、あのあり得ない決断の1つの要因でもあったといいます。
メジャー移籍時、ドジャースの申し出は、4年で50億円。
いつクビになるかわからないプロの世界、誰もが長い契約を勝ち取ろうとする中、「契約を3年に減らして欲しい」という要望を出しました。

黒田博樹投手≫
「4年間やっていけるかなと言う気持ち、不安というのが強かったんで。まずは3年、僕の中では刑務所に行くような気持ちで、アメリカに行って、そこで勝負すると決めたんで。そういう気持ちで野球するなら短いほうがいいかなと…」

「打たれる恐怖に耐えながら投げ続ける」そんな苦しい闘いを4年も続けるなど想像もできない、「せめて3年なら」そんな思いも、黒田が契約期間をあえて1年短くした理由でした。

この試合が最後になっても構わない

黒田は恐怖に打ち勝ち、ドジャースで4年間活躍。
その実績が認められ、ヤンキースへ移籍しました。
もちろん、常に試合に命がけで臨む姿には、1ミリのブレもありません。

そんな黒田の覚悟を象徴するシーンがあります。
2013年5月12日、その日好投を続けていた黒田。
しかし、自信を持って投げた球を、審判にボールと判定されてしまいました。
結果、黒田はその打者に打たれて交代します。

そしてベンチに戻る時、珍しく、審判に怒鳴り返しました。
一体、何があったのでしょうか?

実は黒田がベンチに戻ろうとした時、審判が「間違えたのはあの1球だけだろう」と言ったといいます。
それが我慢できなかったのです。

黒田博樹投手≫
「その1球を投げるために、こっちはたくさんの調整をして、いろんなデータを取って、その1球のためにいろんなことをやって投げているんで、それを軽く言われるのはちょっとね…。マウンドに上がるときは『これが最後の試合、最後のマウンドになる』という気持ちで、常にマウンドにあがるようにはしてましたけどね」

「この試合が最後になっても構わない」常にそう考え、恐怖に耐えて全力を尽くす彼にとっては、許せない一言だったのです。

苦しみながらも、メジャーリーグで7年間活躍、輝かしい実績を積み上げてきた黒田。
そんな彼に2年前のオフ、メジャーの複数の球団が興味を持ち、提示された年俸の最高額は20億円、まさに破格の待遇でした。
そして、彼が下した決断は…。

広島に帰ってきた黒田

「8年ぶりに広島に帰って来まして、ファンの人たちの熱気というか、広島に帰ってきて一段と強いなというのを、一番初めに感じました。2006年ですかね、僕がFA権、最初に取得したときにファンの人達に、自分の心を動かしてもらったので、逆に今度は自分がファンの人たちの気持ちを動かせればいいかなと…」

ファンへの感謝の想い、そして…。

黒田博樹投手≫
「広島に帰ってきたいという気持ちと、帰らないといけないというか、使命感というか…」

使命感が、黒田に復帰を決意させたのです。

昨年3月29日、ファンにとって待ちに待った日がやってきました。
公式戦初登板となるこの日、スタジアムは超満員!
そして、止まないスタンディングオベーション、広島がこの男の復帰を待っていたのです。

14

そして、この試合に勝利すると…。
「これだけたくさんの声援を受けて、マウンドに上がって、そしていい結果が出て、ホッとしています」

”負けて良い試合など存在しない。”

復帰戦以降も、黒田は体を張って、勝利への執念を見せ続けました。

強い味方も戻っていました。
カープの4番バッター・新井貴浩。
黒田のメジャー挑戦と同じ年に、阪神に移籍して行った新井でした。
黒田と共に、広島カープ復帰を決意した新井。
これで投打のリーダーが揃いました。

そして、今年7月、黒田はついに日米通算200勝を達成。
セレモニーでは、広島ナインが着たシャツに、黒田の座右の銘「耐雪梅花麗」の文字がありました。

ついに手にした《優勝》

こうして、数々の栄誉を手にし、球界の大スターとなった黒田でしたが、たった1つ、手にしていない栄光がありました。
メジャーでも縁のなかった《優勝》です。

黒田博樹投手≫
「1番言われて悔しいのは優勝経験がないとか、最後、土壇場になった時に優勝経験があるチームが強いとか、解説者の方がよく仰られるんですけど、そういうのが一番、自分が優勝経験がなかったというのに対して、悔しい気持ちは常に持っていましたけどね…」

カープ自体も、25年遠ざかっていたリーグ優勝。
実現すれば、最大の恩返しとなります。
黒田と新井に引っ張られ、カープの若手選手達の戦う姿は、日を追って逞しくなり、若手とベテランの力がバランス良くかみ合い、今年カープは、夏から独走態勢に入りました。

優勝に王手がかかった2016年9月10日、巨人の本拠地である東京ドームに、大勢のカープファンが駆けつけました。
先発の黒田が大声援を受け力投すると、若手の活躍でカープ逆転。
黒田は、6回を3失点に抑え、後輩に後を託し、最終回、その時を待ちました。

メジャーでも叶わなかった夢が、ついに実現しました。
広島カープ、25年ぶりの優勝!
共にカープを去り、戻って来た新井と抱き合った瞬間、カープファンも涙しました。
黒田が宙を舞います。

黒田博樹投手≫
「当然、自分自身も嬉しかったですけど、それ以上に今、カープは若い選手がたくさんいるんで、そういう選手が優勝を経験できたというのが、今後のカープにとっても彼らの野球人生にとっても、すごく大きいんじゃないかなと、そっちの方がすごく嬉しかったですけどね」

ファンと黒田がこの日流したのは、歓喜の涙でした。

黒田博樹、最後の一球と今の胸中

カープを、25年ぶりのリーグ優勝に導いた黒田。
日本シリーズでは日本ハムと対戦し、チームは惜しくも日本一を逃しました。
好投を続けていた第3戦で、大谷に投げた8球目、これが現役最後の投球となりました。

プロ生活20年、41歳の鍛え抜かれた肉体も、ついに悲鳴を上げました。
両足に違和感を覚えたのです。

「チームの為にならなければ、マウンドを降りる」

全試合、勝つことだけを考えて投げ続けてきた、黒田らしい最後でした。
後日、黒田は記者にこう語りました。

”最後は、日本シリーズのマウンドに立てると思っていなかった。日本ではチャンスがなかったので、一緒に闘ってきた仲間に感謝したい。”

そして1度も楽しいと思ったことがないという野球について、こう語りました。

”今まで一生懸命野球をやって来て良かった”

18

(了)

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