Writerzlab

ライターズラボ ★ 知的快感!ポータルサイト

*

「ピーター・ノーマン」忘れ去られたメダリスト

   

Sponsored link

オリンピック史上最も有名な写真、今回のアンビリバボーの舞台は「メキシコオリンピック」

1968年、メキシコオリンピック陸上競技男子200m走での表彰式で撮影された写真は、オリンピック史上最も有名な写真です。

jyoncaros-1
[出典:http://moogry.com/index.php?req=%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%82%B9]

アメリカの黒人選手2人が、天に向かって拳を突き上げています。
金メダルのトミー・スミスと、銅メダルのジョン・カーロスです。

彼らはこの行為によって世界中から非難・迫害され、壮絶な人生を歩むことになりました。
しかし、彼らよりももっと過酷な人生を歩むことになったのは、銀メダリストの白人選手、オーストラリア人のピーター・ノーマンでした。

陸上競技男子短距離走でのメダル獲得は、オーストラリア初の快挙です。
祖国に帰れば英雄のはずだった彼でしたが、「ある行為」により、過酷な人生を歩むことになったのです。

1983年 オーストラリア・ビクトリア州

今から34年前。
12歳の少年マット・ノーマンは、伯父であるピーターの家に、足繁く通っていました。

当時、ピーター・ノーマンは41歳。
マットは、高校で体育を教えている伯父・ピーターが大好きで、伯父が出場したオリンピックのレースの話を聞くのが大好きでした。

ピーターは、15年前のオリンピックで銀メダルを獲得したトップアスリートでしたが、マットにはある疑問がありました。
周りの誰も、ピーター・ノーマンという陸上選手がいたことを知らないからです。

陸上のオリンピックメダリストともなれば、国の英雄です。
引退後は、大学やナショナルチームのコーチに招かれたり、政治家やテレビのタレントになるなどして、みんな活躍していました。

しかし、銀メダルを取ったはずのピーター・ノーマンなのに、オーストラリア人でさえ、その名前を知る人はほとんどいませんでした。
ピーターは高校で体育を教える傍ら、精肉店でアルバイトをして生計を立てていました。

マットはある日、祖母に尋ねました。
「ピーター伯父さんって、本当にオリンピックで銀メダル取ったんだよね?どうしてみんな伯父さんのことを知らないの?」と。

祖母は「それはね、ピーターが…正しいことをしたからなのよ。直接聞いてごらんなさい」と言いました。
そしてマットがピーターに尋ねると、ピーターは驚くべき物語を語り始めました。

今から75年前の1942年

オーストラリアのメルボルン郊外、貧しい労働者階級の家にピーターは生まれました。
走るのが大好きだったピーターは、シューズを買ってもらえないほど貧しかったですが、地元の陸上チームで活躍していました。

当時のオーストラリアには、彼よりも不幸な人々が大勢いました。
先住民のアボリジニやアジア系移民など、有色人種への差別が色濃く残っていたからです。
イギリスの植民地だった18世紀からの白豪主義(白人がアボリジニやアジア系民族などの有色人種を差別する考え)の政策によるものでした。

何事にも白人が優先であり、有色人種はオーストラリアの市民権が得られないなど、長年、法的にも迫害されていたのです。
しかし、ピーターは敬虔なクリスチャンだった両親と共に、貧しい有色人種の人々に炊き出しを行ない、白人でありながらも、決して差別することはありませんでした。

そんな彼らのことも他の白人たちはバカにしていましたが、父はピーターに、いつもこう言い聞かせていました。
「いいか、ピーター。肌の色や生まれた場所なんか関係ない」
「人間はみんな平等なんだ。それをいつも忘れるな」

しかしこの時、彼はまだ、父親から受け継いだこの信念を、後に思いもよらない場所で試されるということを知る由もありませんでした。

小学校を卒業後、家計の為に精肉店で働き始めたピーター

仕事の傍ら、大好きな陸上だけは続けていたピーターは、リレーの選手として頭角を現すと、やがて200M走に転向。
するとその才能が一気に開花し、ついにオリンピック代表に選ばれたのです。

そして、1968年 メキシコオリンピックが開幕。
しかし、この時ピーターは、母国オーストラリアからでさえ、全く期待されてはいませんでした。

なぜなら、当時の陸上短距離は、アメリカが絶対王者として君臨。
特にピーターが出場する男子200Mは、世界記録保持者ジョン・カーロス、トミー・スミスら3名のアメリカ勢が表彰台を独占すると予想されていて、ピーターは予選突破さえ危ぶまれていたのです。

しかしピーターは、予選をいきなり20秒20で走り、オリンピック記録を更新。
その後準決勝を突破し、ついに決勝進出を決めました。

そして決勝前日になり、ピーターはジョン・カーロスとトミー・スミスに話しかけました

お互い話すのは初めてでした。
でもピーターの気さくな人柄もあって、3人はすぐに古くからの友人のように打ち解けました。

そのとき、ジョンはピーターに、こう問いかけたのです。
「なあ、ピーター、あんたは人権を尊重するか? オレら2人は表彰台に立ったら”アレ”をやってやるつもりだ。あんたはもし、表彰台に立ったらどうする?」
ピーターは、アメリカの黒人選手にとって、このメキシコオリンピックには「特別な意味」があることを知っていました。

今からわずか50年余り前、自由の国・アメリカには、”人種差別の嵐”が吹き荒れていました

バスや公衆トイレにさえ、白人優先席が存在。
ホテルやレストランも有色人種の入店を拒否するなど、人種差別が公然と法律で認められていました。

そんな中、人種差別に反対する「マーティン・ルーサー・キング牧師」らの運動によって、1964年に「公民権法」が制定されました。

有色人種の選挙権が保証され、公共施設での差別も禁止、「これで人種差別はなくなる」はずでした。
しかしその後も、人種差別感情が収まる事はなく、黒人へのリンチや暴行、彼らの商店や住居への放火が継続的に発生したのです。

そして、メキシコオリンピックの半年前に起きた決定的な事件、それが「キング牧師の暗殺」でした

黒人たちの精神的支柱になっていた指導者を殺害され、彼らの怒りは頂点に達し、黒人アスリートたちはメキシコオリンピックのボイコットを検討しました。
国内で横行する差別に目を背け、メダル獲得の為だけに平然と黒人選手を送り込むアメリカ社会に抗議する意志を示そうとしたのです。

しかし、スポーツの政治利用を禁じるオリンピックの精神に反するとして、国際的な批判を浴びることになりました。
この事態を受け、黒人選手たちの意見は「ボイコットすべきだ」という者と「今後の人生を考え出場すべきだ」という者に分かれました。
ジョンとトミーの2人は、出場する道を選んだのですが、すでに彼らは「ある決意」を胸に抱いていたのです。

いよいよ迎えた男子200M決勝、運命のレースがスタート!

先行したのは世界記録保持者のジョン・カーロス、その後をトミー・スミスが追い、ピーター・ノーマンは出遅れたかに見えました。
しかしピーターは、大外から物凄い追い上げをかけます。

1位はトミー・スミス、そしてなんとピーター・ノーマンは、世界王者ジョン・カーロスを抜いて2位に入りました。
自ら予選で出したオリンピック記録を上回る20秒06で、1位のトミーとともに当時の世界記録を破り、しかも、男子短距離走でのメダル獲得は、オーストラリア初の快挙でした!

コーチはピーターに駆け寄り「すごいぞピーター。明日の朝刊が出れば、お前は英雄だ」と言いました。
そしてすぐに「いいかピーター。やつらが何をやっても無視するんだ。お前はオーストラリアの英雄なんだ。巻き込まれるな」と釘を刺したのです。
オリンピックの花形・陸上短距離で銀メダルを獲得したピーターの将来は、もはや約束されたようなもので、もうアルバイトをしながら走る必要などなくなります。

表彰式の直前、ジョンとトミーの二人はすでに、決意を固めていました

表彰台の上でメダリストたちは、束の間の自由を得ます。
しかもその瞬間は生中継され、6億人もの人々が固唾を飲んで見守ります。
さらに写真となると、それこそ全世界に配信されるわけで、つまり表彰台こそ、アメリカにおける黒人の悲惨な状況を訴え、差別と闘う意志を世界に訴える絶好のチャンスなのです。

しかし、オリンピックの理念は「全てのエリアにおいて、いかなる種類のデモンストレーションも、いかなる種類の政治的、宗教的、そして人種的な宣伝活動も認められていない」というもの。
もし実行した場合、まだ24歳のトミーと23歳のジョンの若い2人のアスリートは、オリンピックから永久追放されるだけでなく、他のいかなる大会に出ることも許されず、選手生命が絶たれてしまいます。
それでも彼らは、同胞たちの苦しみを世界に訴えるため、胸に人種差別へ抗議する団体「人権を求めるオリンピックプロジェクト」のバッジをつけ”あるパフォーマンス”をやるつもりでした。

ピーターが2人のところにやって来て…

「それで、どうすればいい? 俺は表彰台の上で、何をすればいい?」(ピーター)
「すまん。あの時言ったことは忘れてくれ。 俺たちの問題だ」(ジョン)
「白人の君は知らないフリをしてればいい。 オレたちは本気なんだ」(トミー)

このときピーターは、子どもの頃、父に言われた言葉を思い出していました。
「いいか、ピーター。肌の色や生まれた場所なんか関係ない。人間はみんな平等なんだ。それをいつも忘れるな」

「ジョン、トミー、俺も本気だよ」(ピーター)

そしてピーターは、2人と同じバッジを胸につけることにしたのです。
バッジを胸につけるということは、2人の行為に賛同するということ……

Sponsored Link

1968年10月16日 世界が注目する中、表彰式が始まりました

ジョンとトミーは靴を脱ぎ、黒い靴下で表彰台に登りました。
これは、アメリカの黒人が差別によって貧困に苦しんでいる現状を表現したもの。

そして、黒人であることの誇りと、彼らと共に立ち上がる意志を訴える為……
頭を垂れ、黒い手袋をはめた手を、天に向かって突き上げたのです!

そして2人の隣に立っているのは、”あの”バッジをつけたピーター・ノーマン。

マットは伯父さんに「どうしてそんなことをしたのか」と尋ねました

ピーターは「マット、見て見ぬフリをする事は出来ない。それは、ジョンやトミーを差別する白人たちと、俺が同じだと認める事になる。肌の色や生まれた場所なんて関係ない。人間はみんな…平等なんだ」と言いました。

「トミーとジョンは、私にとってヒーローでした。彼らは、全てを失う覚悟で拳を突き上げたのです。それに比べたら、私がした行為なんて大した事ではありません」(ピーター・ノーマンさん)

ブラックパワー・サリュートThe Black Power Salute

「ブラックパワー・サリュートThe Black Power Salute」と呼ばれる写真。
黒人の誇りと威厳を主張し、差別に抗議する意志の象徴として世界中に配信され、大きな注目を浴びました。

この後予想通り、トミーとジョンに待っていたのは、地獄のような日々でした。
しかし皮肉な事に、彼らより最も過酷な人生を歩む事になったのは、白人のピーター・ノーマンだったのです。

「ブラックパワーサリュート」の反響は予想以上で、瞬く間に世界中に配信され、賛否両論の嵐を巻き起こしました。
しかし国際オリンピック委員会は、その理念に反するとし、ジョンとトミーをオリンピックから永久追放することを決定しました。
2人は閉会式に出ることさえ許されず、その翌日にはアメリカに強制帰国させられました。

一方、その日、オーストラリアではピーターの史上初の快挙が大々的に報じられ、マスコミと国民は熱狂しました

15日間の開催期間を終え、晴れて帰国の途についたピーター。
しかし空港で待ち受けていたのは、母と妻、そして友人がわずか数名のみでした。

マスコミやファンの姿は、そこにはありませんでした。
ピーターが表彰式で、黒人2人のパフォーマンスに賛同の意志を示した事実が報道されると、賞賛は一変。

未だ白豪主義を貫くオーストラリアのマスコミは、ピーターをこぞって叩き始めました。
それだけでなく、自宅に何通もの脅迫状が届くようになりました。

そして、嫌がらせの次に待っていたのは、徹底した無視でした

マスコミや国民だけでなく、隣人ですら彼の偉業を、まるで「なかったこと」のように扱ったのです。

ピーターはその後、妻とも上手くいかなくなって離婚。
職を転々とするようになってしまいました。

そんな彼を唯一支えていたのは「走ること」でした

ジョンとトミーは永久にオリンピックから追放されましたが、ピーターには、まだオリンピック出場の権利が残されていたのです。
夢の舞台へ向け、練習を重ねたピーター。
オーストラリア国内の大会で何度も優勝し、世界ランク5位を維持し続けました。

そして迎えた1972年、ミュンヘンオリンピックが開催されるこの年、ピーター・ノーマンは30歳になっていました。
それでも、4年間でオリンピック派遣の標準記録を13回突破するなどして好調を維持、彼のオリンピック出場は確実に思えました。

しかし、オーストラリアは、ミュンヘンオリンピックの陸上男子200Mに、なぜか「自国の選手を派遣しない」と発表したのです。

「ミュンヘンオリンピックには本当に出たかった。だがこの仕打ちは、私に陸上界からの引退を決意させるには十分でした」 (ピーター・ノーマンさん)

こうして、銀メダリスト「ピーター・ノーマン」の名は、オーストラリアの人々から完全に忘れ去られてしまったのです

「おじさんは後悔していないの?」(マット)
ピーターはこう言いました。
「確かに俺は、得るはずだった色んなものを失ったのかもしれない。でもなマット、伯父さんの心は満たされているよ。俺は自分の信念を貫き通せた。その事を、母さんやマット、アメリカのジョンとトミーも分かってくれている、それで十分だ」

アメリカのジョンとトミーが、メキシコオリンピックから帰国後に味わった「想像を絶する苦難」

2人ともに、勤め先から解雇。
貧困に苦しむ生活、さらには家族への差別・脅迫も相次ぎ、ついにはジョンの妻が自殺する悲劇まで起こってしまいました。

それでも3人の友情は途切れることはありませんでした。
事あるごとに、手紙や電話で連絡するという関係が続いていました。

「ピーターと、お互いの状況を話し、励ましあったんだ」(ジョン・カーロスさん)

1970年代半ばになると、アメリカでは次第に、黒人の人権が認められるようになりました

その結果、2人を「人種差別と闘った英雄」として評価する声が高まっていき、彼らの名誉は徐々に回復されていきました。
しかし、ピーターの名誉だけは回復される兆しはなく、時間だけがいたずらに過ぎていったのです。

勇気と信念をもって黒人差別へ反対の意思を表明したピーター・ノーマン、その人生は、誰にも知られず永遠に葬り去られるかに思えました。
しかし、メキシコオリンピックから33年が過ぎた2001年、1人の人物が、ピーターの名誉を回復する為に立ち上がりました。

ミュンヘンオリンピックを機に、ピーターは現役を引退しました

その後、若い頃の無理がたたったのかアキレス腱を断裂。
さらには大量に処方された痛み止めが原因で、以来健康が優れずにいました。

しかし、そんな彼の身に「ある変化」が起こりました。
ピーター・ノーマンのドキュメンタリー映画を制作しようと立ち上がった、一人の若手映像作家がいたのです。

実はピーターの甥・マットは、テレビドラマなどを制作するフリーランスの映像作家になっていました

「詳しい話を伯父から聞くにつれ、みんなに知ってほしい物語だと思いました。伯父はどんな代償を払ったのか、そして彼のした事がどれほど大変で勇気ある事だったか。それを伝えられるのはディレクターの自分しかいない、そう思ったんです」(マット・ノーマンさん)

しかし、映画製作は簡単なことではありませんでした。
「忘れ去られた銀メダリスト」の映画に興味を持つ製作会社など、どこにもなかったからです。

しかし、マットは諦めません。
映画で、オリンピックなどの様々な映像を使用するには多額の費用がかかり、関係者への取材や撮影費などと合わせると、製作には約2億円が必要でした。

その資金を捻出するためには、相当な時間もかかります。
マットは自ら、スポンサーを探す一方で、自腹を切ってまで映画製作に取り組みました。

「伯父がした苦労に比べたら何でもない。ピーターの信念を貫くという事の意味を、どうしても問いかけたいと思った」(マット・ノーマンさん)

製作開始から5年近くが過ぎ、ピーターはすでに64歳に

「もう少しだからね、ピーター伯父さん」(マット)
「無理するなマット。もう十分だ」(ピーター)

「伯父さん…」(マット)
「お前が、私の事を世間に知ってもらおうと必死にやってくれてる、それで十分だ。その事が私は、何よりも嬉しいんだよ。ありがとう、マット」(ピーター)

そんなある日のこと、マットのもとに1本の電話が…。
それは、ピーターの死を告げる電話でした。
2006年10月3日、ピーター・ノーマンは、心臓発作で突然この世を去ったのです(享年64歳)。

出棺の時、ピーターの棺に付き添ったのは、他でもない、ジョンとトミーでした

2人は急遽、アメリカから駆けつけ、長年の友に弔いの言葉を贈りました。

「私たちは素晴らしい戦友をなくした。」(ジョン)
「ピーターは道しるべだ。表彰式のあの行為は後世への遺産だ。誇りを持ち、信じていればきっと報われる」(トミー)

ピーターの死から2年後の2008年6月8日、ついにドキュメンタリー映画が完成!

ついに、マット・ノーマン監督のドキュメンタリー映画が完成し、オーストラリアで公開されました。
「敬礼」を意味する「サリュート」と題された映画。
当初はわずか15館の公開だったにも関わらず、口コミで評判が広がり、観客数は徐々に増加しました。

反響は当初の予想を越え、遠く海外からも公開を希望する声が届くまでになりました。
最終的に「サリュート」は、アメリカをはじめ、世界6カ国で上映されました。

しかも、オーストラリアの国内外で、その年の8つの映画賞を受賞したのです。
こうして、オーストラリアのみならず世界中の人々が、ピーター・ノーマンの名と、彼の物語を知ることになりました。

「たくさんの人にこの映画を見てもらい、伯父の行為を伝える事が出来ました。だけど私にとって一番心残りなのは、ピーターにこの作品を見せる事が出来なかった事です」(マット・ノーマンさん)

その4年後の、2012年8月12日、あるニュースがオーストラリア中を駆け巡りました

オーストラリア議会は、ピーター・ノーマンの名誉を回復するための動議を採択し、証人として母・セルマさん(91歳)を招きました。
その上で議会は「一人の行為で世界を変えられる事を、彼は教えてくれました。彼の意思は受け継がれていくでしょう。ピーターがオーストラリアで受けた扱い、また亡くなる前に表彰台で行った行為が評価されなかったことについて謝罪します」

オリンピックの舞台で、自らの信念を貫いたピーター・ノーマンの「勇気と信念」は、半世紀近くの時を経て、オーストラリアの人々に、そして世界中の人々に伝えられたのです。
現在シドニーの小学校では、授業の一環として、映画「サリュート」を子どもたちに見せています。

議会の謝罪によってピーターの名誉が回復される7年前…

銅メダリスト ジョン・カーロスと、金メダリスト トミー・スミスの名誉もまた、完全に回復されていました。
アメリカ・カリフォルニア州にある彼らの母校に”あの表彰台の彫像”が作られたのです。

douzo
[出典:http://blog.goo.ne.jp/pizzica0912/e/375cf622ffa20da9d10fd327f2159813]

その除幕式には、オーストラリアから招かれたピーターも出席。
「アスリートは、オリンピックの表彰台に立つという栄誉のため、一生努力します。なぜか?それは表彰台に立ち、世界中から称賛を受けたいからです。この2人は、1968年、その栄光を自ら手放しました。サンノゼ州立大学のおかげで、今日2人は、その栄光を取り戻しました。その事に、私は感謝をしています」(ピーター)

しかし、2位の場所には、ピーター自身の像はありません。
そこには、彼の強い願いが込められていたのです。

「ピーターが自分で、作ってほしくないと言ったんだ。あの像を見た世界中の人が是非そこに立って、自分ならどうするかを考えて欲しいと」(ジョン・カーロスさん)

台座に実際に刻まれているのは「TAKE A STAND」の文字。
この言葉には、2つの意味が込められているのです。

1つは「ここに立ってみて下さい」

そしてもう1つは「自分が信じた事のために立ち上がりなさい」
[出典:2017年1月26日(木)「奇跡体験!アンビリバボー」]

Sponsored Link

 - 感動

スポンサーリンク

この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます。

Message

メールアドレスが公開されることはありません。

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong>

  関連記事

tarachan
【感動動画】 飼い猫タラちゃんが犬に体当たり、子どもの命を救う! 【全米が泣いた】

子供を犬から救った猫 タラちゃん 猫が猛犬に体当たり、飼い主の子ども救う 米カリ …

150728_000
【感動実話】名犬チロリ物語~捨て犬からセラピードッグへ

虐待された犬が、多くの人を救った感動の物語 犬と歩けば〜チロリとタムラ〜 【DV …

akaruiyasumura
【感動秘話】とにかく明るい安村!! その嫁の知られざる素性とは

「とにかく明るい安村」を支えた妻からの手紙に感動! 奥さんに対する疑問 2015 …

150302_008
【感動実話】嫌がらせのためだけのキャラ弁に秘められた母娘の絆

キャラ弁に込めた母の愛 はじまりはここから ⇒ ttkkの嫌がらせのためだけのお …

1
【感動】ゴルゴ松本 女子少年院で魂の授業

ゴルゴ松本 女子少年院で魂の授業 今回は女子少年院 少年院で言葉を熱く語る男、「 …

John Dolan
ジョン・ドーラン 奇跡のアーティスト&犬のジョージ感動物語

ホームレスから人気画家へ★犬と紡いだ奇跡の友情 どん底の人生を送っていた孤独なホ …

9
【感動】永六輔が遺した永遠の言葉 名言金言

前向きに…生で思い出したい永六輔が遺した言葉たち 人は二度死ぬんだよ 古舘伊知郎 …

150628_000
【感動実話】横綱曙太郎とイチローのレジェンドエピソード

横綱が変えた少年の未来 第64代横綱・曙 太郎 基本的に、大相撲は、番付で全ての …

img1630
ほんとにあったイイ話~奥さんが妊娠してから一歩前を歩くようになったダンナの話

以前は、横並びに歩いていたご主人が、 妊娠した奥さんと歩くときは、前を歩くように …

150508_000
【感動実話】トムワトソン キャディ ブルースエドワーズ物語

伝説のゴルファーが語る奇跡の友情 天国のキャディへ   トム・ワトソン …