渋沢栄一の偉大な功績:新札の顔 知られざる生涯【豆知識】

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渋沢栄一:何をした?どんな人?

渋沢栄一は、天保11年(1840年)2月13日、武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市血洗島)に父・市郎右衛門、母・エイの長男として生まれました(幼名は市三郎。後に、栄一郎、篤太夫篤太郎と改名、渋沢成一郎は従兄)。
渋沢家は、藍玉の製造販売と養蚕を兼営し、米・麦・野菜の生産も手がける豪農でした。
原料の買い入れと販売を担うため、般的な農家と異なり、常に算盤をはじく商業的な才覚が求められました。
市三郎も父と共に、信州や上州まで藍を売り歩き、藍葉を仕入れる作業も行いました。14歳の時からは単身で藍葉の仕入れに出かけるようになり、この時の経験がヨーロッパ時代の経済システムを吸収しやすい素地を作り出し、後の現実的な合理主義思想につながったといわれています。

徳川慶喜の家臣・幕臣時代

一方で5歳の頃より父から読書を授けられ、7歳の時には従兄の尾高惇忠の許に通い四書五経や『日本外史』を学び、剣術は大川平兵衛より神道無念流を学びました。18歳の時(1858年)に惇忠の妹・尾高千代と結婚、名を栄一郎と改めますが、文久元年(1861年)に江戸に出て海保漁村の門下生となります。また、お玉が池の北辰一刀流:千葉栄次郎の千葉道場に入門し、剣術修行の傍ら勤皇志士と交友を結びます。

その影響から文久3年(1863年)に尊皇攘夷の思想に目覚め“高崎城を乗っ取って武器を奪い、横浜を焼き討ちにした後、長州と連携して幕府を倒す”という計画をたてますが、惇忠の弟長七郎の懸命な説得により中止しました。
それから、親族に累が及ばぬよう父より勘当を受けた体裁を取って京都に上りますが、文久の政変直後で勤皇派が凋落した京都での志士活動に行き詰まります。
そこで、江戸遊学の折より交際のあった一橋家家臣:平岡円四郎の推挙により一橋慶喜に仕えることになります。仕官中は一橋家領内を巡回し、農兵の募集に携わっていました。故郷からも多くの青年が一橋家に仕えました。

フランス滞在時代

主君の慶喜が将軍となったのに伴い幕臣となり、パリで行われる万国博覧会に将軍の名代として出席する慶喜の弟徳川昭武の随員として、フランスを訪れます。パリ万博を視察したほか、ヨーロッパ各国を訪問する昭武に随行します。
各地で先進的な産業・軍備を実見すると共に、将校と商人が対等に交わる社会を見て感銘を受けます。ちなみにこの時に彼に語学を教えたのは、シーボルト医師の長男で通訳として同行していたアレキサンダーでした。(帰国後もその交友は続き、アレキサンダーは弟のハインリッヒと共に後に明治政府に勤めた渋沢に対して日本赤十字社設立など度々協力をするようになります)。
パリ万博視察とヨーロッパ各国訪問を終えた後、昭武はパリに留学しましたが、大政奉還で江戸幕府は消滅し、慶応3年(1867)に新政府から帰国を命じられ、12月に帰国しました。

大蔵省時代

帰国後は静岡に謹慎していた慶喜と面会し、静岡藩より出仕することを命ぜられるも、慶喜より『これからはお前の道を行きなさい』との御言葉を拝受し、フランスで学んだ株式会社制度を実践するため、及び新政府からの拝借金返済の為、明治2年(1869年)1月静岡にて商法会所を設立します。
が、大隈重信に説得され、10月に大蔵省に入省します。大蔵官僚として「民部省改正掛」(当時、民部省と大蔵省は事実上統合されていた)を率いて改革案の企画立案を行ったり、「度量衡の制定」や「国立銀行条例制定」に携わります。
1870年には日本近代産業育成のため富岡製糸場を建設し、尾高惇忠と共に養蚕業を全国に広げました。しかし、軍備拡張や予算編成を巡って、大久保利通や大隈重信と対立し、明治6年(1873年)に井上馨と共に退官します。

『論語と算盤』

大正5年(1916年)に『論語と算盤』を著し、「道徳経済合一説」という理念を打ち出しました。幼少期に学んだ『論語』を拠り所に倫理と利益の両立を掲げ、経済を発展させ、利益を独占するのではなく、国全体を豊かにする為に、富は全体で共有するものとして社会に還元することを説くと同時に自身にも心がけた。

『論語と算盤』にはその理念が端的に次のように述べられている。富をなす根源は何かと言えば、「仁義道徳、正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ。そして、道徳と離れた欺瞞、不道徳、権謀術数的な商才は、真の商才ではない」と言っています。また、同書の次の言葉には、栄一の経営哲学のエッセンスが込められています。

「事柄に対し如何にせば道理にかなうかをまず考え、しかしてその道理にかなったやり方をすれば国家社会の利益となるかを考え、さらにかくすれば自己のためにもなるかと考える。そう考えてみたとき、もしそれが自己のためにはならぬが、道理にもかない、国家社会をも利益するということなら、余は断然自己を捨てて、道理のあるところに従うつもりである」

幕末に栄一と同じ観点から備中松山藩の藩政改革にあたった陽明学者山田方谷の門人で「義利合一論」(義=倫理・利=利益)を論じた三島中洲と知り合うと、両者は意気投合して栄一は三島と深く交わるようになります。栄一は、三島の死後に彼が創立した二松学舎の経営に深く関わることになります。

実業家時代

退官後間もなく、官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行(第一銀行、第一勧業銀行を経て、現:みずほ銀行)の頭取に就任し、以後は実業界に身を置きます。また、第一国立銀行だけでなく、七十七国立銀行など多くの地方銀行設立を指導します。第一国立銀行のほか東京ガス、東京海上火災保険、王子製紙、東京証券取引所、秩父セメント(現:太平洋セメント)、帝国ホテル秩父鉄道京阪電気鉄道、キリンビールなど、多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上といわれています。同若い頃は頑迷なナショナリストでしたが、「外人土地所有禁止法」(1912年)に見られる

日本移民排斥運動などで日米関係が悪化した際には、対日理解促進のためにアメリカの報道機関へ日本のニュースを送る通信社を立案しました。成功はしませんでしたが、これが現在の時事通信社と共同通信社の起源となりました。

渋沢が三井高福・岩崎弥太郎・安田善次郎・住友友純・古河市兵衛大倉喜八郎などといった他の明治の財閥創始者と大きく異なる点は、「渋沢財閥」を作らなかったことにあります。「私利を追わず公益を図る」との考えを生涯に亘って貫き通し、後継者の孫の敬三にもこれを固く戒めました。また、他の財閥当主が軒並み男爵なのに対し、渋沢一人は子爵を授かっているのも、そうした公共への奉仕が早くから評価されていたためでした。
なお、渋沢は財界引退後に「渋沢同族株式会社」を創設し、これを中心とする企業群が後に「渋沢財閥」と呼ばれたこともあって、他の実業家と何ら変わらないのではないかとの評価もあります。しかし、これはあくまでも死後の財産争いを防止するために便宜的に持株会社化したもので、渋沢同族株式会社の保有する株は、会社の株の2割以下、ほとんどの場合は数パーセントにも満たないものでした。

教育・社会活動

渋沢は実業界の中でも最も社会活動に熱心で、東京市からの要請で養育院の院長を務めたほか、東京慈恵会、日本赤十字社、癩予防協会の設立などに携わり財団法人聖路加国際病院初代理事長、財団法人滝乃川学園初代理事長、YMCA環太平洋連絡会議の日本側議長などもしました。関東大震災後の復興のためには、大震災善後会副会長となり寄付金集めなどに奔走しました。

また、当時は商人に高等教育はいらないという考え方が支配的でしたが、商業教育にも力を入れ商法講習所(現:一橋大学)大倉商業学校(現:東京経済大学)の設立に協力したほか、二松学舎(現:二松学舎大学)の第三代舎長に就任しました。
学校法人国士舘(創立者・柴田徳次郎)の設立・経営にも携わり、井上馨に乞われ同志社大学創立者新島襄)への寄付金の取り纏めにも関わりました。

さらに、商人同様に教育は不要だといわれていた女子の教育の必要性を考え、伊藤博文、勝海舟らと女子教育奨励会を設立、日本女子大学校・東京女学館の設立に携わりました。また、日本国際児童親善会を設立し、日本人形とアメリカの人形(青い目の人形)を交換するなどして、交流を深めることに尽力しています。1931年には中国で起こった水害のために、中華民国水災同情会会長を務め義援金を募るなどし、民間外交の先駆者としての側面もあります。
尚、渋沢は1926年と1927年のノーベル平和賞の候補にもなっています。

明治神宮の森造営
明治天皇崩御後、東京に陵墓をという嘆願から明治神宮造営運動が起こります。内苑は国費で、外苑は民間の献金で造営されますが、渋沢栄一と娘婿の阪谷芳郎が中心となりました。渋沢栄一の知恵袋といわれた本田静六博士は、自ら世代交代を繰り返す天然林相を作り上げました。明治神宮の森は、11万人のボランティアで作り上げた人口の「永遠の自然の森」で、それはSDGsの先駆けとなるのです。

渋沢栄一の人生観

天の命ずるままに生きれば何も心配はない。やるべきことをやる、結果は天に預ける。
「天を恨みず、人を咎めず、下学して上達す。我を知る者はそれ天か」
人間の生き方には「忠恕」がなくてはならない。「夫子の道は忠恕のみ」「克己復礼」

他のために生きる所に人生に価値がある。自己中心的な人は、決して好い人生が送れない。学問と精神と健康があれば、人は自分の力で生きていける。「論語と算盤」を一致させることが事業成功への道である。

若者が注意すべきは仕事に不平を抱かないこと。「温順・忠実・活発・無邪気」な青年が求順境も逆境も人間が自分で作り出すもの、真の逆境は受け入れて諦めるのが最善の策。心の持ち方は「事足れば足るに任せて事足らず、足らで事足る身こそ安けれ」足るを知る。

真理探究はどの道でもよい「分け登る麓の道は多けれど、同じ高嶺の月を見るかな」心学

渋沢家の系譜

江戸末期、血洗島村には渋沢姓を名乗る家が17軒あった。このため、家の位置によって「東ノ家」「西ノ家」「中ノ家」「前ノ家」「新屋敷」などと呼んで区別した。
栄一の父市郎右衛門は「東ノ家」の当主二代目宗助の三男としてうまれたが、「中ノ家」に養子にはいる。明暦年間の「中ノ家」は小農にすぎなかったが、栄一が生まれる頃になると村の中で二番目の財産家となっていた。栄一が故郷を出てからは妹の貞子が「中ノ家」を守り、須永家より市郎をむかえ4代目とした。
貞子・市郎夫妻の長男:元治は初代名古屋大学総長となった。本家「東ノ家」からはフランス文学者の澁澤龍彦が出ている。

栄一は尾高惇忠の妹千代と結婚(篤二、歌子、琴子、ふみの母)したが、千代は明治15年に死去し、翌16年に伊藤兼子(照子、武之助、正雄、愛子、秀雄の母)と再婚した。兼子の父は武蔵国川越出身の大富豪伊藤八兵衛で、画家の淡島椿岳は八兵衛の実弟、作家の淡島寒月は甥にあたる。

渋沢栄一の子孫(中ノ家)

【子】
・渋沢篤二(長男:廃嫡)
・穂積歌子(長女:学者の穂積陳重男爵の妻)
・阪谷琴子(次女:大蔵大臣:阪谷芳郎子爵の妻)
・尾高ふみ(三女:東洋生命社長・尾高次郎の妻)
・大川照子(四女:富士製紙社長:大川平三郎の妻
・渋沢武之助(次男)
・渋沢正雄(三男:日本製鐵副社長)
・渋沢秀雄(四男:東京宝塚劇場会長、東宝取締役会長)
・明石愛子(五女:第一銀行社長:明石照男の妻)
・長谷川重三郎(庶子:第一銀行頭取)

【孫】
・渋沢敬三子爵(民俗学者、日銀総裁、大蔵大臣、父の廃嫡後に栄一より後継者に指名される)
・渋沢信雄(貿易商、妻は音楽教育家齋藤秀雄の妹)
・渋沢智雄(渋沢倉庫常務)
・鮫島純子(鮫島員重の妻)
・穂積重遠(法学者、最高裁判事)
・尾高朝雄(法哲学者)
・尾高邦雄(社会学者、妻は哲学者:和辻哲郎の娘)
・尾高尚忠(指揮者)
・明石正三(足利銀行監査役)
・明石武和(味の素常務)

エピソード

日本史上を代表する経済人として、また初代紙幣頭(後の印刷局長)として日本銀行券(紙幣の肖像の候補者として過去に何回か挙げられたものの実現には至っていない。特に日本銀行券C千円券(1963年11月1日発行開始)の肖像候補として最終選考に残ったが、結局伊藤博文が採用された。当時は偽造防止に、肖像にヒゲがある人物が用いられていたためである。

日本では渋沢の肖像を入れた紙幣は発行されなかったが、1902年から1904年にかけて大韓帝国で発行された初期の第一銀行券の1円5円、10円券には当時の経営者だった渋沢の肖像が描かれていた。【韓国に第一銀行の支店を作り、韓国政府のために尽くした。明治41年、韓国銀行(中央銀行)に引き継がれる】→伊藤博文

渋沢は晩年を川越市で過ごした。深谷市では、栄一の命月の11月が「渋沢栄一記念月間」に指定され、毎年イベントが催されている。埼玉県子ども会育成連絡協議会が発行した『さいたま郷土かるた』の「に」の項目は「日本の産業育てた渋沢翁」となっており、畠山重忠、塙保己一と並ぶ埼玉を代表する偉人として、3人札(役札:3枚そろえると10点)に選出されている。
また『彩の国21世紀郷土かるた』の「え」の項目は「栄一も食べたネギ入り煮ぼうとう」となっている。これは深谷ねぎが栄一の故郷の深谷の特産品であることと、煮ぼうとうが埼玉県北部の郷土料理であることにちなんでいる。

・居合の達人だった。
・現在埼玉県では渋沢の功績に因み、健全な企業活動と社会貢献を行っている全国の企業経営者に「渋沢栄一賞」を授与している。

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