★三遊亭圓楽(六代目)プロフィール

三遊亭円楽(六代目)

六代目 三遊亭 圓楽(190年(昭和2年)2月8日 – 2022年(令和4年)9月30日)は、日本の落語家、俳優。東京都墨田区出身。出囃子は『元禄花見踊』。本名は會 泰通。五代目圓楽一門会所属で、幹事長を務める。2017年6月27日から、客員として落語芸術協会に加入し、2つの噺家団体で活動していた。マネジメントはオフィスまめかな。長男は落語家・声優の会一太郎(落語家としての名称は三遊亭 一太郎)

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経歴

東京都墨田区出身。
墨田区立両国中学校、東京都立深川高等学校、青山学院大学法学部卒業。
1970年4月の青山学院大学在学中、五代目三遊亭圓楽の鞄持ちのアルバイトに志願。

付き人を経てスカウトされ入門し、大師匠六代目三遊亭圓生の命名により「楽太郎」を名乗る。
圓楽の「楽」に長男を意味する「太郎」で楽太郎となった。なお、当時圓楽一門には兄弟子の楽松がいたが、楽松については六代目圓生の本名「松尾」の「松」を与えたとされている。
他の名前の候補には『道楽』、『楽々』、『楽がん』などがあった。大学の落語研究部に所属しており、後に兄弟子となる三遊亭楽松とは落研の発表会で会うなど、入門前から面識があった。

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1972年3月に青山学院大学法学部卒業。
1976年7月、二ツ目昇進。
1977年8月28日、六代目三遊亭圓窓の後任として『笑点』レギュラーとなる。五代目圓楽の降板で欠員が出ていたため、代目が着ていた薄紫の色紋付を着用することとなった。
1978年、落語協会分裂騒動で師匠と共に落語協会を脱退し、落語三遊協会所属となる。
1979年1月、放送演芸大賞最優秀ホープ賞受賞。
1980年に落語三遊協会が解散し、大日本すみれ会(現:五代目圓楽一門会)所属となる。
1981年1月、若手落語家努力賞受賞。3月に真打昇進。

2007年より「博多・天神落語まつり」のプロデュースを手がけており、東西の大物落語家なども登場する一大イベントとなっている。
2010年3月1日、初名の三遊亭 楽太郎から師匠の名跡である六代目三遊亭圓楽を襲名した。
2016年6月10日、写真週刊誌「フライデー」に40代女性と錦糸町のラブホテルへ入る様子を撮影された件で、釈明会見を開き不倫関係にあることを認めた。
この際、冒頭で相手との出会いや関係について自らつまびらかに語り、不倫相手・「フライデー」・妻・落語関係者・『笑点』関係者に対して謝罪と感謝の言葉を述べ、報道陣の質問にも制限をほとんど設けずすべて答えたため、「神対応」と評価された。
なお、掲載直後の『笑点』の大喜利(2016年7月3日放送分)では、挨拶の前に司会の春風亭昇太からこの不倫報道を理由に問答無用で座布団を全部没収された。
2017年6月27日に開かれた落語芸術協会の総会において客員での加入が認められ、同日より五代目圓楽一門会と並行して落語芸術協会の落語家としても活動する。
これにより、落語協会脱退以来39年ぶり(厳密には6代目圓楽襲名披露興行を落語芸術協会の協力の下、定席興行にて実施しているため、それ以来7年ぶり)に定席興行に出演できるようになった。また、この加入は単身での加入であり、6代目圓楽門下の弟子は引き続き五代目圓楽一門会のみの所属となる。

2018年9月28日、自身の所属する事務所の公式ホームページを通じて初期の肺がんであることを公表。翌月の日に手術を行い、12日に復帰した。
2019年月24日から26日にかけて札幌市内の三か所のホールを会場に三遊亭圓楽プロデュース「さっぽろ落語まつり」第一回開催。
28名の落語家が出演、主催はテレビ北海道、北海道新聞社ほか。同年7月18日、検査で脳腫瘍が見つかり、19日、検査と治療のため3週間ほど入院することを発表した。
8月11日、病院からの一時外出という形で国立演芸場・8月中席に出演、トリを務め、高座復帰を果たす。19日に退院。

2020年11月に開催された新型コロナウイルス感染症流行下におけるがん検診の重要性を訴えるセミナーで、2019年に肺がんが再発していたがごく初期のため薬を変えて検査数値が良くなったこと、過去に初期の大腸がんも患っていたこと、現在も毎月がん検診を受けていることなどを報道陣に明らかにした。
2021年6月13日、有楽町よみうりホールにおいて、弟子の伊集院光と二人会を開催(昼夜2公演)。
2020年月に伊集院のラジオ番組にゲスト出演した際に圓楽が開催を持ちかけたことがきっかけとなった。
伊集院としては30年ぶりの高座復帰となり、また昼公演では実子の一太郎が6年ぶりに高座に立ち、夜公演では伊集院がかつて名乗っていた高座名を引き継いだ三遊亭楽大が出演した。
2022年1月2日、脳梗塞のため入院したことを所属事務所が26日に発表。
2月18日、脳梗塞の治療は終了したものの更なるリハビリの継続と既往症である肺がんの経過観察・治療等の理由から退院の目処が立たず、大事をとって今年の「夏頃まで」休養することを所属事務所が発表した。
7月19日、国立演芸場の8月中席(11日 – 20日)で高座復帰することが明らかにされた。
復帰した際のイベントでは「まだ、死んでねえよ」とブラックジョークを発する気概を見せた。
8月11日、国立演芸場の8月中席(落語芸術協会主催)で高座復帰し『猫の皿』を披露、同日の取材では、高次脳機能障害として短期記憶障害があることを明らかにした。
なお、同席には4日間出演し、同月20日の千秋楽に出演した際は車椅子でハンドマイクを使っており、声もかすれ気味で「この2~3日ゼイゼイ、ヒイヒイいってる。肺炎ではないが、肺に水がたまっている」と話していた。この20日の高座出演が結果として生前最後の高座出演となった。

同年8月26日、息苦しさを感じて主治医による検査を受けたところ、軽度の肺炎を発症していたため入院。数週間の入院の見通しであることから8月30日に予定されていた「三遊亭円楽独演会」の中止を発表した。同年9月30日午前、肺がんのため死去。同日、所属事務所が公表した。72歳没。

芸歴

1970年4月 – 五代目三遊亭圓楽に入門、「楽太郎」を名乗る。
1976年7月 – 二ツ目昇進。
1977年8月 – 『笑点』の大喜利メンバーに加入。
1978年 – 落語協会分裂騒動で師匠と共に落語協会を脱退し、落語三遊協会所属となる。
1980年 – 落語三遊協会解散、大日本すみれ会所属となる。
1981年3月 – 真打昇進。
2010年 – 『六代目三遊亭圓楽』を襲名。
2017年6月 – 落語芸術協会に客員として加入。

六代目圓楽襲名

2008年8月、師匠・5代目圓楽から、楽太郎(6代目圓楽)が還暦を迎える2010年2月に6代目圓楽を襲名をすることが発表された。
当時、楽太郎が60歳を迎えるのが2010年の2月で、真打昇進したのが1981年の春(3月)だったため、その頃を目処にという表現をしていた。
楽太郎は「圓楽の名跡は師匠(5代目)が大きくしたもの。5代目・6代目はよかったねと言われるよう精進したい」と語った。

しかし、自らがプロデュースする「博多・天神落語まつり」開催直前の2009年10月29日、5代目が肺癌で死去した。既に福岡入りしていた楽太郎は、師匠の最期には立ち会えなかった(2009年9月3日に、長男の一太郎を伴って、5代目圓楽の自宅へ自分の弟子にしたと挨拶に訪問したのが直接対面した最後だったとのこと。
この日は大師匠である6代目三遊亭圓生の誕生日と命日でもあり、墓参りもしていたとしている)。
翌日の開幕式では気丈に振舞っていたものの、師匠を失い、襲名披露に立ち会ってもらえなくなったという精神的ショックは大きく、報道陣に対しては自筆のコメントペーパーを出すのが精一杯だった。
その後も、仕事で地方廻りがあったため、対面は一門による通夜が行われた11月4日となった。

2010年2月28日放送の『笑点』にて「六代目圓楽襲名披露口上」を行い、翌3月1日付で正式に6代目圓楽を襲名した。
3月2日には、襲名披露パーティーと記者会見を帝国ホテルにて開催し、襲名披露公演は3月3日の高知県立県民文化ホールを皮切りに12月まで全国80か所以上で行われ、3月15日には新橋演舞場、2010年3月下席から4月中席まで落語芸術協会の定席興行(新宿末廣亭、浅草演芸ホール、池袋演芸場)でも開催された。
寄席定席での披露興行は、楽太郎の要望に応じた落語芸術協会会長の桂歌丸の協力により実現し、当人の定席への出演は32年ぶりとなった。
また5月31日には、横浜市の三吉演芸場で行われた歌丸一門会でのトリを務めた。

笑点のオープニングではアニメーションが変更され、2010年2月28日から2016年5月8日の放送まで「六代目」の寄席文字が入っていた(英語標記も、6th SANYUTEI ENRAKUとなっていた)。
襲名と同時に、5代目が担当していた日本香堂・毎日香のCMナレーションも継承した。

逸話

しばしば、政治・社会風刺ネタを用いる。
父は警視庁の警察官で、反抗心からか学生時代にはブントに所属し学生運動にも参加していたが、「ユートピアを追うことに疲れ、そのときに落語を聞き返したところ、その中にユートピアがあることを発見し、落語に生きることにした」と語っている。

高校生の頃、青山学院大学の入試に軽い気持ちで受けたら合格できたという。
20歳で圓楽に弟子入りし、概ね5年ごとに節目を迎えてきたため、いつしか「5年計画」で物事を進めるようになった。
そのため、圓楽襲名の話が師匠からあった際も、すぐにというわけではなく、その5年ごとの節目にもあたる60歳にという意向で、6代目襲名の話を進めることになったと語っている。

若手時代、瀬古利彦に顔が似ているとされており、テレビで瀬古の物真似をすることが多かった。
瀬古が所属していた「S&B」の文字が入ったランニングシャツを着て「これは『三遊亭楽太郎は、僕です』の略字」と説明するなどのギャグを披露していたが、35歳を迎える1985年正月より「落語で勝負したい」として、瀬古の物真似を封印した。
数年後、瀬古の方から「楽太郎に似ている」ことを話のネタにするという逆転現象となった。
現在も交流があり、2010年3月の6代目圓楽襲名披露パーティーにサプライズゲストとして瀬古が出演した。

2015年1月1日に放送された『笑点』正月特番では、女性アナウンサーとの大喜利コラボ企画で「青山頑張れ!」と母校の青山学院大学陸上部を応援し、翌日開催された箱根駅伝において、青学陸上部は完全優勝を果たした。
これに2区を走った一色恭志が、感謝のツイートを上げている。

最初の弟子は、後に放送作家に転身した石田章洋(門下当時は花楽京)で、二番目はタレントに転身した伊集院光(門下当時は楽大)である。

プロレスファンとして知られる。天龍源一郎とは仲が良い。
ゆでたまごが天龍の試合観戦中に観客とトラブルになった際に、それを仲裁したのが圓楽だった。
それがきっかけで、ゆでたまごは天龍同盟の飲み会に参加するようになったとのことである。
実際、天龍とは中学時代の同級生である。また、ウルティモ・ドラゴンが立ち上げた「闘龍門」の理事長を務めたこともあった。

かつて「おはよう!ゲートボール」で審判員として出演した経験から、ゲートボール審判員の資格を持っている。

先代圓楽と三遊亭圓丈とは、落語協会脱退後に袂を分かつ状態となったため特段の交流は無かったが、2013年の圓丈の著書「落語家の通信簿」について、圓楽が誤認を指摘して増刷時に修正されたのを機に意気投合し、2014年に圓丈・圓窓の一門弟子と共に圓生一門の合同落語会「三遊ゆきどけの会」が開催されることとなった。2016年からは「三遊落語祭」と名前を変え、以降も年1回ペースで開催している。

五代目が創設した五代目圓楽一門会と、桂歌丸が会長を務めた落語芸術協会(客員)との二重所属である。更に、入門当時は落語協会に在籍しており、圓楽一門会独立後の1990年頃、落語立川流に非落語家の著名人枠である立川流Bコースに「立川談次郎」の名で所属していたことがある。
あくまで圓楽一門会所属の落語家である故に、プロ落語家として落語家団体の二重加盟を避けたためであると思われるが、立川談志との交流関係を伺わせるエピソードであり、六代目襲名披露にも病をおして談志が出演している。
主要噺家4団体全てに、何かしらの形で在籍歴がある唯一の噺家となっている。

元衆議院議員の東祥三とは長い付き合いがあり応援をしている。

五代目が生前、曹洞宗釈迦尊寺(群馬県前橋市)の住職との親交があったため、その関係から6代目も前名の楽太郎時代から釈迦尊寺との繋がりがある。
自身は「俺は次男なので実家の墓に入れないから」と、釈迦尊寺に生前墓(寿陵)を建立している。
2016年3月には釈迦尊寺にて得度(出家)式を行い、『楽峰圓生』(らくほうえんしょう)の僧名を賜った。

上記の釈迦尊寺との関係もあり、前橋市出身の立川談之助(立川談志一門)、弟弟子でもある三遊亭竜楽と共に、「まえばし観光大使」を委嘱されている。

1985年8月12日、笑点の企画で五代目圓楽、桂歌丸、初代林家木久蔵(現・林家木久扇)、三遊亭小遊三、林家こん平、古今亭朝次(現・七代目桂才賀)、山田隆夫と、翌日の阿波踊りに参加するべく徳島入りする予定だったが、予約した徳島行きの航空機が大幅に遅延し、徳島空港が悪天候のため、予約便は条件付き運行となった。
そこで1つ後の日本航空123便に搭乗して、神戸から船で移動する案が浮上したが、こん平が「いいじゃないかい、決まった便でゆったり行こうよ、きっと徳島空港に着陸できるよ」と提案したため、元の徳島便に搭乗し、日本航空123便墜落事故から逃れることができた。
徳島空港到着後、宿泊先のホテルへタクシーで移動中に、墜落事故を知ったという。

同期入門の噺家として春風亭小朝、立川ぜん馬らがいる。

かつてはヘビースモーカーだったが2009年に禁煙した。

大喜利メンバーとして

1977年8月28日より『笑点』の大喜利メンバーに加入し、レギュラー出演している。
なお、『笑点』には入門直後から、5代目の付き人・裏方として関わっていた。

2022年の時点での大喜利メンバーの中では林家木久扇(1969年11月加入)に次ぐ古参である反面、2004年12月に林家たい平が代理メンバーとして加入するまでは、1歳年下の桂才賀がメンバーだった一時期(1980年11月2日-1988年3月27日)を除いて、最年少メンバーだった。

インテリ、セレブ、腹黒、友達がいないキャラを担当。
但し、2019年4月以降はたい平と親友という設定ができ、互いに「円楽っち」「たい平っち」と呼び合っている。

かつてノベルティーグッズとして『腹黒時計』なるものを制作していたことがあり、時計の一部は弟子筋にも配布されている。

他にも、林家木久扇が販売している「木久蔵ラーメン」に対抗して、「圓楽腹黒ラーメン」を販売している。

五代目が司会を務めていたころ、自身に対するダメ出しで番組が締めになるなど師匠から厳しく叱責されたため、降板を考えたことがある。
しかし、当時の番組プロデューサーである本多益幸から説得を受け、思いとどまった。
自身が褒められたのは5代目が死去する2年ほど前であり、「おまえもようやく少しは“らしく”なったねぇ」と言われたという。

兄弟弟子である好楽が運営する池之端しのぶ亭は『笑点』のネタで、「解体工事中」「客が来ない」などと多用している。
師匠・五代目圓楽に対しては、師匠の作った寄席の若竹が潰れて借金まみれ、顔長の馬面(「馬頭観音」「馬の耳に念仏」など)といった罵倒ネタを、歌丸とともに多用していた。
メンバーの中では「他メンバーに毒を吐く」イメージがあるが、収録の際はパン等の差し入れを毎回している。

昇太が司会に就任してからは、司会の座を奪おうとするネタを多用するようになった。
ただし、これはあくまでも番組としてのネタであり、本人は自ら司会をやることに対しては否定的な発言をしている。なお、2018年4月1日のエイプリルフール企画と2021年5月9日の笑点55周年企画において、昇太と入れ替わる形で司会を2回担当したことがある。

桂歌丸との関係

五代目圓楽の司会就任以降、大喜利メンバーの先輩である歌丸との罵倒合戦を繰り広げており、歌丸司会当時は、政治批判や時事ネタを活かして座布団を獲得するも、罵倒ネタ(主にジジイネタ・禿または髪の毛のネタ・臨終または葬式ネタなど)を用いて(稀に両隣の昇太とたい平や全員を巻き込んで)大量ないし全部没収されてしまうことがしばしばあった。
番組内では犬猿の仲を演じていたが、若手時代にネタに困っていた楽太郎に歌丸が「俺のことでもいいから」とアドバイスしたのが罵倒合戦の始まりであり(圓楽曰く「罵倒ネタを用いた際は収録後に謝るようにしている」)、歌丸との仲は良く、二人会等番組外での共演も多くメキシコで一緒に海外公演を行ったこともあった。
圓楽が主催し、東西の落語家が協会の垣根を超えて出演する『博多・天神落語まつり』にも、歌丸は亡くなる前年の2017年まで毎年出演していた。
6代目襲名の際、5代目が死去していたこともあって歌丸が後見人を引き受け、襲名披露を落語芸術協会の定席興行で実現させた。

2017年6月より、歌丸が会長を務める落語芸術協会に単身で客員として加入することになったが、その仲介役となったのが会長の歌丸と、同じく笑点メンバーで副会長の三遊亭小遊三であった。

長年に渡る関係から、圓楽の歌丸へ対する尊敬の念は大きく、2015年10月には『桂歌丸師匠を人間国宝にする会』を立ち上げ、歌丸を落語界4人目の人間国宝にすべく署名運動を展開したこともあった。

2018年7月の歌丸死去の際にはコメントで歌丸のことを、噺家としての父である師匠の5代目圓楽に次いで、自身を支えてくれた『最後の父親』と称し、歌丸への思いを綴った。
歌丸との生前最後の対面となった同年6月20日の見舞いの際には、その様子を共に見舞った笑点の番組関係者がビデオ撮影しており、撮影映像が7月12日に日本テレビで生放送された歌丸追悼特別番組で『歌丸生前最後の映像』として放送された。

歌丸の死後最初の放送となった7月8日放送の笑点は、「歌丸追悼スペシャル」として歌丸を偲んでの追悼大喜利が行われ、この中で圓楽は大喜利最後の回答で指名され、亡き歌丸相手に「ジジイ!早過ぎるんだよ!」と最後の罵倒を叫んで、長年の罵倒合戦を涙ながらに締め括った。

歌丸の死後も高座や笑点の回答にて歌丸に関連することをしばしば話しており、前述の肺がんや脳腫瘍が判明した時は「歌丸師匠が呼んだかと思った」と話している。

歌丸の弟子達とも歌丸の生前より親交があり、歌丸一門の落語会にゲストとして呼ばれたり、2018年の落語芸術協会ファン感謝デー「芸協らくごまつり」にて設けられた弟子達による追悼座談会に参加した他、自身が客員として所属している落語芸術協会の定席で共演することがある。

歌丸が長年トリを務めていた国立演芸場8月中席のトリを引き継ぎ、2019年、2020年、2021年と高座をつとめた。
前述通り、2016年に得度しており、歌丸の葬儀では僧侶が用いる黒衣と袈裟を着て参列した。

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