★三笑亭可楽(八代目)三方一両損

三笑亭可楽(八代目)

あらすじ

神田白壁町の長屋に住む左官の金太郎.ある日、柳原の土手で、同じく神田堅大工町の大工・熊五郎名義の書きつけと印形、三両入った財布を拾ったので、早速家を訪ねて届ける。

ところが、偏屈で宵越しの金を持たない主義の熊五郎、印形と書きつけはもらっておくが、オレを嫌って勝手におさらばした金なんぞ、もうオレの物じゃねえから受けとるわけにはいかねえ、そのまま持って帰れと言い張って聞かない。

人が静かに言っているうちに持っていかないとためにならねえぞと、親切心で届けてやったのを逆にすごむ始末なので、金太郎もカチンときて、大喧嘩になる。
騒ぎを聞きつけた熊五郎の大家が止めに入るが、かえって喧嘩が飛び火して、熊が「この逆蛍、店賃はちゃんと入れてるんだから、てめえなんぞにとやかく言われる筋合いはねえ」と毒づいたから、大家はカンカン。

こんな野郎はあたしが召し連れ訴えするから、今日のところはひとまず帰ってくれと言うので、腹の虫が納まらないまま金太郎は長屋に引き上げ、これも大家に報告すると、こちらの大家も、向こうに先に訴えられたんじゃあ、てめえの顔は立ってもオレの顔が立たない。
と、急いで願書を書き、金太郎を連れてお恐れながらと奉行所へ。

さて、これより名奉行、大岡越前守様のお裁きとあいなる。
お白州でそれぞれの言い分を聞くとお奉行様、問題の金三両に一両を足し、金太郎には正直さへの、熊五郎には潔癖さへのそれぞれ褒美として、各々に二両下しおかれる。
金は、拾った金をそのまま取れば三両だから、都合一両の損。
熊も、届けられた金を受け取れば三両で、これも一両の損。

奉行も褒美に一両出したから一両の損。
従って三方一両損で、これにて丸く納まるという、どちらも傷つかない名裁き。
二人はめでたく仲直りし、この後奉行の計らいで御膳が出る。
「これ、両人とも、いかに空腹でも、腹も身のうち。たんと食すなよ」
「へへっ、多かあ(大岡)食わねえ」

「たった一膳(=越前)」

プロフィール

8代目三笑亭 可楽(1898年〈明治31年〉1月3日 – 1964年〈昭和39年〉8月23日)は、東京府東京市下谷区(現:東京都台東区)出身の落語家。
本名、麹池 元吉(きくち もときち)。
出囃子は『勧進帳』。所属は日本芸術協会。文化放送専属。精選落語会レギュラー。
黒門町の経師屋の家に生まれる。
家業を継ぐべく修行するも、父親の家作に出入りしていた5代目古今亭志ん生呑気な生活ぶりに憧れを抱き、天狗連を経て1915年に初代三遊亭圓右に入門して「右喜松」。
1918年10月に三橘と改名。

後に7代目翁家さん馬(後の8代目桂文治)門下に移ってさん生となり、1922年に翁家馬之助で真打昇進。
さらに6代目春風亭柳枝門下に転じてさん枝、さらに1924年8月に5代目柳亭左楽門下となり春風亭柳楽と改名。
1940年4月に6代目春風亭小柳枝となり、1946年5月に8代目可楽を襲名。

師匠と名前を度々変えていることからも窺える通り、長く不遇であった。
これは可楽が他の噺家のように他人に媚びへつらうことが出来ず、不平不満や愚痴がすぐ口をつく性格が災いしたと言われる。
また人気が出た晩年も、日本芸術協会会長6代目柳橋との衝突から長期休業したり、報われなかった。

芸風は極めて地味で動作が少なく、一般大衆受けする華やかなものではなかった。
しかし、可楽には少数ながら熱烈な愛好者がおり「可楽が死んだらもう落語は聞かない」とまで語る者もいた。

彼らの多くは現役ミュージシャン、それもジャズマンで、著名なところでは小島正雄、北村英治、フランク永井などがいた。
とくに人気歌手であったフランク永井との交流は自慢の種で、可楽自身もフランク永井が贔屓にしてくれる事をうれしそうに語ったり、酔うとフランク永井のヒット曲「夜霧の第二国道」を歌ったり、「らくだ」の屑屋のセリフに「低音の魅力ってやつだね。
」というクスグリを入れた。

独特の渋い低音と妙に舌足らずの語り口。
「べらんめえ」口調ながら、不思議と礼儀正しく、客との距離感は絶妙であった。
酒豪であり、また酒が出てくる噺を好んで演じた。
『らくだ』(上方6代目松鶴から直接移された惨忍な演出)、『今戸焼』が絶品。

『二番煎じ』『反魂香』『うどんや』『岸柳島』『鰻の幇間』などの演目を得意とした。
ただ無精な性格ゆえに十八番の『らくだ』の他、『芝浜』や『子別れ』のような小一時間もかかる大ネタでも他の落語家に比べて短く切り上げていた。
また不器用ながら小唄や舞踊も時折演じていた。

いつも苦虫を噛み潰したような顔をしていたが、意外にも女性にはよくもてたという。

それまで日蔭の世界の芸人だったが、1962年に内幸町イイノホールで開催された精選落語会のレギュラーのひとりに抜擢され(他は8代目桂文楽、6代目三遊亭圓生、5代目柳家小さん、8代目林家正蔵(後の林家彦六))、やっとスポットライトを浴びた矢先、1963年の暮れに体調不良を訴えて入院、胃の手術を受けるも1964年に食道癌で死去。
享年67。
墓所は台東区興禅寺。

弟子に、三笑亭夢楽、三笑亭笑三、9代目(当代)可楽、三笑亭茶楽がいる。
可楽と茶楽は没後夢楽門下に移籍。

三笑亭可楽 - Wikipedia

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