『どうする家康』第26話:ぶらり富士遊覧/ネタバレ・あらすじ

どうする家康
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第26話:ぶらり富士遊覧(2023年7月9日)

物語は、1581年の春、遠江の高天神城を武田軍が固く守り、徳川家康が何としてもこの城を奪い返したいと焦っているところから始まる。家康の戦略は、武田軍の食料と弾薬の供給を絶つこと。結果、城内の兵士たちは飢えに苦しむ。

助けもなく、籠城の司令官である岡部元信はついに降伏し、自分の身代わりに城の兵士たちを助けてほしいという手紙を送る。しかし、家康はそれを読まずに焼き捨てる。家康の冷酷な決断に、家臣の本多忠勝が異議を唱えるが、家康は一切の慈悲を捨て、武田軍の完全な敗北を追求する。

岡部元信が指揮する城兵は、壮絶な最期を迎える。一方で、徳川と武田の長い戦闘は終わりを告げる兆しを見せる。瀬名と信康を失った家康は、以前とは違う人間に変わったかのように見えたが、家臣たちの多くはそれを仕方ないと受け入れていた。

しかしながら、本多忠勝と榊原康政は家康の変化について批判的だった。彼らは、家康が織田信長の命令にただ従うだけの存在になったと感じていた。しかし、織田信長は、神仏をも恐れず、本願寺との血戦を制し、家康の存在が必要不可欠であることを再確認した。

その後、織田・徳川連合軍は武田との最終決戦に向けて甲斐へと進軍した。武田軍は連続的な裏切りにより壊滅し、家康が甲斐に到着した時、その本拠地は跡形もなく破壊されていた。そこで穴山梅雪が家康を待ち受け、新たに忠誠を誓う。

最後に、武田勝頼はわずか40人の兵とともに最後の戦いを挑み、討死する。武田家が滅びると、家康の元には武田の重臣たちが新たに忠誠を誓う。一方、本多忠勝と榊原康政は、家康の選択についてさらに批判的になり、彼らの関係はさらに深まっていく。

巻き返しの年: 天正9年(1581)

1581年という年は、徳川家康が再びその頭角を現した時期である。彼はこの年、天正2年に甲斐武田の勝頼により奪われた、東海地方でもっとも堅固な城として知られる高天神城を再取得した。これは家康の巧妙な策略によるもので、兵糧攻めにより城内は餓死寸前の状況に追い込まれ、城主である岡部元信が絶望的な状況からの脱出を図り降伏を申し出ることになった。

しかるに、家康はその降伏を冷酷にも拒否し、彼はここで自身の意志を強硬に示した。瀬名信輝と織田信長との間での悲劇的な事件から以降、家康は更に信長の言葉に耳を傾け、彼に服従する姿勢を強めていった。このことは彼が以前の自己から大きく変わったことを示している。

織田・徳川連合の躍進: 天正10年(1582)

続く1582年、家康は織田信長とともに連携し、甲斐に進軍を開始した。天目山の戦いで織田の軍勢が武田勝頼を討ち取り、古くからの敵であった武田家をついに滅ぼした。これにより家康は三河、遠江、駿河の三つの国を治める大大名となり、時代の一大勢力へと成長を遂げた。一方、明智光秀もまた丹波一国を治める大大名へと昇進した。

この年、家康の側近である石川数正が、武田討伐の祝いとして信長に豪華な祭典を企画した。茶屋四郎次郎といった人々の協力を得て、「富士遊覧の旅」という一大イベントを計画した。家康が信長に対してさらに奉仕の姿勢を示す一方で、一部の家臣たちはその様子に反発の声を上げた。

しかし、家康の妻である於愛は、いつも彼の側に寄り添い、彼の行動を支え続けた。信長は一般的な観光地には興味を示さなかったものの、この富士遊覧の旅には満足の様子を見せ、旅は大成功となった。この成功により、信長は家康を自身の拠点である安土城に招いた。これが家康と信長の更なる深い絆を生むきっかけとなった。

ネタバレあらすじ

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