★三遊亭金馬(三代目)雑俳(雪てん)

三遊亭金馬(三代目)

あらすじ

長屋の八五郎が、横町の隠居の所に遊びに行くと、このごろ雑俳に凝っていると言う。
題を出して五七五に読み込むというので、面白くなって、二人でやり始める。

最初の題は「りん」。
隠居が「リンリンと綸子(りんず)や繻子(しゅす)の振り袖を娘に着せてビラリシャラリン」
とやれば、八五郎が「リンリンと綸子や繻子はちと高い襦袢(じゅばん)の袖は安いモスリン」

隠居「リンリンとリンと咲いたる桃桜嵐につれて花はチリ(=散り)リン」
八五郎「リンリンとリンとなったる桃の実をさも欲しそうにあたりキョロリン」
「リンリンと淋病病みは痛かろう小便するたびチョビリチョビリン」

今度はぐっと風雅に「初雪」。
隠居「初雪や瓦の鬼も薄化粧」
八五郎「初雪やこれが塩なら金もうけ」

「春雨」では、八五郎の句が傑作。
「船端をガリガリかじる春の鮫」

隠居の俳句仲間が来て、この間「四つ足」の題で出された付合いができたという。

「狩人が鉄砲置いて月を見ん今宵はしかと(=鹿と)隈(=熊)もなければ……まだ天(最秀句)には上げられない」
と隠居が言うと
八五郎「隠居さん、初雪や二尺あまりの大イタチこの行く末は何になるらん」
「うん、それなら貂(=天)だろう」

雑俳とは

万治年間(1658~61)に上方で始まり、元禄(1688~1704)以後、江戸を初め全国に広まった付句遊び。
七七の題の前に五七五を付ける「前句付け」、
(例:門松は 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし)

五文字の題に七七を付ける「笠付け」、五文字の題を折り込む「折句」などがあり、そこから、

「文字あまり」
「段々付け」
「小倉付け」
「中入り」
「切句」
「尽くし物」
「もじり」
「廻文」
「地口」

など、さまざまな言葉遊びが生まれた。

プロフィール

3代目三遊亭 金馬(さんゆうてい きんば、1894年10月25日 – 1964年11月8日)は東京本所生まれの日本の落語家。

大正・昭和時代に活躍した。本名は加藤 専太郎(せんたろう)。出囃子は「本調子カッコ」。
初代三遊亭圓歌の門下で、3代目三遊亭祖圓馬にも学んだ。わかりやすい落語に定評がある。
当初は落語協会に所属、のちに東宝に所属したが、実質的にフリーでああった。

当代(4代目金馬)が80歳を越えても、この落語家と時代をともにした感慨より「先代の金馬」を懐かしむ往年からのファンが少なくない。

●人物・略歴
明治27年(1894年)10月25日、東京市本所北二番町(現墨田区)に生まれる。
当初は講談(講釈)を志し、大正元年(1912年)に講談師の放牛舎桃李(揚名舎桃李とも)に入門したが、噺家の方がむくといわれ、講談での大成に早めに見切りを付けた。

大正2年(1913年)12月、落語の三遊亭圓歌(初代)にスカウトされて入門、三遊亭歌当を名乗った。
大正4年、二つ目に昇進し、三遊亭歌笑(2代目)を襲名、さらに1919年(大正8年)末には三遊亭圓洲に改名した。
真打には大正9年(1920年)、圓洲の名で昇進した。
26歳であった。

大正15年(1926年)4月、31歳で3代目三遊亭金馬を襲名、昭和5年(1930年)にはニットーレコード専属の噺家になり、以降、多くの落語をレコードに吹き込んだ。
昭和9年(1934年)には東宝の専属となり、東宝名人会の常連となるが、東宝系以外の寄席には出演しなくなった。
40歳であった。

戦前・戦中において、大衆特に子どもたちからの人気が絶大であり、レコードのなかで分かりやすく面白い噺をしてくれるおじさんとして金馬の名は知られていった。
日中戦争・太平洋戦争とつづいた暗い時代が過ぎ去ったとき、成長した子どもたちにより「金馬でなければ落語は聞かない」とする言葉まで生まれていたのである。
戦後のラジオからは美空ひばりの歌声とともに金馬の十八番である「居酒屋」が流れ、庶民生活に再び笑い声があふれるようになった。
昭和9年に小林一三によって東宝名人会が設立されたときには、実質的な専属となり、落語協会から脱退して寄席から離れた。
「のせもの」(客演)というかたちで寄席に出たことはあったが、正式な形では最後まで戻ることはなかった。
しかし、そのままでは弟子たちの修行の場が得られないため、主な弟子は自分のもとから離した。
たとえば、歌笑(3代目)は落語協会に所属する弟弟子2代目三遊亭円歌に、金太郎(のちの2代目桂小南)は落語芸術協会に所属する桂小文治に預けている。

小金馬(4代目三遊亭金馬)は、NHKのテレビ番組『お笑い三人組』の収録で忙殺されており、高座に上がりたくても上がることができないような状態であった。
そのため当代(4代目)は、師(3代目)の存命のあいだ師とともに終始東宝名人会に所属し、寄席には出なかった。
昭和29年(1954年)、鉄道衝突事故に遭遇して片足を切断する。

千葉県に釣りに行った帰り、総武線の線路の上をトボトボと歩いていて、鉄橋で列車にはねられ、左足を負傷したのである。
半年後に退院し、高座にも復帰したが釈台(見台)で足を隠しての板つきであった。
出と引っ込みの時は必ず緞帳を下ろしており、自分の不自由な足を見せないよう心がけたが、これは自分の大好きな釣りのせいだと思われたくない、という金馬の意地でもあった。

そのおかげでファンは事故後も変わらぬ金馬節を楽しむことができた。
昭和31年(1956年)、第7回(昭和30年度)のNHK放送文化賞を受賞。
昭和39年(1964年)肝硬変のため死去。
70歳。

●芸風・評価
芸風は明瞭。
「楷書で書いたような落語」と評され、すべての演目は老若男女、誰にでも分かりやすい。
しかも、過剰な演出はしない。
ラジオの寄席番組に度々出演し、その芸風から親しまれた。
若年の頃、旅の空で知った朝寝坊むらく(後の3代目三遊亭圓馬)に度肝を抜かれてファンとなり、マンツーマンの稽古をつけてもらった。

なお、同じ頃に若き日の8代目桂文楽も圓馬に稽古を付けてもらっているが、金馬は圓馬の豪快な面を、文楽は繊細な面を継承したと評される。
金馬は存命中ラジオを通じて国民的な人気があったにも関わらず、好事家といわれる久保田万太郎や安藤鶴夫などの評論家によって不当に低く評価されていた。
そのためにいまだに金馬を一段低くみる評論家もおり、そうした批評をもとに金馬を軽視する人もいる。

久保田万太郎は三田文学の主流であり、高名かつ優れた俳人であり、浅草の盛隆と没落をその目で見てきた人物である。
彼自身は歌舞伎や人形浄瑠璃をとくに好んでいたが、落語にまでみずからの高邁な価値観を押し付けようとしたところがあった。

金馬を「話芸における幅と深みに欠ける」と断じ、決して評価しなかったことは、久保田の気むずかしさを示しているが、金馬ファンからは久保田の方が「落語を聴くセンスが根本的に欠如していたのではないか」と酷評される所以ともなっている。
落語界においては、金馬は高く評価されていた。

矢野誠一が1962年(昭和37年)に精選落語会を発足させた時、参加メンバー(8代目桂文楽、8代目林家正蔵、8代目三笑亭可楽、6代目三遊亭圓生、5代目柳家小さん)を桂文楽に見せた際、文楽から「この会に、金馬さんがはいっていないのは、どういうわけのもんです?」と問われ困ったという。
また、立川談志も金馬の「大衆的な芸」を評価しており、自身で編集した全集「席亭・談志の夢の寄席」に金馬を収録している。

古今亭志ん朝も金馬のその口調の素晴らしさを、「志ん生、金馬とこう並べると、わたしなんか好みからいくと志ん生なんですけど、本当にお手本にすべきはやはり金馬なんですね。
だからたまにテープを聞いたりすると、「ああ、こういうふうにしゃべれないもんかなあ」と思いますね」と江國滋に語っている。
さらに新宿末廣亭の大旦那と呼ばれた北村銀太郎は「昭和の大物」として、文楽・志ん生と並べて金馬の名を挙げている。

●人物・性格
世話好きで大の人情家であった。
その一方で落語評論家等などからは、その蘊蓄により煙たがられた一面を持つ。

●弟子エピソード
講談時代には風貌と声により客が笑ってしまうため見切りを付け早い時期に断念。
師匠は初代三遊亭圓歌。
しかし本人は三遊亭金馬を継いでいる。
しかも、彼は初代圓歌の総領弟子であるのにである。
これには理由があり、彼は、師匠初代圓歌とまったくそりが合わなかったのだ。
博打で金を師匠に巻き上げられ、それがもとで師匠相手にケンカをしていた。

一方、2代目金馬は三遊派のためにした行動が裏目に出て東京にいられなくなり、旅芸人として過ごしていた。
それも落語以外の出し物が大半を占める、自分の一座を持っていたのである。
そこに彼は加わった。
つまり自らも旅芸人となった。
2代目金馬に認められ、2代目が生前で現役だったにも関わらず金馬を継いだのである。

金馬の名を譲った2代目は、1926年4月に三遊亭金翁という隠居名に改名した。
前述のように、若年の頃、旅をかける芸人であったため知己が多く、上方落語界が5代目笑福亭松鶴と2代目桂春團治の2派に分裂した際、仲介役を買って出ている。

釣りを趣味とし、多くの釣り竿を収した。
小島政二郎が「芭蕉以来の天才」と評し、文芸、演芸、放送、文化庁にいたるまで絶大な影響力を持っていた文化功労者の久保田万太郎は金馬を認めず、今日の久保田万太郎全集に収録されたエッセイの一節では、寄席で金馬一門の出演の際にはトリの金馬が出てくる前に帰ったとまで書いている。
自らもネタにしている通り、若いころは遊郭によく通った。
「若いころ、タダで遊ばせる遊女があり、自分は良くそこに通った。
翌朝、居残りした客を
めて一席演じました。
郭で遊んで、お金もらって帰ってきた(笑)。
実にいい時代でした」と、しみじみ語っている(『随談 艶笑見聞緑』)。
このような若いころの経験を、高座で即興で演じたことも多く、それらは、「変人様列伝」や「猫の災難」(古典落語「猫の災難」とは無関係の、漫談の演題である)などに収められている。

●あだ名
出っ歯で頭髪が少なく、研究熱心で故事に通じた金馬は「やかんの先生」とも呼ばれていた。
このネーミングはダブルミーニングであり、まず1点目に、見た目が禿頭でやかんに似ているということ、そして、もう1点は、同名の落語演目「薬缶」に出てくる知ったかぶりの先生に由来する。
その蘊蓄を盛り込んだ著書『浮世断語(うきよだんご)』は、芸界を描いた書籍のなかで傑作の一つといわれている。
楽屋うちのあだ名は「小言幸兵衛」であった。
弟子の桂小南が「とにかくガミガミやかましい師匠でした」と述懐しており、4代目金馬は、稽古は自分ではつけてくれないのに、よそで覚えてきた噺を目の前でやらせて「まずいねぇ」を連発していたことを述懐している。

●趣味
趣味は釣りで、『江戸前つり師』『江戸前の釣り』など、釣りに関する著書もある。
スケジュールを本業の落語より優先させ、例えば禁漁解禁日などの釣りにおける重要な日には欠かさず釣り場に現れた。
その日の高座を抜いたことは言うまでもない。
昭和29年(1954年)に鉄道事故により片足を切断したが、それもきっかけは釣りであった。
弟子の桂南喬に釣りに同行するよう言いつけたが、南喬がミミズが苦手と言って断ったことがある。
これに対し、金馬はおとなしく引き下がったものの、翌日、南喬の部屋はミミズだらけになったという。
金馬の悪戯であることは明白だが、金馬はとぼけて、そのことはおくびにも出さなかったという。

●三平・香葉子夫妻との交流
金馬の趣味は前述の通り釣りだが、お気に入りの釣竿があり、それを作る名職人(江戸竿師)の娘が海老名香葉子であり、幼いころから家族ぐるみの交流があった。
香葉子は、太平洋戦争の東京大空襲で一夜にして父を含む家族のほぼ全員を失い、みなし子となった。

亡き父の竿を贔屓にしていた縁もあって、当時、香葉子と再会したおりに、金馬は「ウチの子におなりよ」と声をかけた。
こうして香葉子は金馬家の事実上の養女として育ててもらった。
金馬は東宝名人会の専属であり、東宝名人会の同僚に林家正蔵という落語家がいたが、その正蔵の子は林家三平という落語家であった。
このような縁もあり、香葉子と初代三平が結ばれることになった。
三平・香葉子夫妻を描いたテレビドラマ(2006年8月20日にテレビ東京系で放送された)『林家三平ものがたり おかしな夫婦でどーもスィマセン!』にも金馬が登場し、立川志の輔が演じた。

●略年表
1912年 講談師放牛舎桃李(放手金桃李、揚名舎桃李とも)に入門。
1913年暮れ 初代三遊亭圓歌にスカウトされ、三遊亭歌当を名乗る。
1916年(1917年とも) 二つ目昇進し、2代目三遊亭歌笑襲名。
1919年12月 三遊亭圓洲に改名。
1920年9月 真打昇進。
1926年4月 3代目三遊亭金馬を襲名。
1930年 ニットーレコードの専属になり多くの落語をレコードに吹き込む。
1934年 東宝の専属となり、東宝名人会の常連となるが、東宝演芸場他東宝系以外の寄席には出演しなくなった。
1953年 NHKの準専属となる。
1954年2月5日 釣りの帰りに列車に刎ねられ、左足先を切断。
以後、高座では正座出来ずにいつも釈台を置くようになる。
1964年11月8日 肝硬変のため死去。
享年70。
墓所は台東区永見寺。

コメント

  1. 𠮷見 功 より:

    もっと早く落語チャンネルを覗けばよかったと思います。ITに疎い金歯さんのような人間ですので情報不足この上もありません。久保田万太郎が嫌いになりました。『居酒屋』が特に評判ということを知り我が意を得たりです。金歯の声色ははばがあって唸らされる。小僧の声やらガマの油売りの口上やらとても素晴らしい。吉原に精通しているのも私のないものねだりで、金馬の落語は私の人生の教科書です。私のランク付けは第一位は金馬、二位は圓生、三位は米朝です。やはり、落とし噺は関東ですね。この三人以外は聞くに堪えられません。現落語会を憂いております。テレビの『笑点』の内容の希薄さが落語人気の凋落につながっているのではないでしょうか?。

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