第32話:(2023年8月20日)
戦局の開始
時代の巨星、羽柴秀吉が彼の大軍を率いて楽田城に陣取った場面から始まります。
80,000~100,000と言われる膨大な秀吉軍が城の周囲を固め、その気圧は圧倒的なものでした。
その一方で、家康の陣地は信長が建てた小牧山城で、この城は秀吉軍からわずか一里半しか離れていませんでした。
家康軍の内情と戦略
家康軍内での軍議の最中、戦闘経験の乏しい織田信雄は家康に対して「あの大軍にどう対抗するのだろう?」と疑問を投げかけました。信雄の恐怖を察した酒井忠次は「この小牧山城は頑固に作られており、そう簡単には落とされない」と励ました。
石川数正はさらに、「戦争が長引けば、秀吉陣営も焦燥感を抱くだろう。その際に、我々有利な条件で和平を結べるだろう」と進言しました。
だが、平八郎は一蹴、「和平などという弱気な考えは排し、勝利を掴むのだ」と宣言しました。この意見には小平太や井伊直政らも同調しましたが、家康は一蹴、「秀吉は大軍を巧みに操る。轍を踏むべきではない」と冷静に分析しました。
この時、本多正信がひとつの提案をしました。「焚きつけてみましょう」と。
籠城戦の布石と立て札
家康軍は小牧山城の裏を利用して三河から食糧などを運び込む籠城作戦を立案しました。一方、秀吉軍でも、羽柴秀長、加藤清正、福島正則らが集まり、戦略会議が開かれました。この時、織田家の裏切り者である池田恒興と森長可も会議に参加していました。
すると、家臣が大量の立て札を持ち込みました。立て札には、榊原康政の署名と共に、「秀吉は野人の子」「信長の恩を忘れた者」など、秀吉に対する侮蔑の言葉がびっしりと記されていました。
これに対し秀吉は激怒、だがその怒りを抑え込み、「家康は、この野莽な私を恐れているのだ」と自嘲気味に微笑みました。
「中入り」作戦とその困難
続いて翌日、小牧山城では小平太の指導のもと新たな堀の作成が開始されました。これを目撃した福島正則は、小牧山を直接攻撃する戦術を秀吉に進言しますが、秀吉は兵士の損失を懸念してこれを却下します。
すると、池田恒興と森長可が「中入り」作戦を提案しました。この作戦は、池田と森の兵力を用いて小牧山を迂回し、三河の岡崎を攻めるというものです。
家康が岡崎城を救出するために小牧山城から出撃した際を挟み撃ちにし、敵の隙を突くこの「中入り」作戦は、織田信長がかつて多用した戦術でした。
しかし、この策は本軍の兵力が削られるため、秀吉は慎重に考えました。そして秀吉の大軍は、一体となって行動するわけではなかったのです。結局、秀吉は甥である羽柴秀次を総大将に任命し、池田と森の兵力を「中入り」作戦に充てることを決定しました。
小平太の奇策と秀吉の中入り作戦の失敗
天正12年(1584年)4月6日、秀吉軍の3万の兵力が東に向かって進軍しました。しかし、その作戦は既に本多正信、そして家康にも見破られていました。
その一方で、岡崎が攻撃を受ければ、家康は秀吉の大軍との戦闘を避けられないことも確定していました。「三方ヶ原の戦い」
の再現を防がなくてはならない家康は、中入り作戦の兵力をうまく処理する方法を模索しました。
その時、策を練ったのは、知勇兼備の武将に成長した小平太でした。「これこそが我々が天下を取る時だ!」と語った彼の言葉は、酒井忠次や石川数正といった家康の家臣たちを勇気づけました。
秀吉軍の敗北と家康の勝利
4月9日未明、遂に家康軍は三河岡崎に向けて出陣しました。その同じ頃、秀吉軍の中入り作戦が長久手で家康本軍に襲撃されたという報告が秀吉に届きました。
家康軍が小牧城で堀の作成を行っていたと見ていた秀吉は、その実、それが抜け道の作成であったことに驚きを隠せませんでした。
家康に出し抜かれ、腹を立てた秀吉は三河へと慌てて出陣しますが、時すでに遅し。中入り作戦の兵力は壊滅し、池田恒興と森長可は討ち死にします。
秀吉は撤退せざるを得ず、家康軍の勝利となりました。その日の夕方、小牧山城では勝利の喜びが湧き上がりました。
信雄は大喜びし、家臣たちも勝利の喜びを共有します。しかしその中で、石川数正だけは、何か嫌な予感を感じながら楽田城を眺めていました。
そして、勝利の喜びに酔いしれる信雄を見ながら、家康もまた何か不安を感じていました。
戦国時代の政治の微妙な動きや軍事戦術について理解を深めるための良い素材となっています。このドラマを通して、歴史の興味深さとその複雑さを改めて感じることができるでしょう。
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