プロフィール
4代目(自称9代目)鈴々舎 馬風(れいれいしゃ ばふう)
(1904年8月30日 – 1963年12月15日)は、東京府(現:東京都)出身の落語家。
本名は色川 清太郎(いろかわ せいたろう)。出囃子は『さつまさ』。
実家は東京の仕出し屋。
少年時代は柔道に明け暮れていたという、手のつけられない不良で、警察の世話に度々なったこともある。
ある日留置所に放り込まれたが、その時に出された弁当が不味いと文句を言ったら「お前の店のだ」と逆に叱られ、家に帰って「俺が警察に捕まったらもっといい弁当を持って来い」と竹刀を振りまわして暴れたという。
1921年6月に6代目金原亭馬生(後の4代目古今亭志ん生)に入門し「金原亭 馬治」と名乗る。その後、3代目古今亭今輔一門に移り「今之助」と名乗った。
1924年3月の師匠・今輔死去に伴い、前の師匠である馬生一門に復帰して「武生」と改名する。
1926年に4代目志ん生が死去したため、4代目蝶花楼馬楽(後の4代目柳家小さん)門下に移籍。
1927年9月、真打に昇進して「馬風」を襲名。
弟弟子・5代目柳家小さんがその前名・小三治時代に日本芸術協会移籍の話が持ち上がった。
落語協会はそれを阻止するため、小さんの香盤を上げた。
そのとき香盤を抜かれた2名のうち一人が同門の先輩である馬風だった。
怒った馬風は一時期廃業し、タニマチに資金を出してもらってとんかつ屋を開店。
しかし上手くいかなかったため、数年後に落語界に復帰している。
厳つい風貌から取った異名が「鬼の馬風」。
元祖毒舌芸人として知られていて、新聞記事から拾ってきた出来事をベースとした新作落語(いわゆる「時事落語」)で一世を風靡している。
例えば、
「山でアベックが遭難したんだよ。
数日後二人は無事山小屋で救出されたのはいいけどね、その時の男の言ったことが腹が立つじゃあねえか。『僕たち二人は純潔でした』って言いやがる。…何言ってやんでえ。
山小屋に若いアベックが二人きりで純潔なこたァあるかい。馬風なら子供数人作っちまうよ」
というかなりきわどい内容や、
「なんでえ東大が! 東大からって威張るんじゃねえ! どうせこんなとこへ落語聞きに来ないから、悪口なんざ言っても構うもんけェ」
と、従来の権威を徹底的に皮肉ったりした。
また、最新の風俗や流行歌も過激にこき下ろした。
大阪の都家文雄、人生幸朗などが行った「ぼやき漫才」に似ている。
ただし、現存するテープでは、ラジオ放送を意識してかなりソフトな内容である。
「エーッ、よく来たなァ」という前口上は多くの落語家に物真似され、とりわけ次代(5代目)は生き写しと評されるほどだという。
その後に「どこから来るのか知らねえけど、よくあすんで(遊んで)られるなあ。よっぽど家にいられない事情があるんだろうなあ。お帰りよ!」と言ってから「嘘だよ! ひでえこと言っちゃったねえ、どうも」と頭を下げる様子に何とも言えぬ愛敬があった。
また、「友よ、サラバ」というフレーズをよく使っていたが戦前は女学生が使って問題となるという逸話がある。
刑務所の慰問に行った際は、受刑者を前に、開口一番「満場の悪漢どもよ」「悪漢どもよ、よく来たなあ」と毒舌を吐き、
「手前らいい所に住んでやがるなあ。三食ついているしテレビもある。俺なんか見てみろイ。テレビなんか家にあるもんか。いつも電気屋ン前に立って見てるンだ」と続けた。
この時昼食に出されたカレーがあまりにも不味いので、同行した8代目桂文楽らが辟易していると、馬風は一口食べて「うまい!」と叫んで全部平らげた。
「粋なもんだねえ。なかなかできませんよ」と文楽は感心した。
イメージは「伝法」の一語に尽きる。
いつも、よれよれの紋付き袴姿で現れ、楽屋で覚醒剤を打ったり賭博をすることは日常茶飯事であった。
ある時なぞ、当時全生と名乗っていた前座時代の5代目三遊亭圓楽に「我がドクロ団に参加せよ」と強要した。
「どんな団なのですか」と聞かれた馬風は、不敵な笑いをうかべて「上にいる奴の足を引っ張って、下から上がってくる奴を蹴落とすのさ」と答えた。
また、扇子をよく忘れて若手から借りていたが、使い方が悪いためによく壊し顰蹙を買っていた。
我慢できなくなった10代目柳家小三治が「師匠、返してください」と詰め寄ったところ、
「冗談云っちゃいけねェ。こらァ、俺ンのだ。見ろィ!」と扇子を見せた。
小三治が扇子を見ると、そこにはゴム印で「馬風」と押されていたという。
このような乱暴なエピソードには事欠かなかった。
反面、上記の通り良家の出で、さらに当時の芸人では珍しく旧制の中学校を卒業しており、かなりの知性があった。
落語界入り後、馬風を可愛がった5代目三升家小勝から「落語家は現代のことを知らないといけない」と教えられ、その日の朝刊には必ず目を通し、気になったニュースを選んで高座にかける精進を続けていた。
しかし、以上のことを客にまったく感じさせない洗練さも持ち合わせていた。
馬風は物真似が得意で、5代目小勝や6代目春風亭柳橋、2代目桂小文治の真似をして客席を沸かせた。
持ちネタは、古典落語では『権兵衛狸』『夜店風景』。
また、『蔵前駕籠』の改作『蔵前トラック』、『鰻屋』の改作『大蛇屋』、『幇間腹』の改作『拳闘幇間』などの奇妙な改作落語もあった。
ディズニーのアニメ映画『わんわん物語』(日本公開:1956年)の日本語吹き替え版声優のオーディションに出た際は、犬の物真似をして外人を仰天させ、出演を果たした。
晩年の1960年9月、愛用したヒロポンが原因で、中風で倒れる。
病気になって気が弱くなった時、愛人がいることを妻に告げると、以後、妻は冷たくなり看病してくれなくなった。
そのため睡眠薬を飲んで自殺を図ったが、女房が看護婦上がりだったので、薬を吐かされる。
その後、弟子には「コレ(小指)がいることを女房にしゃべっちゃだめだぞ」と言い残したという。
右半身不随となるも高座への執着心を見せ、リハビリの末、1963年5月に高座復帰。
カムバックの高座では万雷の拍手に迎えられ、「馬風さん! がんばれ!」との女性ファンの声援も飛んだ。
その時の演目が『病院日誌』。
入院中の体験をもとに医療体制の風刺をまぶした傑作であった。
しかも「俺は思ったね。なんで馬風がこんな苦しい目に遭わなきゃいけねえんだい。なぜなんだいって…。しかし天は見放さなかったねえ。俺を! 志ん生がひっくり返ったと聞いたときのあの嬉しさ!」と発言して客席を爆笑させた。
同じ頃演じた『よいよい談義』では
「馬風も出るたンびによくなる。エエ、うれしいじゃねえか。お客様は災難だけどね。もうすぐよくなるから待ってろよ。本当に、じきに治ってやるからな」
と完全復帰へのアピールをし、
「踊り踊るなら~東京音頭~よいよい! ってんだ!」と
自身の病状をギャグにする壮絶な芸人根性を見せた。
こうして呂律は怪しいながらも活動を進める馬風だったが、1963年12月15日、浅草北松山町の自宅で重い荷物を持ち上げようとしたところ、失敗して倒れ、59歳で逝去。
死去日が力道山の没日と重なっていたため、スポーツ紙の一面はみな力道山の死で埋め尽くされていて、馬風の訃報は一段のベタ記事であった。
しかし、それを枕でネタにした落語家はいなかったという。
一見乱暴だがどことなくおかしさの漂うキャラで、ファンはもとより、先輩の5代目小勝や8代目桂文楽、5代目古今亭志ん生、3代目三遊亭金馬らに可愛がられたが、本格的な古典を演じる6代目三遊亭圓生には徹底的に嫌われた。
「何でげす。ありゃ落語じゃござんせん」と公言する圓生に、「何言ってやんでえ。『どうもこの、落語ってえのはこの』って言って目ヤニ取りやがって」と馬風は応じ、互いに悪口の応酬をしていた。
圓生は「このエロ狸め、馬風見てえだ」(『お若伊之助』)とくすぐりに使うこともあった。
この関係については、落語協会の騒動の種として懸念していた者も少なくなく、圓生が落語協会の会長に就任した時には、「馬風師匠が亡くなられてすぐに圓生師匠が落語協会会長に成られたのだから、馬風師匠にはかえってよかったかもしれない」と関係者は胸をなで下ろしたという。
目立った直弟子はいなかったようである。
唯一と思われる弟子に馬次(のちに桂右女助(のちの6代目三升家小勝)門下に移籍して、桂右喜松)がいたが自殺。
兄弟子に2代目柳家小満ん、8代目金原亭馬生、林家彦六(圓生の天敵)が、弟弟子に初代昔々亭桃太郎、5代目柳家小さんなどがいる。
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