★三遊亭圓馬(三代目)権助提灯

三遊亭圓馬(三代目)

あらすじ

とある商家の主人、妻の他にお初という妾をもっていた。
この奥さん、人を妬むのが大嫌いな人であり、またお初の方もそのような性格であるため、2人はお互いの存在を知っていながら旦那のことを責めないでいるという。
旦那の方からするとこれ以上ない好都合な日々を送っていた。
そんなある日の晩のことである。

奥「今日は風が強いから、大勢の奉公人がいる家よりも、お初の家に行ってあげた方がいいのでは?」
旦那はその言葉を聞き、奥さんの心の広さに感心しながらもそうすることに決める。
ただ、問題は我が家からお初の家までの道のり。
暗い上に道が悪いため、誰か提灯持ちを連れて行かなければならないのである。

奉公人もほとんどが寝る準備に入っており、まだ寝る準備に入ってないのが飯炊きの権助。
旦那は仕方なく権助に頼み、お初の家に向かう。
ところが、

初「奥さんは本当は旦那と一緒にいたいと思っているところを我慢しているのだから、素直に旦那をお泊めしたのでは妾の分際では恐れ多い」
と言って泊めてくれず、しょうがなく元来た道を帰ることになった。

さて、今度は我が家に着いたわけだが、
奥「余計な心配をなさらないで下さい。あなたには向こうに泊まってもらわないとこちらの顔が立たないので、今日はどうしても向こうで泊まって下さい」

やむなく旦那は再びお初の元へ行くことに。ところが、
初「女には女の考えがあるんだから、奥様のところへお願いですから帰って下さい」
また戻ることになったため、
旦那「権助、提灯を灯しておくれ」

すると、権助
「旦那様、その必要はねえだよ。もう夜が明けただ」

プロフィール

3代目三遊亭 圓馬(1882年11月3日 – 1945年1月13日)は、大阪市北区大工町出身の落語家。
本名は橋本卯三郎。出囃子は『圓馬囃子(圓馬ばやし)』。

父は上方落語家・2代目月亭文都の門下の月亭都勇。1888年7月の7歳の時、月亭小勇の名で京都の新京極笑福亭の高座に上がる。
後に2代目笑福亭木鶴の門下に転じ、小鶴を経て都木松を名乗るが、1893年12月折から巡業中であった東京の立花家橘之助(女流浮世節師)の門下に転じ、立花家橘松を名乗る。

1904年9月には機関兵で日露戦争への従軍や地方巡業などによってしばらく東京を離れるが、1908年の末頃に上京して初代三遊亭圓左に師事し、立花家左近と改名。
第1次落語研究会の準幹部に抜擢され、東京のネタを演じる他に上方のネタを東京向きに演じたり、新作に挑んだりと幅広く活躍した。

1909年12月、真打に昇進し、7代目朝寝坊むらくを襲名。橘之助と4代目橘家圓蔵の盛り立てもあって順調な活躍を続けていた。
しかし、次第に圓蔵と不和になり、1913年は圓蔵を殴打してしまう事件を起こす。
この一件で橘之助から破門されたむらくは東京を離れ、1916年6月、大阪に復帰。浪速三友派に所属し、初代橋本川柳を名乗る。

大正時代には神田で「橋本亭」という寄席を経営していた。
1928年、紅梅亭の席亭や2代目圓馬の推薦により名跡を譲り受け、3代目圓馬を襲名。同年5月、東京の有楽座でも披露口演を行なった。

生粋の上方噺家でありながら、一流の江戸噺家でもあった希有の人。
大阪弁と江戸弁を巧みに使い分ける事ができる、唯一と言って良い落語家であった。
また、上方落語の多くを東京落語に移植した功績を持つ。

立花家左近時代には、前座時代の8代目桂文楽を預かって、猛特訓の上鍛え上げた。
文楽は圓馬に傾倒し、「舐めろと言われれば、師匠のゲロでも舐めたでしょう」とまで言っている。
また、文楽が大阪で仕事があった際には必ず天下茶屋に在った圓馬宅に立ち寄り、差し向かいで稽古を付けて貰っていたという。

得意ネタは『鹿政談』『愛宕山』『景清』『切られ与三』『ざんぎりお瀧』『淀五郎』『鰍沢』『姫かたり』『九州吹戻し』『文七元結』『中村仲蔵』『富久』『素人鰻』など。

晩年は吉本興業に所属し、看板落語家として活躍。
演目は東京落語が多かったとされる。
他にも三味線の素養があり自身の出囃子は自ら作曲をした。

晩年は上方落語の衰退により高座を去り、中風を患うなど不遇であった。
1945年没。享年65。先代同様に墓地は大阪四天王寺(壽法寺)にある。
SPレコードはむらく時代を含めいて十数枚残されている。

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