昭和23年作、昭和25年発表の創作落語。
1982年の音源(当時53歳)
三遊亭歌奴時代の音源
三部作
プロフィール
3代目三遊亭圓歌本名は中沢信夫(なかざわのぶお)
1929年1月10日 ~ 2017年4月23日(満88歳没)。出囃子は「二つ巴」。
⇒https://ja.wikipedia.org/wiki/三遊亭圓歌
来歴・人物
東京都出身で、岩倉鉄道学校(現岩倉高等学校)卒業後、運輸通信省東京鉄道局に入局し、山手線新大久保駅で駅員を務めた。
終戦を迎えた1945年8月に東京鉄道局を退職し、同年9月に2代目円歌に入門した。
前座名は歌治。
1948年4月に二つ目に昇進し、2代目三遊亭歌奴に改名した。
1958年9月に真打昇進した。
「授業中」「浪曲社長」「月給日」には登場人物に吃音者が出てくるが、それは彼自身もまた吃音者であったからである。
CD「中沢家の人々完全版」によると、近所に住んでいた幼馴染で後にアナウンサーとなる小川宏が吃音者で、真似をしていたら自分もなってしまったという。
落語家になった理由もそれの克服だが、入門時に親から戸籍を外されてしまった。
歌奴時代、黎明期のテレビ演芸番組に多く出演し、1960年代の演芸ブームでは売れっ子芸人の一人に目される。
一時期「笑点」の大喜利メンバーとして出演していた。
1967年に御前公演をした。
この頃に自作の「授業中」で人気を博したことから、この時代の世代からは圓歌襲名後も「歌奴」と呼ばれることがあるという。
「浪曲社長」を自作した事からもわかるように浪曲好きで、木村若衛に弟子入りまでした。
1970年9月、圓歌を襲名する、以後はテレビ出演を控え、高座に専念。
1971年、文化庁芸術祭優秀賞受賞。
1985年に出家。日蓮宗久遠寺で修行し、圓法(フルネームは本遊院圓法日信)を名乗り、噺家と僧侶の二足の草鞋を履く。
1987年には当時の落語協会副会長6代目蝶花楼馬楽の死去に伴い、副会長に就任。
1992年、浅草芸能大賞大賞受賞。
1996年8月、5代目柳家小さんの後任で、8代目会長就任。
2006年6月から最高顧問に就任。
後任の会長は、2001年に死去した3代目古今亭志ん朝の後任で副会長に就任した5代目鈴々舎馬風である。
自宅は、東京都千代田区六番町にある作家有島武郎の旧家である。
それまでの落語界ではありえなかったことをいくつか始めており、自らを「落語界の異端児」と言っている。
例として次のようなことが挙げられる。
・黒以外の色の紋付きを着て高座を務める。
元々、落語界では黒紋付きを着て高座を務めるのが慣例であったが、「お葬式じゃねぇんだから何人も黒紋付きで出る事はねぇ」との理由でこれを破った。
・メガネを掛けて高座を務める。
落語協会で初めて、副会長から会長になった人物でもある。
副会長時代、病気療養を理由に前会長の5代目柳家小さんから次期会長を頼まれて引き受けた。
副業としてしゃぶしゃぶ店を経営している。
得意演目 新作
「授業中(山のあな)」
「浪曲社長」
「月給日」
「電報違い」
「我孫子宿」
「中沢家の人々」
「天皇陛下、初めて落語を聴く」
「円歌の道標」
など。
得意演目 古典
「替り目」
「坊主の遊び」
「西行」
「三味線栗毛」
「紺田屋」
「品川心中」
「宮戸川」
「湯屋番」
など。
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