★鈴々舎馬風(五代目)欣弥め(きんやめ)

鈴々舎馬風(五代目)

欣弥め(きんやめ)は、古典落語の演目の一つ。
「艶笑落語(バレ噺)」の中でも性描写がどぎついため、お座敷噺として演じられることが多く、高座にかけられる機会は少ない。
夜這いで小姓に体を許す姫君と、同じ答えだけを繰り返す小姓とのとぼけたやりとりだけで構成される小噺。
あのねのねの曲「つくばねの唄」はこの噺がベースとなっている。

あらすじ

小姓の欣弥が姫君の屋敷へ、夜這いに入る。
「誰じゃ、わらわの部屋に入ろうとしている者は…」
「欣弥めにございます」
「そうか、部屋に入るのはよいけれど、みだらなことをしてはなるまいぞ」
「かしこまりました」
「誰じゃ、わらわの唇を吸う者は…」
「欣弥めにございます」
「そうか、唇など吸うてもよいけれど、乳房を吸うてはなるまいぞ」
「かしこまりました」
「誰じゃ、わらわの乳房を吸う者は…」
「欣弥めにございます」
「そうか、乳房など吸うてもよいけれど、股の間に指など入れてはなるまいぞ」
「かしこまりました」
「誰じゃ、わらわのあそこに指を入れる者は…」
「欣弥めにございます」
「そうか、指など入れてもよいけれど、太くて長いものなど入れてはなるまいぞ」
「かしこまりました」
「誰じゃ、わらわのあそこに太くて長いものを入れる者は…」
「欣弥めにございます」
「そうか、太くて長いものを入れるのはよいけれど、それを朝まで、抜いてはならぬぞ」

プロフィール

5代目鈴々舎 馬風(1939年12月19日 – )は、千葉県野田市出身の落語家。
5代目柳家小さん門下。落語協会前会長。出囃子は『本調子のっと』。本名は、寺田 輝雄(てらだ てるを)。

妻は浪曲出身の岡田美鈴(二葉百合子の門下で元二葉百合江、馬風が司会を行った際知り合う)従兄に俳優の波多伸二がいる。
子供の頃から落語を聴き落語家に志すようになるも、野田一中卒業後、父に落語家になることを相談するも反対され、父の床屋を継ぐために国際文化理容学校に入学。
その後諦めきれず知人の太神楽の鏡味一鉄の紹介で5代目小さんの内弟子になる。

自称で「小さんに一番愛された弟子」(嫌われたのは7代目立川談志、(馬風の後を受け落語協会会長となった)10代目柳家小三治と続ける)。
異様に元気な、はきはきした喋りが特徴。シモネタ系のブラックジョークを好む。
豪放磊落な芸風、物真似上手な所など、師弟関係は無いが「よく来たなァ」の先代馬風を彷彿とさせる。

柳家かゑる時代、日本テレビ『笑点』の大喜利のレギュラーを一時期(1969年4月~11月)務めていた(当時の司会は兄弟子談志、同じく大喜利メンバーとして弟弟子柳家さん吉と共に出演していた)。
キックボクシングのリングアナウンサーや、歌手の公演の司会業も暫く行っていた。
馬風襲名後もテレビ東京の『爆笑!おもしろ寄席』の企画「ハリセン大喜利」で、ハリセン大魔王として活躍。

悪い答えを出す大喜利メンバーを悉くハリセンで殴りまくり、この番組の司会者であったみのもんたに対しても、とちると容赦なく叩きつけていた(なお、当初はデーモン小暮閣下風、後に雷神や節分の鬼風のコスプレで登場した。特に後者は漫画家のみうらじゅんに絶賛された)。

更に日本テレビの特別番組『とんねるずの仁義なき花の芸能界全部乗っ取らせていただきます』や花王名人劇場『とんねるずの人生歌の通り生きてみました』では石橋貴明との遺恨が勃発し(もちろん演出)、銭湯で石橋の襲撃を受けた馬風は逃げる石橋を裸で追った(この他にも、ドッキリ企画で相模湖に落とされたことがある)。
石橋の名を叫びながら追う姿は伝説となっている。

このように昭和末期においてはテレビバラエティ番組でもその存在が一躍アピールされた時期である。
十八番はその名も『会長への道』という「将来は落語協会の会長になることが目標」という野望を語る内容の新作落語(しかもブラックネタ)であった。
だが、ネタを作った当時は健在であった落語家の中にも師匠小さん、3代目古今亭志ん朝を初めとして少なからず本当に鬼籍に入ってしまった者がいる上、そもそもこのネタを作った時点では談志、圓楽、志ん朝ら自分より明らかに格上の落語家が落語協会に所属しており、「絶対自分は会長になどなれるはずがない」と自他共に思われていたからこそなしえたネタである。

しかし、落語協会分裂騒動により圓楽が協会から離脱、後に談志も協会から離脱、志ん朝も2001年に逝去し「ライバル」たちが次々に姿を消してしまうなど「幸運」に恵まれ、ついに2006年に本当に会長に就任してしまう。

よって、さすがに現在ではこのネタが披露される事は無い。その上、今度は後輩の落語家たちに『会長への道』を利用して、「馬風もあと2、3年がヤマ」などとマクラやジョークに使われている。
もっとも、当然ではあるがこの他にも新作落語を中心に幾つものネタを持つ、現在でもトップクラスの「笑わせる」技術を持った落語家である。

高齢ゆえに病を抱え会長職も満足に務めることが難しくなった事情から、2010年6月に開かれた理事会を最後に会長職を退き、最高顧問となった。
その直前、『笑点』において自らが送り出す最後の真打4名の披露口上を番組司会・桂歌丸率いる落語芸術協会との合同形式で行った際、一応自らの弟子である山田隆夫(高座名:鈴々舎鈴丸)と因縁ある林家たい平から「6月で会長を退き、“組長”となる馬風“組長”よりご挨拶」と紹介された。

これに「これからは、極道一筋に精進する。手始めに、小遊三をみっちり鍛え直す」と応じ、場内の笑いを誘った。
『会長への道』は演じなくなったが、現在もマクラで5代目小さん、談志、小三治などを相手にしたブラックジョークを連発するのがお決まりとなっている。

因みに『笑点』メンバー経験者の落語協会会長職就任は前任の3代目三遊亭圓歌に次いで2人目。
また、落語協会から分裂した円楽一門会前総帥5代目三遊亭圓楽と落語立川流家元談志そして、ライバル団体である落語芸術協会の会長桂歌丸も『笑点』メンバー(談志、圓楽、歌丸は司会経験者でもある。)であり、江戸落語の団体のトップが全て『笑点』メンバー経験者となっていた。
また、現在の上方落語協会会長6代目桂文枝(前名・桂三枝)も新春「東西対抗大喜利」に出演している事から『笑点』に関わりがあるので、馬風が退任するまで東西落語界トップは皆『笑点』に関係ある人物となっていた。

来歴

1956年12月19日(誕生日と同じ) – 5代目柳家小さんに入門。前座名は、柳家小光。
1960年3月 – 二つ目昇進。柳家かゑるに改名。
1973年3月 – 真打昇進。
1976年5月 – 5代目鈴々舎馬風襲名。
1979年 – 落語協会理事就任。
2001年 – 3代目古今亭志ん朝死去に伴い、落語協会副会長就任。
2006年6月 – 3代目三遊亭圓歌の後任で落語協会会長就任。
2010年6月 – 落語協会会長を退任。

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