森田三郎さんの谷津干潟感動物語

感動

スポンサーリンク

一人の男の行動が国を変えた!感動のエピソード

始まりは新聞記事

新聞配達店で働いていた、当時29歳の森田三郎さんは、ふと手にした新聞の記事で、故郷の干潟が埋め立てられることを知りました。全ては、40年前の新聞記事から始まりました。

まるでゴミ捨て場になってしまった干潟

千葉県習志野市にある谷津干潟(やつひがた)
子どもの頃、毎日遊んでいた干潟でした。あんなきれいな干潟が何故?森田さんが見に行くと、きれいだった干潟がまるでゴミ捨て場のようになっていました。空き缶やビンだけではなく、日常で使うゴミ、冷蔵庫、電化製品、お墓の石、動物の死骸などが、堤防に沿って、山脈のようでした。

「自分の故郷が汚されて、可哀想だったんです。」(森田さん)

この後、森田さんは、ふつうには思いつかない5つの発想で、闘い続けます!

時代の流れに逆行

他にも反対グループはありましたが、森田さんは一人で反対活動を開始。
しかし、

「埋め立て撤回って、ヨソ者が余計な事しないでくれる?」

「住人みんな、悪臭に迷惑してんのよ。」

「あんなゴミだらけの干潟、早く埋め立ててほしいんだ。」

当時は高度成長期、まだ、エコや自然保護などは一般的ではなく、その行動は、時代の流れに逆行するものでした。

そんな逆風のなか、まず起こした行動は?

発想① 干潟の近所に引越し

地域の人と、同じ立場に立つためでした。

発想② 個人で干潟の清掃開始

少しでもゴミを減らそうと、清掃活動。

しかし、ゴミを片づけるだけでは済まない事態が、このあと、次々と!

朝刊の配達後、仮眠の時間を削って干潟のごみ拾いが日課に、しかし・・・

せっかくゴミを集めても、干潟のゴミは、どうせ埋め立てられるものなので、業者が回収してくれません。

ゴミを出すことさえ出来なくなってしまったのです。

近所の主婦は、

「あんな格好でうろうろされたら迷惑だよね。」

「イヤね、独りよがりで目立ちたがり屋は。」

ゴミの処理に困っているのに追い打ちをかけるように、近所の人がゴミを捨てて行きます。

いつまでもゴミはなくならない。

そこで、こんな発想を。

発想③ ご意見ノートを設置

勇気がなくて、表だって言えない人も、ノートに賛成の声を書きこんでくれるはず。

しかし、そのノートは滅茶苦茶に。

「これがみんなの答えか・・・」

一人で続けるしかない!

睡眠時間を削り、さらに根を詰めて、清掃活動を続けました。

疲れ果てた森田さんは、配達中に事故を起こし、入院することに。

こんな状況で、次にとった行動から、変化が起きていきました。

発想④ 松葉づえにもかかわらず、清掃活動

松葉づえをつきながら清掃活動を続ける森田さんを見て、近所の人は、

「本物のバカだな、あいつは。」

「足を悪くしてまで、何やってるんだか。」

ある日、干潟に来てみると、一杯のお茶とメモ書きが・・・

「日本一の大ばかさん、他人の目を気にしないで頑張りなさい。あなたのやってる事は間違っていません。私もかげながら応援しています。頑張ってください。」

”もう一人じゃない。応援してくれる人がいる。”

さらに・・・

「あの、拾ってきたゴミは、どこに置けばいいですか?」

手伝ってくれるんですか?

「一人で一生懸命頑張ってるの見てたら、なんか申し訳ないような気持ちになっちゃって・・・」

「埋め立てを開始するまで、まだ時間がかかりそうだから。少しでも嫌なニオイが減ったほうがいいでしょ。」

ありがとうございます。

”ゴミを拾い集めてから約2年半、主婦に声をかけられました。うれしかったです。風向きが変わってきました。(森田さん)”

最後に、行政との闘いが

しかし、まだ埋め立て計画と言う大きな問題が・・・

故郷の干潟を守ろうと始めた、干潟の清掃活動。

住民も、干潟を残そうという動きになっていました。

しかし、行政の、干潟の埋め立て計画は、まだ撤回できていません。

そこで、思いもよらない行動に!!

署名活動をする森田さんに、ある人が、

「これだけ支持してくれる人がいるんだ。森田さん、あんたが市議会議員に立候補して、あんたが干潟の埋め立てを撤回しろ。」

発想⑤ 市議会議員の立候補を決意

その結果、習志野市始まって以来の得票数でトップ当選しました。(現在は千葉県議会議員)

干潟の大切さを知った市民が、森田さんを、市議会議員に押し上げたのです。

そして、干潟の埋め立てを回避することに成功!

計画は一転し、干潟は、国の「鳥獣保護区」に!!

その後も、ゴミ拾いを続けること40年。

現在の谷津干潟は、街の憩いの場になりました。

森田さんは言います。

”ごみ拾いが終わって帰るときに、通りかかった、数人の小学生の男の子たちが、
「森田さん、谷津干潟、残してくれてありがとう。」
「ボクたちの谷津干潟です。」
涙、出てきました。
干潟が残ったからじゃないんです。
お礼を言われたからじゃないんです。
子どもたちが、「ボクたちの谷津干潟」
こんな嬉しい事、ないじゃないですか。
これだから俺は、国と闘えたんです。
嬉しいじゃない、子どもが言ったんですよ。
「ボクたちの谷津干潟を」
こんないい言葉ない。”

2023年01月12日(木)追記

森田三郎 谷津干潟への想い

2021年11月6日 谷津干潟の環境復元に生涯をかけた森田三郎が永眠しました。

彼の活動を、称賛したり、否定したりする事より
彼が始終抱いていた干潟と自然に対する想い、
貧しいながらも遊びを通じて自然と共存していた子供時代の想い出、
同じ想いを共有できて一緒に活動していただいた方々への想い等々、
遺族の立場として、この想いだけでも残し、
谷津干潟と自然を愛する人たちに伝えたいと思い開設しました

ここでは彼が発行に関わった機関紙「ふかんど通信」「ふかんど」などの資料を
当時のままの状態で公開していきます

ふかんど通信
「ふかんど通信」は三郎が議員になった1987年から発行されたもので、43巻あります。
「ふかんど」と比べ手書きが減り、内容も三郎だけではなく、干潟を愛する住民の方たちの想いも多く掲載させていただいており、まとめられて読みやすくなっております。発行元は「谷津干潟友の会」です。

https://subumorita.jimdofree.com/

コメント

タイトルとURLをコピーしました