- 島田洋七の栄光から没落 [しくじり先生 俺みたいになるな] まとめ
- 島田洋七先生紹介
- 漫才ブーム
- 島田洋七のしくじり
- 洋七のしくじり性格
- 思いつきで行動してしまう人の行動例
- 授業テーマ
- 第一章 島田洋七の「思い立ったが厄日」列伝
- 高校進学
- 都会に出たい
- よし!漫才師になろう!
- 洋七がやりたかった漫才とは
- 洋七の思いつき「東京進出」
- 東京進出のリスク
- 東京での漫才の反応
- B&Bにきた仕事のオファー
- お笑い史上最大のブーム
- 漫才ブーム時の月収
- 漫才ブーム後の芸能界
- 洋七の思いつき
- 漫才ブーム後の洋七の思いつき
- 追いつめられた洋七の思考
- 第二章 何度も同じ失敗を繰り返す洋七~どん底の苦悩と這い上がる転機~
- 洋七の思いつき
- 「明日から俺の飯を作ってよ!」
- B&B再結成
- 選挙に出馬
- そうだ!B&Bをやろう
- 洋七の思いつき
- 佐賀のがばいばあちゃん
- 「がばい」の成功の要因
- 洋七に起きた天罰
- 最終章「人の話を聞かずに思いつきで行動してしまうあなたへ」
- 洋七が感謝する人
島田洋七の栄光から没落 [しくじり先生 俺みたいになるな] まとめ
島田洋七先生紹介
島田洋七 67歳。
生年月日 1950年2月10日。
職業 漫才師、タレント、作家。
出身地 広島県。
1950年 広島県で生まれる。
1975年 島田洋八とB&B結成。
1980年 漫才ブームで一躍人気者に。
2007年 「佐賀のがばいばあちゃん」大ベストセラー。
1975年に島田洋八とB&Bを結成し、テンポの早い掛け合いで、それまでにない新しい漫才で 結成2年目から数々の賞を獲得しました。
地元・広島の銘菓をネタにしたギャグ「もみじまんじゅう!」が大ヒットし、1980年代の漫才ブームをけん引してきました。
一方、2007年に 幼少期の思い出を綴った自伝「佐賀のがばいばあちゃん」が大ヒット!
「がばいばあちゃん」は、映画やドラマにもなり、日本中に「がばい旋風」を巻き起こしました。
漫才ブーム
【漫才ブーム時のレギュラー番組】
「笑ってる場合ですよ」(フジ)
「ハナキンスタジオ」(フジ)
「爆笑マイスタ」(日テレ)
「B&Bのお笑いスター最前線!!」(日テレ)
「逆転クイズ”スーパービンゴ”」(日テレ)
「週間漫画ゲラゲラ45」(テレ朝)
「アイドルパンチ」(テレ朝)
「ザ・マンザイクイズ」(文化放送)
など。
「笑ってる場合ですよ」「爆笑マイスタ」「ザ・マンザイクイズ」と、帯番組が3本。
ラジオの10分番組を、49本録りしたことがあるそうです。
49本録りの時は、天気、野球、相撲、ヒット曲などは言ってはダメでした。
何をしゃべったかと聞かれ、「とりあえずなんやかんや……そっから嘘つきになったんやろね」(洋七)。
番組は19本がレギュラー。
それにプラスして「ネタ番組」。
土日が営業。
ネタは100%、洋七が考えていました。
「洋八くんは無理!」(洋七)。
CMが11本。
毎日、テレビで観ない日はないほどでした。
あれだけ人気があったのに、なぜテレビから消えたのでしょうか?
島田洋七のしくじり
事務所移籍 4回
コンビ解散 6回
副業失敗 8回
さらに……参議院選挙 落選
吉本興業を3回辞めて、3回入りました。
洋七のしくじり性格
しくじりの原因は、自身の性格にあるといいます。
それは「人の話を聞かずに、思いつきで行動してしまう」
自分の考えが一番正しいと思っていました。
思いつきで行動してしまう人の行動例
○卵が特売中で大量買いしたら、家の冷蔵庫に入らなかった。
○急に思いついて動物園に行ったら、休園日だった。
○気に入って衝動買いしたソファーが、大きすぎて家に入らない。
授業テーマ
【人の話を聞かずに思いつきで行動して、何度も同じ失敗を繰り返さないための授業】
第一章 島田洋七の「思い立ったが厄日」列伝
「思い立ったが吉日」と思ってやっていたことが違ったという話。
1950年、2人兄弟の次男として広島で生まれました。
父が早く他界したため、母が働かなければならず、8歳の時に佐賀のがばいばあちゃんに預けられました。
九州からおばさんが来てて、「帰るから見送りに行こう」と言われ、おばさんが汽車に乗り ベルが鳴ったら後ろから背中を押されて汽車に乗り込み、そのまま佐賀まで連れていかれました。
洋七の祖母・徳永サノさんは、1900年(明治33年)佐賀生まれで、1958年から1966年まで洋七少年と暮らしました。
ばあちゃんの家は貧乏でしたが、「勉強せえ」とは一回も言わなかったそうです。
それで、伸び伸びと生きました。
中学の時に勉強していると、「電気代もったいなか」と消しました。
「お前の将来より、電気代のほうが気になる」
高校進学
高校進学は、野球の名門 広島の広陵高校に野球部の特待生として入学しました。
昔はスリムで、足がものすごく早かったそうです。
中学1年でライトでレギュラー。
「ライト守っててレフトの球捕ってた」(これはネタです)
広陵高校は、現 阪神監督の金本知憲や現 巨人二軍打撃コーチの二岡智宏など、多くのプロ野球選手を輩出している名門校で、洋七の同級生も全国2位でした。
しかし 洋七は、ケガが原因で野球部を辞めることになりました。
高校卒業後は無気力になり、だらだらとした生活をしていました。
八百屋でバイトすることになりました。
準優勝した同級生は、慶応や早稲田に進学して「東京はいいぞ、東京に出てこいよ」と言われていました。
佐賀のがばいばあちゃんのところに月1回は行っていた洋七は、そこでデパートの経理をしていた今の嫁さんと知り合いました。
彼女も「東京に行きたい」と言い、洋七も「都会に出てみたい」と思っていたので話が合い、20歳のときに2人で駆け落ちをしました。
都会に出たい
東京に出てみたけど 都会すぎたので、洋七は野球部の先輩を頼って 大阪に行くことにしました。
先輩に「家出してると聞いたぞ、大阪見物したら帰れ」と言われ、彼女が「大阪やったら吉本観に行かな」と言いました。
洋七は それまで、落語も漫才も見た事がありませんでした。
そこで観た「横山やすし・西川きよし」「中田カウス・ボタン」が、漫才を観た最初でした。
その舞台を観て、洋七はこう思いました。
「こんなもん、俺でもできるやないか!」
さっき舞台に出ていたおっさんが、ロールス・ロイスで帰っていきました。
「たった15分でロールス・ロイス!?こんな商売はボロい」
よし!漫才師になろう!
1971年、洋七青年は漫才師になることを決心しました。
つてを頼って、島田洋之助・今喜多代さんの夫婦漫才師に弟子入りしました。
コンビを組んで解散を、4年間で2度も繰り返しました。
「相方は誰でもいいや」と思っていたら、舞台を終えた桂三枝さんが「あいつ どうや!?」と、舞台の進行係をしていた洋八を指差しました。
洋八に「漫才やろう」と言ったら、OKしてくれました。
それが3代目のB&Bでした。
それまでの相方は自己主張が多かったのですが、洋八は何ひとつ言いません。
「はい、はい」しか言わなかったから、ものすごくやりやすかったそうです。
「気が弱く、自分の意見を言わない」という洋八の性格は、洋七にとって好都合でした。
島田洋八……1951年2月13日生まれ、岡山県出身。
洋八はハーフっぽく、ファンがすごかったので、三枝さんの話を聞いてよかったと思ったそうです。
洋七がやりたかった漫才とは
【B&Bの漫才スタイル……しゃべる割合が9(洋七):1(洋八)の、超ワンマンスタイル漫才】
洋七が洋八にいろいろ怒っていたら、横山やすしさんが言いました。
「お前、怒ったらアカン。芸は両刃ある。上手いのもいいし、下手なのも芸や。上手い人が下手な風にしたら白々しくてウケへん。下手は下手でええ、違う言うて修正しながら漫才やれ。お前一人しゃべったらええねん」
そう言われて、B&Bの漫才スタイルが出来上がりました。
洋八がたまに「今日、何やんの?」と聞くと、「なんでお前に言わなあかんの」と言っていました。
すると横山やすしさんが「そんなこと言うな、何やるぐらい言わんか」と言うので、「それは秘密」と言っていました。
普通の漫才師は、稽古をたくさんしたうえでの「なんでやねん」ですが、洋八の「なんでやねん」は、初めて聞くことだからリアルに聞こえるのです。
洋七が早いテンポでしゃべるのは、横山やすしさんのアドバイスからでした。
「お前、言葉の語尾がはっきりしてるから、テンポあげても大丈夫。テンポあげたらネタ振り少なくても、1回笑ったらずっと笑う。やってみろ」
島田紳助は洋七の弟弟子なので、洋七の漫才を観てずっとメモをしていたそうです。
そして自分なりの漫才を作っていきました。
横山やすしさんが漫才を教えたのは、洋七だけのようです。
「なんでやねんも、最後に足で音を出せばすごいツッコんだように見える」
B&Bは瞬く間に人気者になり、大阪で数々の賞を獲得しました。
洋七の思いつき「東京進出」
東京へのあこがれがありました。
当時、大阪で人気を得た芸人が東京の番組に呼んでもらえる時代でした。
天才漫才師の「横山やすし・西川きよし」も、東京では15分しか時間をもらえないほど、大阪の芸人は東京の仕事が少なかったのです。
また、大阪でテレビに出ていても 広島と佐賀では映らないので、母や祖母、高校の同級生に見せてあげたいという思いもあったのです。
梅田花月の喫茶店で、洋八に東京に行こうと言うと、「ええで。」と答えました。
昔は、吉本興業は東京に支社はありませんでした。
東京に行くなら、吉本興業を辞めるしかなかったのです。
(その後 吉本興業は、1980年10月に東京の事務所を開設しています)
そして、会社に許可をもらって東京に行きました。
東京進出のリスク
○確約されている仕事はゼロ
○定期的に出番があった劇場の仕事もゼロ
○関西弁の芸人が東京で売れた前例はほぼゼロ
○すでに嫁と子どもがいた
「横山やすし・西川きよし」は、大阪にいながら東京へ行ったり来たりしていましたが、B&Bは引越して東京に行ったのです。
B&Bが、大阪から東京に進出した芸人の第1号でした。
そして、東京の芸人が数多く出ていた「あさくさ松竹演芸場」に、なんとか出せさてもらうようになりました。
東京での漫才の反応
B&Bの漫才を観た東京のお客さんは「大爆笑」でした。
すると、東京の芸人からは嫌われるようになりました。
「そんなにウケるなら大阪へ帰れ」と言われました。
300人の演芸場で200人は芸人が観ていました。
その中で真剣な顔で観ていたのが「ビートたけし」でした。
最初にたけしと洋七が出会ったのは、横山やすしさんに「東京の面白い芸人紹介する」と言われ、3人で千葉の毎日食堂に行きました。
やすしさんはその後いなくなり、たけしと洋七の2人に。
そのころは「島田くん」「北野くん」と呼び合っていました。
タクシー代がなかったので、2人で4~5時間ずっと歩いたそうです。
その日から、2人のつきあいは濃いものになっていきました。
上京して1年後、B&Bの状況を一変させる仕事のオファーがきました。
B&Bにきた仕事のオファー
それが「花王名人劇場」でした。
当時は、全国放送でゴールデンタイムに漫才はありませんでした。
「花王名人劇場」も、当時はドラマをやっていました。
それで、漫才をやりましょうと電話がきました。
最初は、人気があった「星セント・ルイス」、2番目が「B&B]、3番目が「横山やすし・西川きよし」でした。
3組で、CMを除く42分間をやりました。
この番組をきっかけに、一夜にして全国区となりました。
次に来た仕事は、「花王石鹸」のCMでした。
「花王名人劇場」の放送日の翌日のオファーでした。
そして 花王石鹸からは、土日の営業を半年間押さえてくれと頼まれました。
その当時のB&Bの営業のギャラは5万円くらいでした。
ところが、花王石鹸の営業は1日70万円でした。
1ヶ月に8日の営業で560万円になりました。
ギャラの配分は、洋七4:洋八3:事務所3に分けていました。
お笑い史上最大のブーム
「漫才ブームの到来」
B&B、ツービート、紳助・竜介、ザ・ぼんち、ヒップアップ、セント・ルイス、オール阪神・巨人、おぼん・こぼん、西川のりお・よしお、今いくよ・くるよ などが世に出ました。
B&Bが東京に来て、漫才ブームが到来したと言われています。
たけしが「俺らが売れた分、売れなくなった人がいっぱいいる。そこをわかって頑張ろうな」と言っていました。
この頃の芸人は、忙しすぎて女遊びはできなかったそうです。
「人気なくなってから遊んだな」
漫才ブーム時の月収
「最高月収 約8400万円」(レギュラー19本の時代)
1ヶ月にテレビに出た最高が107本。
広島カープの山本浩二さんが、1985年の推定年棒が8500万円でした。
当時、一番高い漫才1本(40~50分)のギャラが1000万円。
【B&Bの伝説①】
大晦日のテレビのギャラ……850万円。
【B&Bの伝説②】
ブロマイドの売り上げが、1位 近藤真彦、2位 野村義男に次いで3位がB&B。
給料を7200万円もらうとき、20万円は普通の封筒で、7400万円は高島屋の包装紙で包まれていました。
嫁さんに給料を渡すとき、20万円が給料だと思って、7400万円の塊は ファンレターだと思って押入れに入れていました。
半年後に押入れを開けてみると、3億4000万円の現金が入っていました。
【洋七買い物リスト】
ベンツ 2000万円
都内にマンション 7000万円
兄のために実家を改築 3000万円
妻の実家に漁船 4000万円
妻にミンクのコート(オーダーメイド) 800万円
【当時の最高所得税率】
税率 75%
1億だったら7500万円が税金。
5億4000万円の所得税を請求されましたが、お金が残っていなかったので、4年間で払うようにと税務署に言われました。
それで、銀行からお金を借りて払いました。
その借金が完済し、これから貯金をしようと思った矢先、漫才ブームが終わったのです。
漫才ブームは、わずか3年くらいの出来事でした。
洋七は、今の芸人が司会をしたりドラマに出るのが嬉しいそうです。
昔は芸人の地位がとても低かったのです。
それを自分たちが引き上げたという自負があります。
今の芸人の活躍がとても嬉しいと洋七は言います。
漫才ブーム後の芸能界
「たけしや紳助がタレントとして開花」
【洋七のしくじり……ブームの最中に、漫才の次の展開を考えていなかった】
洋七とたけしは、お金がなかった当時、「お金があったらどうするか」をよく話していました。
洋七は「鯖を1匹食べたい」
たけしは「僕はお金があったら芸を買いたい」
「それが今の差だ」と洋七は言います。
紳助からも、「兄さん、ブームの後のことを考えておいて」と言われていたそうです。
だけど、洋七は気づきませんでした。
「漫才さえやればなんとかなる」とばかり考えていたのでした。
たけしも紳助も「思いつき」ではなく、しっかりと考えていたのです。
洋七の思いつき
「Tシャツやプロマイドを販売」
レコードの印税が1~2円の時代に、Tシャツの印税が1枚200円でした。
「サイドビジネス」
お好み焼き店(5)、ラーメン店(1)、串カツ店(1)、寿司店(1)、おでん店(1)、バー(1)
【サイドビジネス失敗からの教訓】
「自分が代わりに出来ないことはするな!」
漫才ブーム後の洋七の思いつき
「B&B解散」
もうこれ以上、B&Bの名を汚したくないと思い、B&B解散を洋八に告げると「ええで。」と言われました。
1983年、漫才ブームが終わった年に、B&Bは解散しました。
洋八は、新しく役者の仕事をすることにしました。
ここでまとめの一句
「思いつき 軽い考え 重い罪」(洋七)
追いつめられた洋七の思考
「睡眠薬で自殺未遂」
第二章 何度も同じ失敗を繰り返す洋七~どん底の苦悩と這い上がる転機~
洋七の思いつき
「もう、生きててもしゃあないな」
たけしは仕事していて、自分は仕事がない。
不眠症になって病院から睡眠薬をもらい、「これ飲んだら楽になる」と思いました。
ばあちゃんに「人と比べるな」と言われてきたのに、どうしても人と比べてしまう。
「最初を走ってきたのに、どうして最初に倒れるのかな」と。
そして心臓神経症みたいになりました。
「病気かな」と思い込んでしまうのです。
それで、睡眠薬を飲んだら楽になれるかと思って、飲もうとしたら たけしから電話がかかってきました。
「明日から俺の飯を作ってよ!」
そして、2人で飲みに行きました。
たけしは、洋七が元気がないのを知っていました。
洋七は「芸能界辞めて広島に帰ろうかな」と言いました。
するとたけしは「芸能界辞めたら友だち辞めるぜ」と言いました。
辞めることを思いとどまった洋七にたけしが言いました。
「明日から俺の飯を作ってよ!」
そして、たけし軍団の分まで飯を作りました。
すると、たけし軍団の話が聞こえてきました。
「殿が相当心配してたな、洋七から目を離すなよ」と。
たけしは、洋七が変な気を起こさないように、側に置こうとしたのでした。
料理を作りながら、洋七の目から涙が出ました。
そして、たけしは番組に呼んでくれました。
B&B再結成
「8年ぶりにB&Bを再結成」
洋八は、解散後は役者の仕事をしていました。
そして、洋七が再結成を持ち掛けると、洋八は「ええで。」と言いました。
選挙に出馬
「埼玉選挙区から参議院選挙に無所属で出馬」
行きつけの寿司屋のバイトのおばちゃんたちが、「子どもを預ける場所がない」と困っていたことから「もっと保育所を増やさなあかん」と思い、出馬を決意。
当時、横山ノックや西川きよしが政治家になっていたのを見て、洋七は思いました。
「こんなもん、俺でもできるやないか!」
しかし、選挙に出るためにやらなければいけないことがありました。
それが「B&B解散」でした。
それを洋八に告げると、「ええで。」と言われました。
しかし、結果は「落選」でした。
落選の最大の原因は「専門家の話を聞かなかった」から。
そうだ!B&Bをやろう
46歳で、B&Bの再結成を思いつき、洋八に相談すると「ええで。」という返事。
こうして、洋八と3度目のB&Bを結成しました。
そして、漫才をする場所を求めて、吉本興業に復帰したのです。
洋七の思いつき
「全国を回って1人で講演活動をしよう!」
劇場は、月に1週間だけで、残りがヒマでした。
漫才だけではしゃべり足りないのでした。
28~29年間で、4007ヶ所 講演に行きました。
そして、講演のテーマが「がばいばあちゃんとのエピソード」でした。
最初は、恥ずかしくて家が貧乏だと言えませんでした。
たけしに「次の仕事を考えろ。家にいたら考えないから旅館に行け」と言われました。
そして、旅館の人に佐賀のばあちゃんの話をしたらウケました。
それで、「貧乏話でもいいやん」と気づいたのです。
佐賀のがばいばあちゃん
そして、帰ってたけしに話したら、たけしは泣いて笑って喜びました。
そして「洋七、これを本にせえ」とたけしに言われたのです。
最初のタイトルは「振り向けば哀しくもなく」と、たけしがつけました。
最初は自費出版をしました。
1年半で売って、たけしに「もう1回出せ」と言われました。
こんどはタイトルを変えて、佐賀だけで売れればいいと思って「佐賀のがばいばあちゃん」と自分でタイトルをつけました。
佐賀の同級生にだけ売れればいいと思って、3000部だけ作りました。
新聞に小さく載ったのを徳間書店の人が見つけ、「全国で出しましょう」ということになりました。
そして、関連本の出版が、45冊にも及びました。
洋七がしゃべったことを、パソコンで文字に起こしてもらいました。
シリーズ累計で、1000万部売れました。
本は映画やドラマにもなり、洋八は映画に「清掃員」の役で出演しました。
そして、「がばい」という言葉は流行語大賞にノミネートされました。
「がばい」の成功の要因
「人の言う事を聞いてやったこと」
「僕を救ってくれたのは、がばいばあちゃんとたけしやと思う」(洋七)
子どものころは ばあちゃんが教えてくれて、芸能界では たけしがいろいろ教えてくれました。
がばいばあちゃんのヒットのおかげで、講演会の仕事がまた来ました。
年間で、一番多いときは306ヶ所回りました。
洋七に起きた天罰
「喉にポリープが見つかる」
病院で、しゃべることは止めてくださいと言われました。
そして、2007年に再び吉本興業を辞めました。
最終章「人の話を聞かずに思いつきで行動してしまうあなたへ」
喉のポリープは、手術が成功して最悪の事態は免れました。
現在は、本数を減らして講演会を続けています。
人の言葉を聞かずにしくじりまくった洋七が助けられたもの、それは「人の言葉」でした。
ばあちゃんもたけしの言葉も、ちゃんと聞いたのはいつもしくじった後でした。
始めから耳を傾けていれば、何度も同じ失敗を繰り返さずに済みました。
でも、「失敗を恐れることはない」と洋七は言います。
ばあちゃんの話で好きなのは、「まず、人間は働け」。
「働いたら、米・味噌・醤油・友だち・信頼がついてくる」
「人の言う事は聞くこと」「やってみること」「あきらめないこと」
たけしが「俺を信じて、もう一回 本を出せ」と言ってくれたから成功できました。
そして、たけしは人をバカにしません。
普通、売れなくなったら誘わないです。
たけしは、売れなくなってもぼんぼん電話をしてきます。
「行くぞ、行くぞ」と。
それがものすごく助かりました。
洋七のしくじりは、「漫才さえやっていれば人気が出る」と、漫才だけを追いかけてきたことでした。
そんなに日本一を何十年も続けられません。
そして、洋七は 家出の途中に芸能人になったのでした。
そう思ったらものすごく幸せだと。
嫁さんも「すごい良い家出やったね」と言います。
売れなくなったときに、嫁さんが言いました。
「家 売ってもいいよ」と。
「今まで通り遊びなよ」と。
「最初知り合ったとき、四畳半の部屋におったやんか」と。
「四畳半より狭くせんかったらええから、金使うて遊べ」と。
「たけしさんに負けんでええから、一緒に遊べ」と。
「10万おごってもらったら、10万おごり返せ」と。
それを嫁さんに言われたときが、一番心強かったといいます。
「言葉で人間は変わっていくんですね」(洋七)
洋七が感謝する人
「島田洋八」
35年間に渡って、3回も4回も解散して、いつでも「いいよ。」って来てくれる、そんな奴 たぶんいないと思う。
嫁はん以上の事だと思う。
半年ぐらいしたら、また洋八と漫才をやってみたいと思います。
そう言うと、洋八が登場しました。
洋七は感動して、涙が止まりません。
スタッフから電話が来て、「ええで。」と来たのでした。
わがままだったと謝る洋七に、洋八が言います。
こういう生き方しかできないからね。
この人がいたから、僕が今いるわけで。
漫才を知らないのを教えてもらって、ここまで上げてもらったのはこの方のおかげ。
最初は役者をやりたいな、でも、漫才で売れたほうが役者に入りやすい、と言って漫才をやらせてくれた。
こっちが感謝したい。
(洋七は)好きなようにやって 初めて芸が磨かれるから、自分勝手にやったほうがいいわけです。
それを締めつけたら何にも面白くない、自由奔放が一番。
行きたいところに行って、自由に漫才をやらせてあげたいっていう気持ちだから……
「わがままな俺についてきてくれてありがとう」と謝る洋七に、「体を鍛えて、元気に一緒に漫才をやってもらいたい」と洋八は言いました。
突然「またやろう」と言われても、「ええで。」と答えるそうです。
(了)
[出典:2016年放送 「しくじり先生 俺みたいになるな 3時間スペシャル」]
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