PR

島田洋七の現在|漫才ブームの頂点を極めた男の栄光と転落人生(2026.04.19)

感動

更新履歴
2016年07月19日(火):初投稿
2026年04月19日(日):年齢・人物の現職情報・感想表現を最新情報に更新

スポンサーリンク

島田洋七の栄光から没落 [しくじり先生 俺みたいになるな] まとめ

島田洋七先生紹介

1

島田洋七 76歳(2026年現在)。
生年月日 1950年2月10日。
職業 漫才師、タレント、作家。
出身地 広島県。

1950年 広島県で生まれる。
1975年 島田洋八とB&B結成。
1980年 漫才ブームで一躍人気者に。
2007年 「佐賀のがばいばあちゃん」大ベストセラー。

1975年に島田洋八とB&Bを結成し、テンポの早い掛け合いによる新しいスタイルの漫才で、結成2年目から数々の賞を獲得した。地元・広島の銘菓をネタにしたギャグ「もみじまんじゅう!」が大ヒットし、1980年代の漫才ブームをけん引した。

2

2007年には、幼少期の思い出を綴った自伝「佐賀のがばいばあちゃん」が大ヒット。映画やドラマにもなり、日本中に「がばい旋風」を巻き起こした。

漫才ブーム

【漫才ブーム時のレギュラー番組】

「笑ってる場合ですよ」(フジ)
「ハナキンスタジオ」(フジ)
「爆笑マイスタ」(日テレ)
「B&Bのお笑いスター最前線!!」(日テレ)
「逆転クイズ”スーパービンゴ”」(日テレ)
「週間漫画ゲラゲラ45」(テレ朝)
「アイドルパンチ」(テレ朝)
「ザ・マンザイクイズ」(文化放送)
など。

「笑ってる場合ですよ」「爆笑マイスタ」「ザ・マンザイクイズ」と、帯番組が3本。ラジオの10分番組を49本録りしたこともあった。49本録りの際は、天気・野球・相撲・ヒット曲などは話題にできなかった。何をしゃべったかと聞かれ、「とりあえずなんやかんや……そっから嘘つきになったんやろね」(洋七)。

番組は19本がレギュラー。それにプラスして「ネタ番組」があり、土日は営業だった。ネタは100%、洋七が考えていた。「洋八くんは無理!」(洋七)。CMが11本。毎日テレビで観ない日はないほどの人気だった。

島田洋七のしくじり

事務所移籍 4回
コンビ解散 6回
副業失敗  8回
さらに……参議院選挙 落選

吉本興業を3回辞めて、3回入った。

洋七のしくじり性格

6

しくじりの原因は、自身の性格にある。それは「人の話を聞かずに、思いつきで行動してしまう」こと。自分の考えが一番正しいと思い込む傾向があった。

思いつきで行動してしまう人の行動例

○卵が特売中で大量買いしたら、家の冷蔵庫に入らなかった。
○急に思いついて動物園に行ったら、休園日だった。
○気に入って衝動買いしたソファーが、大きすぎて家に入らない。

授業テーマ

8

【人の話を聞かずに思いつきで行動して、何度も同じ失敗を繰り返さないための授業】

第一章 島田洋七の「思い立ったが厄日」列伝

9

「思い立ったが吉日」と思ってやっていたことが裏目に出る、という話から始まる。

1950年、2人兄弟の次男として広島で生まれた。父が早く他界したため、母が働かなければならず、8歳の時に佐賀のがばいばあちゃんに預けられた。九州からおばさんが来ていて、「帰るから見送りに行こう」と言われ、おばさんが汽車に乗りベルが鳴ったら後ろから背中を押されて汽車に乗り込み、そのまま佐賀まで連れていかれた。

11

洋七の祖母・徳永サノさんは、1900年(明治33年)佐賀生まれで、1958年から1966年まで洋七少年と暮らした。ばあちゃんの家は貧乏だったが、「勉強せえ」とは一回も言わなかった。それで伸び伸びと育った。中学の時に勉強していると「電気代もったいなか」と消した。「お前の将来より、電気代のほうが気になる」という言葉は有名なエピソードだ。

高校進学

12

高校進学は、野球の名門・広島の広陵高校に野球部の特待生として入学した。昔はスリムで、足がものすごく速かった。中学1年でライトでレギュラーだった。「ライト守っててレフトの球捕ってた」(これはネタだ)。

広陵高校は、元阪神監督の金本知憲や社会人野球・ジェイプロジェクト監督の二岡智宏など、多くのプロ野球選手を輩出している名門校で、洋七の同期は全国2位の成績を残した。しかし洋七は、ケガが原因で野球部を辞めることになった。

高校卒業後は無気力になり、だらだらとした生活をしていた。八百屋でバイトをするなかで、準優勝した同級生が慶應や早稲田に進学し「東京はいいぞ、東京に出てこいよ」と言うのを聞いていた。佐賀のがばいばあちゃんのところに月1回は通っていた洋七は、そこでデパートの経理をしていた今の妻と知り合った。彼女も「東京に行きたい」と言い、洋七も都会への思いがあったことから話が合い、20歳の時に2人で駆け落ちをした。

都会に出たい

東京に出てみたが都会すぎたため、洋七は野球部の先輩を頼って大阪に行くことにした。先輩に「家出してると聞いたぞ、大阪見物したら帰れ」と言われ、彼女が「大阪やったら吉本観に行かな」と言った。洋七はそれまで、落語も漫才も観たことがなかった。そこで観た「横山やすし・西川きよし」「中田カウス・ボタン」が最初の漫才体験だった。

その舞台を観て、洋七はこう思った。「こんなもん、俺でもできるやないか!」さっき舞台に出ていたおっさんが、ロールス・ロイスで帰っていく。「たった15分でロールス・ロイス!?こんな商売はボロい」

よし!漫才師になろう!

15

1971年、洋七は漫才師になることを決心した。つてを頼って、島田洋之助・今喜多代の夫婦漫才師に弟子入りし、コンビを組んで解散を4年間で2度繰り返した。「相方は誰でもいいや」と思っていたところ、舞台を終えた桂三枝が「あいつどうや!?」と、舞台の進行係をしていた洋八を指差した。洋八に「漫才やろう」と言ったら、OKしてくれた。それが3代目のB&Bだった。

それまでの相方は自己主張が多かったが、洋八は何ひとつ言わない。「はい、はい」しか言わなかったから、ものすごくやりやすかった。「気が弱く、自分の意見を言わない」という洋八の性格は、洋七にとって好都合だった。

18

島田洋八……1951年2月13日生まれ、岡山県出身。洋八はハーフっぽく、ファンがすごかったので、三枝の話を聞いてよかったと洋七は言う。

洋七がやりたかった漫才とは

【B&Bの漫才スタイル……しゃべる割合が9(洋七):1(洋八)の、超ワンマンスタイル漫才】

洋七が洋八にいろいろ怒っていたら、横山やすしが言った。「お前、怒ったらアカン。芸は両刃ある。上手いのもいいし、下手なのも芸や。上手い人が下手な風にしたら白々しくてウケへん。下手は下手でええ、違う言うて修正しながら漫才やれ。お前一人しゃべったらええねん」。その言葉でB&Bの漫才スタイルが出来上がった。

普通の漫才師は稽古を積んだうえでの「なんでやねん」だが、洋八の「なんでやねん」は、初めて聞くことだからリアルに聞こえる。洋七が早いテンポでしゃべるのも、横山やすしのアドバイスからだった。「お前、言葉の語尾がはっきりしてるから、テンポあげても大丈夫。テンポあげたらネタ振り少なくても、1回笑ったらずっと笑う。やってみろ」

島田紳助は洋七の弟弟子にあたるため、洋七の漫才を観てずっとメモをしていた。そして自分なりの漫才を作っていった。横山やすしが漫才を教えたのは洋七だけとされている。「なんでやねんも、最後に足で音を出せばすごいツッコんだように見える」。B&Bは瞬く間に人気者になり、大阪で数々の賞を獲得した。

洋七の思いつき「東京進出」

東京への憧れがあった。当時、大阪で人気を得た芸人が東京の番組に呼んでもらえる時代ではなく、天才漫才師の「横山やすし・西川きよし」でさえ東京では15分しか時間をもらえないほど、大阪の芸人の東京での仕事は少なかった。また、大阪でテレビに出ていても広島と佐賀では映らないため、母や祖母、高校の同級生に見せたいという思いもあった。梅田花月の喫茶店で洋八に東京に行こうと言うと、「ええで。」と答えた。

21

当時の吉本興業は東京に支社がなく、東京に行くなら吉本を辞めるしかなかった。(その後、吉本興業は1980年10月に東京事務所を開設している。)会社に許可をもらって東京に向かった。

東京進出のリスク

○確約されている仕事はゼロ
○定期的に出番があった劇場の仕事もゼロ
○関西弁の芸人が東京で売れた前例はほぼゼロ
○すでに妻と子どもがいた

「横山やすし・西川きよし」は大阪にいながら東京と行き来していたが、B&Bは引っ越して東京に来た。大阪から東京に進出した芸人の第1号だった。

23

東京の芸人が数多く出演していた「あさくさ松竹演芸場」に、なんとか出演させてもらえるようになった。

東京での漫才の反応

B&Bの漫才を観た東京のお客さんは大爆笑だった。すると東京の芸人からは嫌われるようになった。「そんなにウケるなら大阪へ帰れ」と言われた。300人の演芸場で200人は芸人が観ていた。その中で真剣な顔で観ていたのが「ビートたけし」だった。

24

最初にたけしと洋七が出会ったのは、横山やすしに「東京の面白い芸人紹介する」と言われ、3人で千葉の毎日食堂に行った時だ。やすしはその後いなくなり、たけしと洋七の2人になった。そのころは「島田くん」「北野くん」と呼び合っていた。タクシー代がなかったため、2人で4〜5時間ずっと歩いた。その日から、2人の付き合いは濃いものになっていった。上京して1年後、B&Bの状況を一変させる仕事のオファーが来た。

B&Bにきた仕事のオファー

25

それが「花王名人劇場」だった。当時は全国放送のゴールデンタイムに漫才はなかった。「花王名人劇場」も当時はドラマを放送していたが、漫才をやりましょうと電話が来た。出演順は最初が「星セント・ルイス」、2番目が「B&B」、3番目が「横山やすし・西川きよし」。3組でCMを除く42分間を担当し、この番組をきっかけに一夜にして全国区となった。

次に来た仕事は「花王石鹸」のCMで、放送日の翌日にオファーが届いた。花王石鹸からは土日の営業を半年間押さえてくれと頼まれた。当時のB&Bの営業ギャラは5万円程度だったが、花王石鹸の営業は1日70万円。1ヶ月に8日の営業で560万円になった。ギャラの配分は洋七4:洋八3:事務所3だった。

お笑い史上最大のブーム

「漫才ブームの到来」。B&B、ツービート、紳助・竜介、ザ・ぼんち、ヒップアップ、セント・ルイス、オール阪神・巨人、おぼん・こぼん、西川のりお・よしお、今いくよ・くるよなどが世に出た。B&Bが東京に来たことで漫才ブームが到来したと言われている。たけしは「俺らが売れた分、売れなくなった人がいっぱいいる。そこをわかって頑張ろうな」と言っていた。この頃の芸人は忙しすぎて女遊びはできなかったとも語っている。

漫才ブーム時の月収

「最高月収 約8400万円」(レギュラー19本の時代)。1ヶ月にテレビに出た最高が107本。当時の漫才1本(40〜50分)の最高ギャラが1000万円だった。

【B&Bの伝説①】大晦日のテレビのギャラ……850万円。

【B&Bの伝説②】ブロマイドの売り上げが、1位 近藤真彦、2位 野村義男に次いで3位がB&B。

給料を7200万円もらう際、20万円は普通の封筒で、残り7400万円は高島屋の包装紙で包まれていた。妻に給料を渡した時、20万円が給料だと思い、7400万円の塊はファンレターだと思って押入れに入れていた。半年後に押入れを開けると、3億4000万円の現金が入っていた。

【洋七買い物リスト】
ベンツ 2000万円
都内にマンション 7000万円
兄のために実家を改築 3000万円
妻の実家に漁船 4000万円
妻にミンクのコート(オーダーメイド) 800万円

【当時の最高所得税率】税率75%。1億円の所得に対して7500万円が税金となる計算だ。5億4000万円の所得税を請求されたが、お金が残っておらず、4年間で払うよう税務署に言われた。銀行からお金を借りて払い続け、ようやく借金が完済して貯金をしようと思った矢先に漫才ブームが終わった。漫才ブームは、わずか3年ほどの出来事だった。

芸人の地位が低かった時代に、それを自分たちが引き上げたという自負が洋七にはある。

漫才ブーム後の芸能界

「たけしや紳助がタレントとして開花」

【洋七のしくじり……ブームの最中に、漫才の次の展開を考えていなかった】

お金がなかった当時、洋七とたけしはよく「お金があったらどうするか」を話していた。洋七は「鯖を1匹食べたい」と言い、たけしは「僕はお金があったら芸を買いたい」と言った。「それが今の差だ」と洋七は言う。紳助からも「兄さん、ブームの後のことを考えておいて」と言われていたが、洋七は気づかなかった。「漫才さえやればなんとかなる」とばかり考えていた。たけしも紳助も「思いつき」ではなく、先を見据えて動いていた。

洋七の思いつき

「Tシャツやプロマイドを販売」。レコードの印税が1〜2円の時代に、Tシャツの印税が1枚200円だった。

「サイドビジネス」。お好み焼き店(5)、ラーメン店(1)、串カツ店(1)、寿司店(1)、おでん店(1)、バー(1)。

【サイドビジネス失敗からの教訓】「自分が代わりに出来ないことはするな!」

漫才ブーム後の洋七の思いつき

「B&B解散」。もうこれ以上B&Bの名を汚したくないと思い、洋八に解散を告げると「ええで。」と言われた。1983年、漫才ブームが終わった年にB&Bは解散した。洋八は役者の仕事をすることにした。

ここでまとめの一句。「思いつき 軽い考え 重い罪」(洋七)

追いつめられた洋七の思考

「睡眠薬で自殺未遂」

第二章 何度も同じ失敗を繰り返す洋七~どん底の苦悩と這い上がる転機~

洋七の思いつき

「もう、生きててもしゃあないな」

たけしは仕事していて、自分は仕事がない。不眠症になって病院から睡眠薬をもらい、「これ飲んだら楽になる」と思った。ばあちゃんに「人と比べるな」と言われてきたのに、どうしても人と比べてしまう。「最初を走ってきたのに、どうして最初に倒れるのかな」と。心臓神経症のような症状にもなり、「病気かな」と思い込んでしまった。睡眠薬を飲もうとしたちょうどその時、たけしから電話がかかってきた。

「明日から俺の飯を作ってよ!」

そして、2人で飲みに行った。たけしは洋七が元気のないことを知っていた。洋七が「芸能界辞めて広島に帰ろうかな」と言うと、たけしは「芸能界辞めたら友だち辞めるぜ」と言った。辞めることを思いとどまった洋七に、たけしは「明日から俺の飯を作ってよ!」と言った。そして、たけし軍団の分まで飯を作るようになった。

すると、たけし軍団の話が聞こえてきた。「殿が相当心配してたな、洋七から目を離すなよ」と。たけしは、洋七が変な気を起こさないよう、側に置こうとしていた。料理を作りながら、洋七の目から涙が出た。その後、たけしは番組に洋七を呼んでくれた。

B&B再結成

「8年ぶりにB&Bを再結成」。解散後に役者の仕事をしていた洋八に再結成を持ちかけると、「ええで。」と言われた。

選挙に出馬

「埼玉選挙区から参議院選挙に無所属で出馬」。行きつけの寿司屋のアルバイトの女性たちが「子どもを預ける場所がない」と困っているのを見て「もっと保育所を増やさなあかん」と思い、出馬を決意した。当時、横山ノックや西川きよしが政治家になっているのを見て「こんなもん、俺でもできるやないか!」と思った。しかし選挙に出るためには「B&B解散」が必要だった。洋八に告げると「ええで。」と言われたが、結果は「落選」だった。落選の最大の原因は「専門家の話を聞かなかった」ことだという。

そうだ!B&Bをやろう

46歳でB&Bの再結成を思いつき、洋八に相談すると「ええで。」という返事。洋八と3度目のB&Bを結成し、漫才をする場所を求めて吉本興業に復帰した。

洋七の思いつき

「全国を回って1人で講演活動をしよう!」。劇場は月に1週間だけで、残りがヒマだった。漫才だけではしゃべり足りなかった。28〜29年間で4,007ヶ所を講演して回った。講演のテーマが「がばいばあちゃんとのエピソード」だった。

最初は、恥ずかしくて家が貧乏だとは言えなかった。たけしに「次の仕事を考えろ。家にいたら考えないから旅館に行け」と言われ、旅館の人に佐賀のばあちゃんの話をしたらウケた。それで「貧乏話でもいいやん」と気づいた。

佐賀のがばいばあちゃん

帰ってたけしに話すと、たけしは泣いて笑って喜んだ。「洋七、これを本にせえ」と言われた。最初のタイトル「振り向けば哀しくもなく」はたけしがつけた。最初は自費出版をし、1年半後に「もう1回出せ」とたけしに言われた。今度は佐賀だけで売れればいいと思って「佐賀のがばいばあちゃん」と自分でタイトルをつけ、3000部だけ作った。新聞に小さく載ったのを徳間書店の担当者が見つけ、全国出版が実現した。関連本の出版は45冊に及んだ。

洋七がしゃべったことをパソコンで文字に起こす形で制作したシリーズは、累計1,000万部を超えるベストセラーとなった。本は映画やドラマにもなり、洋八は映画に「清掃員」の役で出演した。「がばい」という言葉は流行語大賞にノミネートされた。

「がばい」の成功の要因

「人の言うことを聞いてやったこと」。「僕を救ってくれたのは、がばいばあちゃんとたけしやと思う」(洋七)。子どものころはばあちゃんが教えてくれ、芸能界ではたけしがいろいろ教えてくれた。がばいばあちゃんのヒットのおかげで講演会の仕事が再び来るようになり、年間最多で306ヶ所を回った。

洋七に起きた天罰

「喉にポリープが見つかる」。病院で「しゃべることは止めてください」と言われた。2007年、再び吉本興業を辞めた。

最終章「人の話を聞かずに思いつきで行動してしまうあなたへ」

喉のポリープは手術が成功して最悪の事態は免れた。現在は講演活動を続けており、これまでの講演回数は4,700ヶ所を超える。

人の言葉を聞かずにしくじりまくった洋七を助けたのも、「人の言葉」だった。ばあちゃんもたけしも、ちゃんと聞いたのはいつもしくじった後だった。最初から耳を傾けていれば、何度も同じ失敗を繰り返さずに済んだ。それでも「失敗を恐れることはない」と洋七は言う。

ばあちゃんの話で好きなのは「まず、人間は働け」という言葉だ。「働いたら、米・味噌・醤油・友だち・信頼がついてくる」。「人の言うことは聞くこと」「やってみること」「あきらめないこと」。たけしが「俺を信じて、もう一回本を出せ」と言ってくれたから成功できた。

たけしは人をバカにしない。売れなくなってもぼんぼん電話をしてきて「行くぞ、行くぞ」と言う。それが洋七には大きな支えだった。洋七のしくじりは「漫才さえやっていれば人気が出る」と漫才だけを追いかけてきたことだった。そして洋七は、家出の途中に芸能人になったのだった。妻も「すごい良い家出やったね」と言う。

売れなくなったとき、妻が言った言葉がある。「家売ってもいいよ」「今まで通り遊びなよ」「最初知り合ったとき、四畳半の部屋におったやんか。四畳半より狭くせんかったらええから、金使って遊べ」「たけしさんに負けんでええから、一緒に遊べ」「10万おごってもらったら、10万おごり返せ」。その言葉が一番心強かったと洋七は振り返る。「言葉で人間は変わっていくんですね」(洋七)

洋七が感謝する人

61

「島田洋八」。35年間にわたって、3回も4回も解散して、いつでも「いいよ。」と来てくれる。そんな奴はたぶんいないと思う。妻以上のことだと洋七は言う。半年ぐらいしたら、また洋八と漫才をやってみたいと思う。

そう言うと、洋八が登場した。洋七は感動して涙が止まらない。スタッフから電話が来て「ええで。」と言って来たのだった。わがままだったと謝る洋七に、洋八が言う。

こういう生き方しかできないからね。この人がいたから、僕が今いるわけで。漫才を知らないのを教えてもらって、ここまで上げてもらったのはこの方のおかげ。最初は役者をやりたいな、でも漫才で売れたほうが役者に入りやすいと言って漫才をやらせてくれた。こっちが感謝したい。(洋七は)好きなようにやって初めて芸が磨かれるから、自分勝手にやったほうがいいわけです。それを締めつけたら何にも面白くない、自由奔放が一番。行きたいところに行って、自由に漫才をやらせてあげたいっていう気持ちだから……

62

「わがままな俺についてきてくれてありがとう」と謝る洋七に、「体を鍛えて、元気に一緒に漫才をやってもらいたい」と洋八は言った。突然「またやろう」と言われても、「ええで。」と答えるそうだ。

(了)

[出典:2016年放送 「しくじり先生 俺みたいになるな 3時間スペシャル」]

文責:ライターズラボ編集部(2026年04月19日(日)12:18執筆)

コメント

タイトルとURLをコピーしました