★【漫才】横山エンタツ・花菱アチャコ/早慶戦

漫才

プロフィール

横山エンタツ
本名=石田正見 明治29(1896)年4月22日~昭和46(1971)年3月21日 享年74 大正・昭和期の漫才師
花菱アチャコとのコンビ(エンタツ・アチャコ)で、それまでの古典的な舞台芸能である「色物漫才」に代わり、スタンダップ・コメディである「しゃべくり漫才」へのムーブメントを作った。現在の漫才スタイルの元祖と言える。
姫路に生まれ、伊丹中学を中退し、家出し、職を転々とする。1914年、新派劇綾田五郎一座に入ったのを皮切りに、多くの巡業劇団に参加する。1919年花菱アチャコと一座を組み、幕間に「しゃべくり漫才」を試演するが不評に終わる。
1928年頃から、「横山エンタツ」を名乗り、アメリカ巡業にでる。そこで見たチャップリンなどの喜劇に大きな影響を受ける。
1930年に、吉本興業に入社し、花菱アチャコとコンビを組む。当時人気のあった東京六大学野球からネタをとった『早慶戦』などの「しゃべくり漫才」が人気を博す。1934年に新橋演舞場に出演し、漫才は落語と並ぶ地位を得たといわれる。しかし、この公演中に花菱アチャコが中耳炎で倒れ、アチャコとのコンビを解消し、杉浦エノスケと組む。
1941年、「爆笑エンタツ劇団」を旗揚げし、全国を巡業する。
1969年大阪市から市民表彰を受ける。
長男は関西テレビの元プロデューサー。長男の夫人は吉本新喜劇の中山美保。 二男は吉本興業に所属する俳優の花紀京。横山ノックは弟子である。
平成17年6月8日水曜日その時歴史が動いたにて、 その時は1934年6月10日(エンタツ・アチャコの漫才「早慶戦」がラジオ中継された日)とされ、放送される。

花菱アチャコ
本名=藤木徳郎 明治30(1897)年7月10日~昭和49(1974)年7月25日 享年77 大正・昭和期の漫才師 俳優 福井県出身
1913年に山田九州男(山田五十鈴の父)の一座に入り、千日前敷島倶楽部で初舞台を踏む。1914年、神戸の「鬼笑会」一座に入り、漫才に転向し、花菱アチャコを名乗る。
1925年、吉本興業に入社し、千歳屋今男とコンビを組む。1930年、当時吉本興業で総支配人の座にあった林正之助の勧めに従い、横山エンタツとコンビを組む。当時人気のあった東京六大学野球をネタにした『早慶戦』などの「しゃべくり漫才」で人気を博す。1934年、中耳炎にかかり、エンタツとのコンビを解消する。その後舞台では千歳屋今男とのコンビを復活させたが、映画では引き続きエンタツ・アチャコのコンビを継続した。一方で「アチャコ劇団」を旗揚げし、全国を巡業する。
第二次大戦終結後、吉本興業は一時演芸部門から撤退し全所属芸人との専属契約を解除するが、アチャコは林正之助に対し吉本の専属のままにして欲しいと嘆願したため、唯一の例外として吉本興業との専属契約継続を認められた。結局この契約はアチャコが亡くなるまで継続されることになる。
戦後間もない時期には、長谷川一夫の『銭形平次捕物帳』など、映画の時代劇等でバイプレーヤーとしても活躍している。
1952年に長沖一原作のラジオ番組『アチャコ青春手帖』が大ヒット作となり映画化された。後番組で、引き続き浪花千栄子と共演した『お父さんはお人好し』も人気を博し、これも映画化された。1959年に吉本興業が演芸部門を再開させると、アチャコは吉本の一枚看板として吉本バラエティの初期を支えた。

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