★桂歌丸/後生鰻

桂歌丸


桂歌丸(かつら うたまる、1936年〈昭和11年〉8月14日 – 2018年 平成30年〉7月2日)は、日本の落語家。本名は椎名 巌(しいな いわお)。

神奈川県横浜市中区真金町(現:南区真金町)の出身。定紋は『丸に横木瓜』。血液型はA型。横浜市立横浜商業高等学校定時制中退。

出囃子は『大漁節』。公益社団法人落語芸術協会会長(5代目)。当初は新作落語中心だったが、晩年は、廃れた演目の発掘や三遊亭圓朝作品など古典落語に重点を置いて活動していた。地元・横浜においては横浜にぎわい座館長(2代目)、横浜橋通商店街名誉顧問も務めていた。位階勲等は旭日小綬章。

演芸番組『笑点』(日本テレビ)の放送開始から大喜利メンバーとして活躍し[注 1]、2006年(平成18年)5月21日から2016年(平成28年)5月22日まで同番組の5代目司会者を務め、同日付で終身名誉司会者となった。

落語家までの道

生家は横浜・真金町の妓楼「富士楼」であり、間近で遊女達を見て育ったためか、女の化粧風景を描写した「化粧術」の珍芸を持つ。
『浜っ子』であることを誇りにしており、そのためか、古典落語独特の江戸ことばは多用しない。
美しい日本語で語ることをモットーとしている。
戦時中、母方の実家である千葉に疎開している
最中に横浜の空襲で生家も焼失したが、戦後すぐに祖母はバラックを建て「富士楼」の経営を再開。

貧しい時代にあっても食料に困ることもなく、当時高価だったラジオも持っていた。
このラジオでよく聴いていた落語を、祖母や芸者の前で披露すると喜んでもらえることが落語家になるきっかけとなっている。

小学校4年生の頃には将来落語家になるとすでに決めていた。
戦後まだ青空教室だったため、小学校の時に体育の時間になると自習なので落語を演じていた。
これが非常に好評で、時には隣のクラスの先生から落語をやってくれないかと要請があった。

落語家

中学生となり、女郎屋の慰労会の席で当時二つ目だった5代目春風亭柳昇の落語を聴いて、落語家になる決意を完全に固めた。
そして、NHKの出版部にいた遠縁の親戚を通じて誰に弟子入りしたらよいかを相談し、「一番面倒見の良い人だから」ということで5代目古今亭今輔を薦められ、中学3年だった1951年(昭和26年)に入門することになる。

ちなみに本人は「噺家になれさえすれば師匠は誰でも良かった」とのこと。
はじめに兄弟子で、後の師匠である米丸の初名であった「古今亭今児」を名乗る。
その際今輔から言われたことは「芝居を見ろ」。

今輔によると歌舞伎を見る事は落語に活きるからだと言い、実際自ら演じる際はそのエピソードをマクラとして登場させている。
このためか、中村吉右衛門出演の歌舞伎をよく見に行くという。
歌丸いわく、仕草や立振舞などを見て落語に活かすためとのこと。
ちなみに、吉右衛門いわく、「歌丸師匠は歌舞伎を見るのにいい席に座っている」とし、「舞台から見ても歌丸だとすぐにわかる」らしい。

ただし、両者に直接的な面識は全く無かったとのことで、歌丸は、吉右衛門と『鬼平犯科帳』で共演していた先代の江戸家猫八に「吉右衛門のサインをもらってきてほしい」と頼んだとのことである。
後に吉右衛門は、頭をなでながら「いろいろと照れ屋さん」と歌丸を評している。
今輔門下から兄弟子・4代目桂米丸門下へ移籍したのは、当時芸術協会で勃発した香盤(序列)問題や、今輔が新作派なのに対し高座で古典落語ばかり演じていたことに端を発している。

この一件で今児は破門状態となり、一時ポーラ化粧品本舗のセールスマンへ転職(『ウチくる!?』では、アルバイトであったと語っている)するが、三遊亭扇馬(現:3代目橘ノ圓)の肝いりで落語界に復帰。

しかし今輔が付けた条件により兄弟子・米丸門下となった(米丸も『浜っ子』である)。
なお、その後の今輔との関係は良好で後述のように寄席などでの真打昇進興行や口上にも今輔は出演している。
一部の記事では、1961年(昭和36年)に「今輔死去に伴い兄弟子米丸門下に移籍」との表記があるが、これは誤り。

米丸門下に移籍したこと自体は1961年(昭和36年)のことだが、先述のように今輔一門からの事実上の破門状態になったことによるもので、今輔死去は1976年(昭和51年)である。
現に、1968年(昭和43年)に行われた『笑点』での歌丸の真打昇進披露口上では、今輔と米丸がそろって登場している。

米丸に師事して「古今亭今児」から「桂米坊」に改名したが、1964年(昭和39年)1月、現在の「桂歌丸」に再改名。
どちらも米丸が考案して付いた名である。
したがって歌丸は当代が初代であり、名跡ではない。
歌丸本人は「歌丸」の由来を知らない。

米丸は、落語の枕にて「『歌丸』という芸名の由来はですね、桂歌之助以外の『桂』を名乗っている落語家で、芸名に『歌』が入る落語家が少ないため、芸名に『歌』を入れたんです」と語っている。
米丸はほとんど稽古を付けず、米坊(当時)を鞄持ち兼座付作家扱いにしていた。

しかし、これで放送局関係等にコネクションができたほか、米丸のラジオ番組の構成をしていたことがネタ作りの鍛錬になり、古典の掘り起こしの際の一部改作や独自のくすぐりを入れたりするのに役に立ったという(後述「妻・冨士子」の項参照)。
ちなみに、弟弟子であるヨネスケに最初に稽古を付けたのは、米丸ではなく歌丸であったという。
著書の中で、1978年(昭和53年)に起きた落語協会分裂騒動の際、新しくできた落語三遊協会に5代目三遊亭圓楽を通じて、参加を要請されたことを明らかにしているが、歌丸自身は上記の経緯で米丸一門に移籍したと説明し、参加を断っている。

自身の弟子の高座名は、歌丸の「歌」の文字を頭に付けることを原則としているが、一番下の弟子であった3代目桂枝太郎のみ、本人の希望により、二つ目時代は「丸」の付いた名前が欲しいとしたため、「花丸」を名乗らせていたとしている。
歌丸曰く、「学校の時の成績がよっぽど悪かったため、名前だけでも丸が欲しかったのではないか(笑)」として、「花丸」になったとのこと。

なお、あとの4人は、預かり弟子でもある、惣領弟子の歌春(歌丸門下になったと同時に、「歌はち」に改名していた)を含め、すべて、「歌某」の高座名である。
また、通常であれば弟子は師匠の鞄持をするものであるが、タレント性にどっぷり浸かってしまう恐れがあることから、落語に専念するよう、自分の弟子には寄席の楽屋への鞄持をさせても、笑点の楽屋への鞄持は絶対させないとのこと。

しかし、前述の一番下の弟子だけは、歌丸の願いもむなしく、タレント性にどっぷり浸かってしまったと述べていたことがある(ちなみに、惣領弟子の歌春も、歌はち時代に『笑点』の座布団運びアシスタントをしていた時期がある)。

妻・冨士子

妻の名前は冨士子。歌丸より4歳年上。大喜利でもしばしば恐妻として登場する。
1989年(平成元年)に歌丸が座布団10枚の賞品として獲得した「クィーンエリザベスIIの夕べ」にて“美女とクルージング”をすることになったが、その「美女」として冨士子夫人が登場している。
ただし、後ろ姿のみで顔は出していなかった。
その後も番組内で姿を現すことはなかったため、笑点では「謎のヴェールに包まれた人物」とされている。
近年では6代目三遊亭円楽から、地方収録でおなじみとなった問題「『お笑い窃盗団』で盗んできたもの」として「○○を盗んできたのはいいが、冨士子ってこぎたねぇ砂かけばばあがついてきたけど、どうしやしょうか」とネタにされることが多い。
近年では、たい平の嫁・千華のネタが多用されるようになったためか、ごく最近では恐妻ネタよりもむしろ「(砂かけ)ばばあ」としてネタにされることが増えている。
6代目円楽に「横浜の歌丸んちに砂かけばばあが棲みついている」とネタにされた時には、「今日があたしの命日になってしまう」とやり返していたこともある。

高座で冨士子の殺害ネタをかけており、2006年(平成18年)の新春寄席では『後生鰻』という噺の結末「子供が川に放り込まれる」を、「鰻屋の冨士子が川に放り込まれる」という結末に変えていた。

冨士子夫人も、歌丸と同じく横浜真金町の出身であり、歌丸の生家の近くに在住していた。
このため、師匠・5代目今輔から勧められた女性を断って、顔見知りであった冨士子夫人と結婚したと後に語っている。

2007年(平成19年)11月23日に行われた歌丸の旭日小綬章と金婚式を祝う会では、公の場に夫婦揃って登場した。
冨士子夫人との結婚は21歳の時。
娘も20歳で結婚したため、42歳で孫が生まれている。

笑点メンバー

前身番組の『金曜夜席』第1回から出演。
『笑点』になった後も、降板していた1969年(昭和44年)4月6日から11月2日まで、および腰部脊柱管狭窄症の手術・療養のため休んだ2008年(平成20年)6月29日・7月6日、および肺炎に伴う入院が長引いたことに伴う休演となった2010年(平成22年)3月7日・3月14日を除き、出演を続けている。

1973年(昭和48年)に脱腸と2001年(平成13年)に急性腹膜炎と2度開腹手術を受けているが、いずれも番組に穴を開けることはなかった。
1973年(昭和48年)の手術直後の神奈川県伊勢原市での公開録画には、体調が優れない中で看護師同行の上で収録をこなした(この伊勢原での公録の模様を放送した『笑点』は40.5%の歴代最高視聴率をマーク)。

2001年(平成13年)2月11日放送では手術直後の収録で、積み上げた座布団への昇降が困難だということで、歌丸は座布団の後ろに座ってその前に座布団を積み上げるという方式を取って臨んでいる(この放送で、後に現在に至るまでネタにされることになるほか、自身も司会就任後に2回しでかした「大喜利を2問目で終了」を圓楽がしでかしている。
後に、6代目円楽から「あれをね、うちの師匠がやった後ああなったんですよ」とネタにされている)。

2006年に腰部脊柱管狭窄症の手術を行った際は、収録がない時期に手術を行った。
2012年に腰部脊柱管狭窄症の手術を再び行った際も、収録のない時期に手術を行った。
その後、2009年(平成21年)には肺気腫に伴う感染増悪で入院したが、このときも笑点の収録のない間の入院で済んだため、番組を休演することはなかった。
しかし、2010年(平成22年)には、今度は軽い肺炎を起こし入院。

当初、愛知県みよし市での地方収録の前日には退院の見通しであったが、大事を取って延期されることになった(同年3月2日に行われた6代目円楽襲名披露パーティは、一時退院の上で会見に臨んだ)ため、同年3月7日、3月14日放送分の『笑点』は、それぞれ木久扇と好楽が代理司会をする形で休演。

同日放送分の『笑点Jr.』も木久扇が代理でナビゲーターをする形で休んだ。
復帰後の笑点の冒頭では、「肺炎にかかってはいえんな騒ぎになった」と自虐していた(この発言は、前述の6代目圓楽襲名披露パーティなどでも披露していた)。
座布団に関しては歌丸をヨイショするネタには複数枚(最高は6代目円楽に6枚)与える一方で剥奪は厳しく、8枚前後からは容赦なく剥奪をしている。

歌丸自身の「2問目で番組を締めようとした」「メンバーの名前を間違える」など歌丸のミスをネタにした場合、全座布団剥奪が基本となっている。
また、問題だけでなく、挨拶の際に歌丸死去ネタ・禿ネタを言った場合は「挨拶が気に入らない」として、歌を歌った場合は「歌は禁止」として、1問目が始まる前の時点で座布団を没収することがある(答えの良さにとっては獲得の場合あり)。

この他、代理司会で歌丸が復帰した際に「過剰に与えた座布団剥奪」や年2回~3回程度「全メンバーの座布団全て剥奪」もある。
長い間6代目三遊亭円楽(前名・楽太郎)と「6代目円楽(楽太郎)は腹黒・友達がいない・師匠を裏切っている・『圓楽』は金で買った」、「歌丸の禿(カツラを被っておかしい、増えた、若返った)・恐妻家(砂かけばばあと住んでいる)・歌丸の死去ネタ(お迎えが近い・未亡人の冨士子・5代目圓楽の真似をして「楽太ぁ、歌さんがまだ来ねえんだけど」と言うなど)・入院して休演したのにギャラをもらった・やるかジジイ(爺ネタ)」などと罵倒合戦を繰り広げ、歌丸が司会になってからは「6代目円楽(楽太郎)の歌丸罵倒ネタ」に関しては容赦なく座布団を剥奪する(円楽の巻き添えや同調したメンバーも対象)。

反対に「6代目円楽罵倒ネタ」を言ったメンバーには、無条件に座布団を1枚以上与えている。
しかし、これは番組上の演出であり、新人時代にネタに悩んでいた6代目円楽(当時:楽太郎)に対し、「(ネタは)俺のことでいいから」とアドバイスしたのが起源であり、基本的には仲が良く、歌丸と6代目円楽の二人会などで共演することは多い。

6代目圓楽の襲名披露を定席興行で実現させたのも、歌丸の尽力によるものだった。
上述のように5代目圓楽よりは座布団の剥奪はシビアだが、スポンサーをネタにされた場合「やらないわけにはいかない」として座布団をやることが多い(ただし、2010年2月より六代目圓楽が語りを担当している「毎日香」ネタは、好楽および6代目円楽から何度が没収したことがある)。

小遊三や春風亭昇太などに次いで番組内で本名を出されることが多く、「林家木久蔵の新しい名前」を公募した際にも、楽太郎(現:6代目円楽)から何度も「椎名巌」を改名案として出されていたことがある(理由は、椎名巌という名前を今使っていないから)。

余談だが、この案に対してたい平は「くだらない名前」と言い放っている。
2000年代後半あたりから毎年のように、「次回の『24時間テレビ』のチャリティーマラソンに歌丸がランナーとして出る」とネタにされることが多々あり、チャリティー大喜利では「来年のランナーは歌丸」とほぼ毎回ネタにされる(主に、小遊三や6代目円楽から。2012年は黒木瞳がネタにしていた)。

なお歌丸は、実際にはそのチャリティ大喜利の進行をしている。
番組内でのキャラクターについては「大喜利 (笑点)#桂歌丸(笑点5代目司会者)」を参照

その他

海外での活動は、過去にカナダ・トロントでの公演などが行われている。
2006年(平成18年)3月10日には、パリで海外公演を開催、フランス語の字幕付きで『尻餅』を演じた。
11月2日にはニューヨークで海外公演を開催し、同じく日本語(英語の字幕付き)で『尻餅』を披露。
2007年(平成19年)5月にはメキシコ公演も行う。

30代から現在に至るまで容姿がほとんど変わっていない。
30代前半頃には、既に現在の頭髪に近い状態になっていた。
なお、30代で死去した自身の父はもっと薄かったと懐述している。
プレイボーイであったと言われるが、これは都市伝説で、歌丸本人によれば、楽太郎(現:6代目円楽)の流した噂ではないかという。

多趣味で知られ、渓流やワカサギ釣りが趣味。
ジッポーや化石コレクターでもある。
海外公演があると古物店巡りをする。
2010年(平成22年)5月に横浜にぎわい座の2代目館長の就任を要請されていることが明らかになり、同年7月に就任した(初代館長である玉置宏が同年2月に死去し館長が不在であった)。
歌丸に館長就任を要請した背景には、歌丸が横浜にぎわい座の設立に貢献したことや、現在も独演会や二人会などを開催していること、歌丸自身も誕生から現在まで横浜市在住であることなどが挙げられる。

長年『笑点』に出演し、茶の間に広く顔の知れた高齢者であることも相まって、2010年(平成22年)6月、総務省から「地デジ化応援隊」メンバーに起用された。
『全国一斉地デジ化テスト』が放送された同年7月4日の『笑点』放送は1分繰り下げられたが、その際、応援隊員に任命されたことを発表した上で、視聴者に地デジ化テスト参加を呼び掛けた。
2004年2月に落語芸術協会の会長に就任しており、現在も会長職にあるが、これを捩って「怪鳥」あるいは「怪しい鳥」と自他共にネタにすることが多々ある。

もとは、『笑点』回答者時代に当時の司会・5代目圓楽よりネタにされたことに起因するが、奇しくも6代目円楽襲名披露口上(2010年2月28日放送)の際に、好楽によって「会長といっても怪しい鳥のほうではございません」とネタにされていた。
以前は、『笑点』のオープニングでも、ハゲタカ風の怪しい鳥に乗った歌丸のアニメーションが放送された時期があった。

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後生鰻(ごしょううなぎ)は古典落語の演目の一つ。
元々は『淀川』という上方落語の演目で、明治期に東京へ移植された。
別題は『放生会』。
主な演者として、5代目古今亭志ん生、3代目三遊亭金馬、桂歌丸、桂文珍などがいる。

あらすじ

さる大家の主人は超極端な信心家で、夏場に蚊が刺していても、つぶさずに必死にかゆいのを我慢している。
ある日、浅草の観音様さまの帰りがけ、鰻屋の前を通ると、親方が鰻をまな板の上へ乗せて包丁を入れようとしているところに遭遇した。
「何をする気だ!?」「二階のお客様のご注文で、蒲焼に…」「残酷じゃないか!!」隠居、早速、義憤を感じて、鰻の助命交渉を開始する。
すったもんだの末、鰻を二円で買い取って、前の川にボチャーン。
「あー、いい功徳(くどく)をした」スーッと帰ってしまう。
翌日、また同じ鰻屋で、同じように二円…ボチャーン!「あー、いい功徳をした」そんなことが続くこと四・五日。
隠居さえ現れれば、仕事もしないで確実に日銭が転がり込むんだから、鰻屋はほとんど何もしないで左うちわになっていた。
仲間もうらやんで、「どうでえ、あの隠居付きでおめえの家ィ買おうじゃねえか」。
ところが…ある日を境に、この隠居がぱたりと来なくなった。
吹っかけすぎたのが災いして、ほかの鰻屋へ流れていってしまったのだろうか。
女房と心配していると、久しぶりに向こうから『福の神』がやって来る。
「ウーン…。
あれは具合が悪いんだな。
ああいうのは、いつくたばっちまうかしれねえ。
今のうちに、ふんだくれるだけふんだくっとこう」一儲けしようとするが、ちょうど鰻が切れて商売を休んでいるところで、商売は開店休業状態。
「あの金魚…昨日死んだ? ネズミ…そんなに簡単には捕まえられないか。
えーと…」生きているものならいいだろうと、自分の女房を拝み倒し、割き台の上に乗っけた。
驚いたのは隠居だ。
「おいおい、それをいったい如何する気だ?」「へえ、蒲焼きにするんで」「馬鹿野郎。
なんてことをしやがる。
これ、いくらだ」隠居、生き物の命にゃ換えられないと、かみさんを百円で買い取り、前の川にボチャーン!影から見ていた親父が「あー、いい功徳をした」

オチのバリエーション

あらすじに採用したのは歌丸の高座で、通常、川に放り込まれるのは鰻屋の子供(赤ん坊)だ。
歌丸は普段から『恐妻ネタ』・『女房殺害ネタ』をやっているため、このような変更をしても大爆笑の噺となってしまうのだ。

凝り性な人の小噺

昔から、何かにつけて凝ってしまうという人は多い。
小噺にもこんなものがある。

超極端な人

ねずみ色ばかりを好んで身に着ける人がいた。
ベレー帽がねずみ色で、服もねずみ色。
シャツもねずみ色で、ポケットの万年筆までねずみ色。
靴下もねずみ色で、財布もまたねずみ色。
ついでに股引がねずみ色で、靴までねずみ色と言う徹底振りだ。
この人が外出したら、お向かいの猫が飛び掛ってきた…。
作者は3代目桂三木助で、モデルとなったのは演劇評論家・作家の安藤鶴夫(通称「アンツル」)。

たとえ信心でも、凝り性な性格が入ってくるとろくな事にはならないようだ。
ドけちな隠居がひょんなことから信心に凝り、縁日で売られていた亀を買って放そうと考えた。
一番安い亀を選んだので、残った亀が「とり殺してやる!」

究極の落語?

『善行』をモットーとしているはずの隠居が、事も在ろうに「人殺し」をしてしまうというオチ…。
この隠居には、チャップリンの『モダン・タイムス』よろしく、【同じ行動を繰り返す】事がインプットされてしまっているのだろうか?かつて、このオチを「あまりにも残酷だ」と考え、人間を猫に変えて演じた噺家もいたが、全くと言っていいほど受けなかったそうだ。

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