★柳家権太楼(初代)若旦那

柳家権太楼(初代)

プロフィール

初代柳家 権太楼(やなぎや ごんたろう、1897年(明治30年)10月20日 – 1955年(昭和30年)2月8日)は、日本の落語家。本名、北村 市兵衛。

東京市本所区の生まれ。大阪で義太夫語りとなり、竹本越羽太夫と名乗る。
その後帰京し、初代柳家三語楼門下で柳家語ン太と名乗る。
大阪弁でやんちゃな人を「ゴンタ」と呼ぶため(人形浄瑠璃『義経千本桜』の登場人物「いがみの権太」に由来する)、「語ン太」という芸名になったものと思われる。

大正末期に柳家権太楼と改名。1927年(昭和2年)2月、真打昇進。

1939年(昭和14年)、東宝名人会に所属し、師匠譲りのナンセンスな新作落語で売り出す。
スキンヘッドにギョロ目という容貌、ニコニコしながら

「えー、これが終わりますと、あとは掃除である。掃除は面白くないのであります」

「私を見て日蓮上人の再来と見えますが、この柳家権太楼も一個のアーチストである」

といったような諧謔味あふれる警句を吐き、客席を爆笑の渦に巻きこんだ。
その人気は師匠・三語楼、兄弟弟子・柳家金語楼、7代目林家正蔵を凌ぎ、「爆笑王」と呼ばれた3代目三遊亭歌笑と双璧をなすほどだった。
さらに、3代目三遊亭金馬と並んで東宝の看板落語家となる。

『猫と金魚』は漫画『のらくろ』の作者・田河水泡による新作落語で、権太楼の十八番となりレコード化された。
『猫と金魚』は、現在でも8代目橘家圓蔵や上方の落語家などによって演じられ古典落語と化している。他にも『猫と電車』、自作の『カツレツ』『ぐずり方教室』『反対夫婦』などが得意ネタ。

戦後も映画『東京五人男』(1946年、東宝)に出演するなど人気を保っていたが、1950年(昭和25年)ごろに病魔に倒れ、失語症と記憶喪失症になる。

時を同じくして夫人との離婚訴訟が起こり、東宝との専属契約も解除されるなど、公私ともに失意の日々が続いた。
その後、幸いにして別の女性と再婚し1子を儲ける。病も半ば癒えて、日本芸術協会に客分として加入し、高座にも復帰。
しかし、昔日の面影はなく、さらには再び言語がおぼつかなくなり、話の途中で突然絶句したり、時間をかなり余して高座を下りたり、噺の同じところをループしたりするなど、高座での異常が目立つようになっていった(楽屋では脳軟化症と噂された)。関係者の骨折りでラジオ放送に出演した際は、ヨレヨレの軍服を着て、震える手でメモを見ながら『猫と金魚』を演じるという無残なもので、最早見られたものではなかったという。

1955年(昭和30年)1月17日、上野鈴本演芸場の高座を最後に病の床に就き、失意の内に没した。
辞世の句は「金魚にも希望あるらし 鉢の中 意志のごとくに 行動している」。自らの十八番『猫と金魚』にちなんだもので、実は頭は正常だったのだ。
ゆえにこの結末を本人が一番無念に思っていたと推測される。

柳家権太楼 (初代) - Wikipedia

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