いくら、廓(くるわ)で女郎に振られて怒るのは野暮(やぼ)だといっても、がまんできることとできないことがある。
惚(ほ)れてさんざん通いつめ、切り離れよく金も使って、やっとなじみになったはずの紅梅花魁(おいらん)が、このところ、それこそ、宵(よい)にチラリと見るばかり。
三日月女郎と化して
「ちょいとおまはん、お願いだから待ってておくれ。じき戻るから」と、言い置いて行ったきり。
まるきり、ゆでた卵で帰らない。
一晩中待ってても、音さたなし。
それだけならまだいいが、座敷二つ三つ隔てて、あの女のキャッキャと騒ぐ声がはっきり聞こえる。
腐りきっているこっちに当てつけるように、お陽気なドンチャン騒ぎ。
ふて寝すると、突然ガラガラドッシーンという地響きのような音で起こされる。
さすがに堪忍袋の緒を切って、若い衆を呼んで文句を言えば、なんでも太った大尽(だいじん)がカッポレを踊ろうと「ヨーイトサ」と言ったとたんに尻餅で、この騒ぎらしい。
ばかにしゃあがって。
その上、腹が立つのがこの若い衆。
当節はやりかは知らないが、キザな漢語を並べ立て、当今は不景気でござんすから、芸者衆を呼んで手前どもの営業隆盛を図るだの、あなたはもうなじみなんだから、手前どもの繁盛を喜んでくだすってもいいだのと、勝手な御託ばかり。
帰ろうとすると紅梅が出てきて、とどのつまり、売り言葉に買い言葉。
「二度と再びてめえの所なんか来るもんか」
「ふん、おまはんばかりが客じゃない。来なきゃ来ないでいいよ。こっちにゃあ、いい人がついてんだから」
「何をッこのアマ、よくも恥をかかせやがったな」
「何をぐずぐず言ってるんだい。さっさと帰りゃあがれ」
せめてもの嫌がらせに、野暮を承知で二十銭ぽっちのつり銭を巻き上げ、腹立ちまぎれに、向かいの女郎屋に上がり込む。
なじみの女郎がいるうちは、ほかの見世に上がるのはこれも吉原のタブーだが、そんなこと知っちゃあいない。
なんと、ここの若柳という花魁(おいらん)が、前々から辰つぁんに岡惚れで、紅梅さんがうらやましいと、こぼしていたそうな。
そのご本人が突然上がって来たのだから、若柳の喜ぶまいことか。
もう逃がしてなるものかと、紅梅への意地もあって、懸命にサービスに努めたから、辰つぁんもまた紅梅への面あてに、毎晩のように通いつめるようになった。
そんなある夜、たまたま都合で十日ほど若柳の顔を見られなかったので、今夜こそはと思っていると、表が騒がしい。
半鐘が聞こえ、吉原見当が火事だという。
おっとり刀で駆けつけると、もう火の海。
女郎が悲鳴をあげながら逃げまどっている。
ひょいと『おはぐろどぶ』の中を見ると、濁水に首までどっぷり浸かって溺れかけている女がいる。
助けてやろうと近寄り、顔を見ると、なんと紅梅。
「なんでえ、てめえか。よくもいつぞやは、オレをこけにしやがったな。ざまあみやがれ。てめえなんざ沈んじゃえ」
「辰つぁん、そんなこと言わずに助けとくれ。今度ばかりは首ったけだよ」
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