★笑福亭松鶴(五代目)くしゃみ講釈

笑福亭松鶴(五代目)

くしゃみ講釈(くしゃみこうしゃく)は、落語の演目の一つ。
覗き機関(のぞきからくり)の語りや講釈の素養が求められる難解な噺だが、江戸落語題名を「くしゃみ講釈」、上方では「くっしゃみ講釈」という。
戦前では5代目笑福亭松鶴の十八番であった。初代桂春団治のレコードもある。東京では現在やっているのは柳家権太楼など少数。

あらすじ

デートの現場を、突然乱入してきた男にメチャクチャにされた主人公。
数日後、兄貴分にその話をすると、相手の正体は一龍斎貞山の弟子で「一龍斎貞能」(上方では講釈師の名は後藤一山 [ごとういっさん])という講釈師だという事が判明した。
頭にきた主人公は復讐を決意、「殴り倒してやる」と息巻く彼に、兄貴分は「もっと良い手がある」とある方法をアドバイスした。

その方法とは、講釈場の最前列に陣取り、講釈師が語り始めたら、暖を取る為に観客に配られている火鉢で胡椒を薫してその煙を浴びせ掛けるというもの。
そうすれば、講釈師はくしゃみに見舞われてまともに語れなくなって困り果ててしまうだろうというのだ。
感心する男に、兄貴分は夜席に間に合うよう《今すぐ》に《角の乾物屋(上方では八百屋)》で《胡椒》を買ってくるよう指示を出す。
ところが、いざ買いに行こうとしたところで男が『何を買うのか』を忘れてしまった。

兄貴分がそれを教えると、男は今度は『何処で売っているのか』と『何時行くのか』を忘れ、挙句の果てには『誰が行くのか』まで忘れてしまった。
呆れた兄貴分が咎めるが、男は「医者に望遠鏡(健忘症の憶え間違い)の気があるって言われた」と何処吹く風。
ますます困った兄貴分は、男が覗き機関の物真似を好んでよくやっていることに目を付け、「覗きカラクリの演目」→「八百屋お七」→「お七の恋人は?」→「小姓の吉三」→「胡椒」と連想ゲーム方式で胡椒を思い出すようアドバイスをした(上方の設定では「胡椒」だけでなく「八百屋で買い物をする」というのも一緒に連想させ、より辻褄を合わせている)。

「さっきのは冗談だった」と、笑いながら乾物屋へ向かった男。
ところが、店につく頃には冗談に気を入れすぎたせいで本当に何を買うのか忘れてしまっていた。
困った男は、兄貴分のアドバイスを参考に店先で本当に「覗きカラクリの物真似」をやるが、なかなか思い出せず見物の人集りがどんどん出来て行く。
人集りに困っている店主を横目に覗き機関一段丸々語り切って、何とか胡椒を思い出した。

ところが胡椒は売り切れ、仕方なく店主が勧めた唐辛子の粉を買った。

そして講釈場。
講釈師が登場し、『三方ヶ原軍記』(『難波戦記』の場合も)を語りだした。
計画通り煙で薫してやると、講釈師の語りは、声が上擦ったり裏返ったり、ラップのように一所を行ったり来たりとメチャクチャになってしまう。

手筈通り講釈師にヤジって帰ろうとした処、講釈師が

「何ぞ故障でも御在りか?(何か故障(文句)があるのですか?)」と訊いてきた。

男はすかさず

「胡椒が無いから唐辛子(を燻べたんだよ)」

プロフィール

5代目笑福亭 松鶴(しょうふくてい しょかく(1884年9月5日 – 1950年7月22日))は、上方噺家。
大阪市出身。本名は竹内梅之助(たけうち うめのすけ)。
妻は6代目林家正楽の娘。次男は6代目笑福亭松鶴。

生家は代々「大虎」という屋号の大工であった、父が2代目桂文三と親交があったために16歳の時に素人連(三枝連)で芦廼家梅咲(時に四季亭)を名乗り頭目にとなる。

1904年11月3日、当時枝鶴だった4代目松鶴に入門し2代目にあたる光鶴を名乗る。1年間の出征の後、1906年に三友派の拠点「第三此花館」で初高座。後、三友派を離れ、壽々会の創立に参加、解散後は神戸などを転々とする。

神戸にいた頃前座の噺家にネタで邪魔された為(当日やるネタを前座が先に演じた)6代目林家正楽に「高津の富」を出稽古で教わる事になる、その時に正楽の娘と駆け落ちし、長女が誕生する。その2年後に次男(後の6代目松鶴)が誕生する。

帰阪後は新桂派を経て三友派に復帰。1918年11月、2代目枝鶴を襲名。1921年の花月派(吉本興業)と反対派の合体、そして翌年の三友派との合体で吉本入り。1935年3月、5代目松鶴を襲名し、キタの花月倶楽部やミナミの南地花月にて襲名口演を披露する。

口上には4代目松鶴、2代目桂三木助、2代目林家染丸らが並んだ、しかし、この頃、吉本は漫才に力を入れ始め、上方落語を軽視し始める。
松鶴は、1936年4月1日に私財を投げ売って『上方はなし』を創刊。1937年には、遂に吉本興業を離脱。2代目桂米之助(後の4代目桂米團治)らと共に、上方落語の復興を模索し始める。その後、東成区大今里の自宅を「楽語荘」と名付け、若手の育成に力を入れる。
なお、『上方はなし』は1940年4月、49号を最後に資金不足、紙不足等の理由で廃刊。

その他にも1937年9月には京都・大阪で『上方はなしを聴く会』を開いたり落語をやれる場所があればどこでも駆け付けた。1943年3月吉本の高座に復帰するが、戦争の空襲で大阪が焦土と化した。

戦後も、終戦の年にいち早く「楽語荘」の再開や上方落語の会を四天王寺本坊で開催。1947年3月、文楽座での興行の成功や、9月の戎橋松竹開館にこぎつけるなど活躍。
1949年には関西落語協会の副会長に就任したが、病で倒れ1950年7月22日に死去。享年66。

息子の6代目松鶴の話では、臨終の床で得意ネタの「天王寺詣り」を語り出し、松鶴一門に伝わる大事なネタを稽古するつもりであったという。末期の水では、好きな酒を脱脂綿に含んで口に含ませるとチューチュー吸出し、頬に赤みが刺したという。

普段は決して威張らない人柄だった。漫才の横山エンタツ・花菱アチャコが出演したとき、落語家たちはやっかみもあって、楽屋で冷淡な態度を取り続けた。
隅っこで小さくなっている二人に「なあ、寒いやろ。そんなとこ座ってんとこっち来て火鉢に当ンなはれ。」と声をかけたのが松鶴であった。

小道具を大事にする落語家としても有名で、寄席を梯子していた頃は、一切弟子に小道具(膝隠し等)を持たさずに、自ら運んでいた。この他にも物持ちは良かった方らしく、戦前の吉本興業の主な寄席の出番表など、今や吉本興業本社にすら残っていない戦前の上方お笑い界に関する貴重な資料を後世に残している。

得意ネタは笑福亭お家芸を中心に「天王寺詣り」「三十石」「植木屋娘」「くっしゃみ講釈」「尻餅」「次の御用日」「宿屋仇」「土橋萬歳」「千両蜜柑」 等。

なお、SPレコードには「地獄八景亡者戯」を、演題「弥次喜多地獄の旅」として2枚残している。ピアノなどを効果音として使っており、当時から斬新なアイデアマンであったことが偲ばれる。その他にも後世の保存目的で多くのレコードを残している。

辞世は「煩悩を振り分けにして西の旅」、法名は、松鶴院釋悟楽。墓所は大阪市天王寺区上本町9丁目の壽法寺(別名・紅葉寺)。

現在「楽語荘」は「平成楽語荘」と題して上方落語協会が当時の5代目松鶴の意志を受け継ぎ古い史料の収集等を目的などで開室されている。

笑福亭松鶴 (5代目) - Wikipedia

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