★快楽亭ブラック(二代目)大須演芸場強制執行日最後のトリ/お血脈(おけちみゃく)

快楽亭ブラック (二代目)

2014年2月3日
名古屋大須演芸場に強制執行
明け渡し記念 無料特別講演最終日
公演途中で 建物明け渡し
臨場感あふれる!快楽亭ブラックの高座

大須演芸場について

大須演芸場(おおすえんげいじょう)は、愛知県名古屋市中区大須にある劇場。大須観音のすぐそばにある。
落語や色物などを毎日上演する常設の寄席である。
木造の2階建てで1階は椅子、2階は座敷席となっている。1階が約150席で1階が約80席で座席数は250。
ビートたけしや明石家さんまらがまだ売れない駆け出し時代に出演している。客が少ないことでも有名で、客が1人しかいない中で上演されることもあった。
常に経営難で、大須演芸場の苦境を知って、古今亭志ん朝が独演会を開いて応援するなど、救いの手をさしのべる人たちによって閉鎖の危機を乗り越えたことでも知られる。

大須には大須二十館と言われるほどに多数の演芸場が存在していたが、最後まで残ったのがここであった。
名古屋に限らず中京地区唯一の寄席で、落語・漫才・手品などの演芸や、年2回のロック歌舞伎スーパー一座による公演が行われ、大須大道町人祭の会場としても使われていた。

沿革

前身は戦前から同地にあった中規模劇場だった港座であり、戦後の1946年に再開されてからはストリップ劇場となっていた。
ストリップの合間にはコントが上演されていた。

この港座時代にショーやコントの台本を書くスタッフとして住み込みで働いていた中には後に脚本家となる山田信夫がいた。
1963年に港座が閉館して建物の半分は取り壊され、残った楽屋部分を改築し、落語とコントと漫才を上演する寄席として、樋口君子を席亭に大須演芸場がオープンした。

樋口君子の後を継いで1973年11月1日より席亭となったのが、以後40年以上にわたって席亭を務める名古屋市中区出身の足立秀夫である。
足立は大阪の不動産業で財産を築き、運営資金として1億円を用意して経営を引き継いだ。
大須演芸場の地権者は大須観音で、営業権を取得した足立は建物も購入しようとしたが、前の経営者による税金滞納のため国や県・市による差し押さえや金融業者からの差し押さえ付いていたことが判明したために購入は断念して、建物は賃貸で運営していくことにした。

後に有名になった芸人が若手時代に出演しており、漫才コンビのB&Bが1972年にここで初舞台を踏んだ。
ツービートはこの大須演芸場からの出演依頼がきっかけとなって誕生した。
当初はビートきよしが他の相方とコンビを組んで出演する予定だったが立ち消えとなり、急遽誘ったのがビートたけしである。

ビートたけしは下積み時代に大須演芸場で経験した思い出話を語ることがある。
楽屋化粧前の台の裏側には1975年に書かれたであろう明石家さんまの落書き(サイン)があり、そこには「今日も客なし 明日は?」と書かれている。

なお、当時のツービートのギャラは2人合わせて1日4千円、明石家さんまのさんまのギャラは1日1000円であったという。
この他にも泉ピン子、笑福亭鶴瓶らが新人時代に出演した。

足立が席亭になってからも赤字の興行が続き、資金難で従業員もどんどん辞めていき2、3名となった。
ギャラの高い有名芸人も呼ぶことが出来なくなった。
2年後の1975年についに資金が底をつき、以後は入質して運営資金を捻出していた。

1978年頃にはその質草もなくなって金融業者から借金するようになり、その打開策として芸人のギャラを削減するため、1978年8月1日より売り上げに応じてギャラを配分する割り興行のスタイルをとった。

その後、1979年頃からの漫才ブームで一息つくも1981年後半から再び客足が落ち、1983年8月から割り興行から元の寄席経営のスタイルに戻した[24]。
その後も経営難の連続で、1985年には3年間の家賃滞納で最初の強制執行を受けた。

このときは話し合いで9月1日より未払いの家賃を毎日1万円払うことで合意して営業を継続。
『中日新聞』で強制執行による閉鎖危機を大きく報じられ、強制執行にはマスコミが殺到。これが逆に宣伝となって、1986年の冬まで漫才ブーム以来の大入りが続き、そのおかげで借金を返済できた。

1987年から再び1日の来客数が10名未満という閑古鳥状態に戻り、1990年代には東西の大物の好意の出演で窮状を救われた。
1990年からの10年間、3日連続で古今亭志ん朝は格安の出演料で独演会を引き受け、ミヤコ蝶々も1993年からの3年間をノーギャラで出演した。

特に志ん朝の独演会は東京では行われないため、立ち見が出るほどの盛況で、東京在住の作家の小林信彦やエッセイストの中野翠はわざわざこのためだけに泊まりがけで名古屋に滞在するほどであった。

漫才コンビの正司敏江・玲児も、1985年3月と1991年の2度にわたって大須演芸場を助けようと連日出演。志ん朝や蝶々と並んで足立が苦境を救ってくれた恩人と呼ぶ存在である。
正司敏江は、2014年1月の閉鎖を知ったときも、大阪での舞台をキャンセルして、大須演芸場に駆けつけ10日間の正月興行に参加した。

2000年になり建物の所有者の負債を処理するため演芸場の建物は競売にかけられ、舞台美術を手掛ける地元企業が所有権を落札。
新たな建物所有者とは月額30万円の賃貸契約で営業が続いた。

2007年6月、テレビ番組『さまぁ~ずげりらっパ』の企画でその窮状を知った落語家の笑福亭鶴瓶(過去、大須演芸場への出演歴あり)が無報酬で公演を引き受け、売り上げ金は施設の改修などに費やされた。
平日の客入りは10人程度前後で、売上は1万円から2万円。
芸人の出演料の3万円を支払うと赤字で、その穴埋めのために専属芸人の営業斡旋(「出張演芸」と称す)や席亭自らの講演料等によって、興行収入の減少を補っていた。

建物の所有者は地権者に土地代を払いながら、大須演芸場の家賃滞納に悩まされ続け、2011年には30万円の賃貸料を20万円に値下げしたが、芸人への支払いを優先して賃貸料は支払われず滞納は改善されなかった。
大家側は貸し小屋事業では収益を確保できていながら未払いを続けているとみて強制執行の申し立てをし、2014年2月3日に建物明け渡しの強制執行がなされ、営業が終了した。

席亭の足立は以後も同演芸場の住居部分に居住していたが、2月25日に近隣のマンションに引っ越したため、3月3日に正式に所有者に建物が引き渡された。
営業終了翌日の2月4日に高須克弥(高須クリニック院長)が席亭の足立に対する営業支援を表明。
一方で所有者側では5月始めまでに建物の現状確認を行った上で耐震等の補強工事を行い、新たな席亭を立てて「年内に新生演芸場の第2幕が開けられる状態にこぎ着けたい」との意向を示しており、席亭・所有者双方が営業再開に意欲を見せている。

 

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