★三遊亭小圓朝(三代目)プロフィール

三遊亭小圓朝(三代目)


1984昭和60年7月5日 某局スタジオ。「三代目三遊亭小圓朝の13回忌追善放送」後生鰻

プロフィール

3代目三遊亭 小圓朝(1892年(明治25年)8月8日 – 1973年(昭和48年)7月11日)は、東京府東京市下谷区(現:東京都台東区)出身の落語家。本名は芳村幸太郎。
出囃子は『小鍛冶』。 祖父は三遊亭圓麗(本名:芳村源六)、父は2代目小圓朝という落語一家に生まれる。
1907年2月に父の門下で朝松となり、2、3年ほどで二つ目に昇進し小圓治と改名する。父のドサ廻りに自身もついて行き、2年ほど経った後に帰京する。
それから1917年2月に真打昇進して2代目橘家圓之助を襲名。後に4代目橘家圓蔵に預けられ、1922年5月に4代目三遊亭圓橘を襲名。翌年父小圓朝死去し、1927年3月に3代目小圓朝を襲名。戦時中の1943年5月には船勇亭志ん橋と名乗るが、1947年3月には小圓朝に戻している。
地味であるがしっかりした江戸前の芸の持ち主で『しわい屋』『権助提灯』『あくび指南』『三味線栗毛』『粗忽の釘』『笠碁』『二番煎じ』など持ちネタは多かった。しかし他の大看板の影に隠れ勝ちで、寄席の出番も浅く不当に評価された嫌いはあった。一方、若手や大学の落語研究会の稽古台として多くの人物を育てた。
1967年(昭和42年)7月、脳出血で倒れ高座に上がらぬまま没した。名人と呼ばれた4代目橘家圓喬に容姿・芸風が似ていたために未亡人から襲名を進められるほどで、その名跡を預かる[要出典]ほどだったが晩年は不遇であった。
晩年東大の落研の師となり後世の落語研究家を多く輩出した。
弟子に三遊亭朝之助、3代目三遊亭圓之助、6代目三遊亭圓橘、海老一染之助・染太郎の父にあたる三遊亭圓駒(後の長唄囃子に転向し、望月太意七から望月晴峰になった)がいた。

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