★桂文枝(五代目)蛸芝居

桂文枝(五代目)
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演目紹介

蛸芝居(たこしばい)は、上方落語の演目の一つ。主な演者には、6代目笑福亭松鶴や5代目桂文枝などがいる。
この作品は初代桂文治の作といわれて、後世に改作などを繰り返し現在の形になったとされる。

あらすじ

昔は、医者が四方八方に居る訳ではなかったため、何とか病を自分で治そうと「民間療法」が発達していた。
例えば、蛸に食あたりした場合は、『黒豆を三粒を食べる』…といった感じだ。
しかし、世の中にはどんなに治療をしても、決して治らない病と言うものもある。
それが…『恋わずらい』と『マニア』。

この噺の舞台となる砂糖の問屋さんも、主はもちろん番頭、丁稚、女中、乳母さんにいたるまで、家内中が揃ってみんなが芝居好き。
例えば…。朝、店員がなかなか起きなくて困った時は、主自ら『三番叟』を踊って店員を起こすのだ。

「【 おぉ~そいぞや、遅いぞや、夜が開けたりや、夜が開けたりや。丁稚、乳母、お清ぉ~、起きよぉ~ッ…♪  】」
確かに、こんな風にド派手に起こされたのでは、いつまでも寝ている訳には行かないだろう。
丁稚の定吉・亀吉のコンビが主のアイディアと踊りに感心して、布団の中から「うぉ~い、三番始まり~」。
主に怒られてしまった。
「さっぱりワヤやで…」
表を掃除するように言いつけられ、外に出た所で…二人の芝居が幕を開ける。
「寒さをしのぐ茶碗酒」
「雪と遊ぶも一興か」
「さらば、掃除に…、いや掛かろぉ~かい~ッ」
向かいの路地を花道に見立て、奥に引っ込もうとした…ところで、また主に見つかって怒られた。
「さっぱりワヤやで…」

亀吉は庭の水撒き、定吉は仏壇の掃除を言いつけられ、定吉一人が仏間へと入っていく。
「え~、これは誰の位牌かいなぁ?あッご隠居はんや。なぁ、えぇ人やったなぁ」
よく天王寺参りに誘われ、帰りに茶碗蒸しをご馳走になったっけ。そんなことを考え、次の位牌を見るとこれが何と大嫌いな婆の位牌。
「死んでも頭痛患うよぉに、位牌ひっくり返しといたげま…」
掃除をしているうちに、また芝居がやりたくなってくる。『位牌を使った芝居』は無いかと考え…。
「回向院殿貴山大居士様…。先年、天保山行幸(みゆき)の折、何者とも知れぬ者の手に掛かり、あえないご最後。

おのれぇ、やれとは思いましたなれど、まだこの定吉は前髪の分際。
その前髪を幸いに、当家へこそは、入(い)り込みしが、合点のゆかぬはこの家(や)の禿げちゃん。
今に手証を押さえなば、禿げの素(そ)っ首討ち落とし、主(しゅ)らのご無念、まッ晴らさせましょ~」
言った途端にその『禿げちゃん』がやって来て、定吉の頭をがツン!

「もぉここはえぇさかいな、乳母どん用事や、坊(ぼん)の守を替わんなはれ」
と…言うわけで、今度は赤ん坊のお守りをやる事になったのだが…かつては『太閤はんも嫌がった』というこの仕事の気晴らしに、また芝居をやりたくなってきた。
今度は【都落ち】の芝居をしていると、たまたま通りかかった亀吉がその様子を見て悪戯心を起こし、棒切れを持って定吉の背後に…。

「いやぁ~ッ!」 「でんでん太鼓ぉに、笙の笛ぇ~!」 「いやぁ~ッ!」
捕り物の芝居になってしまい、勢いで赤ん坊を放り出してまた主に怒られてしまった。(なお、現在行われているこの演出は、元々は、陽気な芸風が中心だった浪花三友派の噺家によるもので、対抗勢力で、正統派の落語をもって任じていた桂派では、「なんぼ受けるか知らんが、赤ん坊を放り出す(ほりだす)とは無茶苦茶や」として、仏壇にある仏像を放り出す演出をとっていたと言う)
「さっぱりワヤやで…」
今度の指示は、二人そろってお店番。『芝居をしたらクビにする』と主に言われ、二人のフラストレーションは溜まるばかり…。
「ほなこぉしまひょか、外から入って来るやつに芝居さしまひょか」
「そんなことが、できまっか?」
表を見ると、丁度、魚屋の魚喜が荷を下げてこっちに来たところ。あいつも芝居マニアなので、『掛け声』と『ツケ打ち』で芝居をやらせようというわけ。
「へッ、魚喜よろしゅ…魚屋ッ!」
魚屋もすっかり乗せられてしまい、奥から出てきた主に「旦那さま。今日は何ぞ、ご用はごわりまへんか?」。

「もうええかげんにせぇよ。で、今日は何があんねん?」
「えー。ゴザ(五座)をハネのけまして、『市川海老十郎』、『中村鯛助』、『嵐蛸助』…」
歌舞伎の『拾い口上』のつもり。呆れながらも主がオーダーしたのは、『鯛助』と『蛸助』だった。
注文を受けた魚屋は、鯛を井戸側へと運んで早速鱗を剥がしにかかる。そのうち…丁稚のクセが乗り移ったのか、魚屋も芝居がやりたくなった。
「仮名手本忠臣蔵、六段目の勘平の切腹…良かったなぁ。『勘平、血判』 『血判、確かにぃ』…血だらけや!」

手を振った拍子に、釣瓶に手がぶつかった。釣瓶は空回りして、井戸の中へドボ~ン!
これを見るなり魚屋、井戸側へ片足掛けて…。
「はてッ、怪しぃや~な~ッ!」
何処にいたのか定吉が飛び込んできて、「訝しやなぁ~ッ」。
今度は、女中のお清を交え、【幽霊が出たシーン】を大熱演。そこへ主がやって来て、魚屋に犬が荷の中からハマチを咥えて逃げた事を告げた。
「後を追ぉて…、あ、そぉ、そぉ~じゃぁ~ッ… 」

ハスッカイになってビュー…!!
「あ、この定吉も…」 「これ、定吉。血相変えていずれへまいる?」
とうとう主まで釣り込まれてしまう。正気に戻った主は、定吉に酢蛸に使う酢を買ってくるように命じ、台所でタバコをふかし始めた。
「『わしを酢蛸にする』『旨いお方じゃ、蛸をあがれ』。あがられてたまるかい…、シ~ンとしたな、よし、この間に逃げたれ」
一部始終をズ~ッと、台所の方で聞いていた蛸が、足を二本、すり鉢の下へグッと掛け、ボチボチ持ち上げ始めた…。

足を二本前へ回しましてグッと結び、丸絎(まるぐけ)の帯のつもり。蓮華を腰へ指して刀に見立て、布巾でキリキリ~ッと頬被りをし、目計り頭巾というやつ。
出刃包丁を取り上げると、台所の壁の柔(やら)かいとっからボチボチ切り破りだした…。
「何や? 台所の方がガタガタとうるさいなぁ、どないしたんや…?」
様子を見ると、何と蛸が歌舞伎の泥棒の真似をして、台所から逃げようとしている所。
「逃げられてたまるか!」。そのまま追いかけたらいいのに、主はわざわざ日本刀を持ってきて、蛸の後ろにソロソロと…。

それに気づいた蛸は、上を向いて墨を噴水みたいにビュー!! 一気にあたりが暗転して、『だんまり』になった…。
「いやぁ~ッ!」
蛸が腕を伸ばすと、主の鳩尾に見事に命中。主はその場に倒れてしまう。
蛸は「雉も鳴かずば撃たれやしめえ。明石の浦へ。ちっとも早く、おぉ、そぉじゃ、そぉじゃ~ッ…」と逃げてしまった。

「え~、旦那、酢ぅ買ぉて来ましたで。旦さん、酢ぅ買ぉて…」
定吉が帰ってきて、目を回している主を発見。抱き起こすと…?
「さ、定吉か? 遅かったぁ~」
「あんた、まだ演ってなはんのんか、そないなってまで。どないしなはったんや?」
「定吉、黒豆を三粒、持って来てくれ」
「どないしなはった?」
「蛸に当てられた…」

[落語でブッダ2-収録]

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プロフィール

5代目桂 文枝(かつら ぶんし、1930年4月12日 – 2005年3月12日)は上方噺家(上方の落語家)。
本名は長谷川 多持(はせがわ たもつ)。

来歴・人物

大阪市北区天神橋に生まれ、後に大阪市大正区に移る。
終戦後大阪市交通局に就職するが、同僚でセミプロ落語家であった3代目桂米之助の口ききで、趣味の踊りを習うため、1947年に日本舞踊坂東流の名取でもあった4代目桂文枝に入門。

その後しばらくは市職員としての籍を置きながら、師匠が出演する寄席に通って弟子修行を積み、桂あやめを名乗り大阪文化会館で初舞台を踏む。ネタは「小倉船」。
入門当初上方落語の分裂に巻き込まれ、一時期は歌舞伎の囃子方(鳴物師)に転向、結核を病んで療養生活を送った後、落語家としての復帰を機に3代目桂小文枝に改名し、1992年には5代目桂文枝を襲名する。

6代目笑福亭松鶴、3代目桂米朝、3代目桂春団治と並び、昭和の「上方落語の四天王」と言われ、衰退していた上方落語界の復興を支えた。吉本興業に所属。
毎日放送の専属となり、テレビ・ラジオ番組でも活躍。

吉本では漫才中心のプログラムの中にありどちらかといえば冷遇されていたが、有望な弟子を育てて吉本の看板に育てた。吉本の幹部である富井義則は「文枝さんにはお世話になりました。三枝、きん枝、文珍、小枝とお弟子さんになんぼ稼がしてもらったわかりません。
いや大恩人ですよ。」と評価している。

落語に「はめもの」と呼ばれる上方落語特有のお囃子による音曲を取り入れた演目や、女性を主人公とした演目を得意とし、華やかで陽気な語り口が多い。
出囃子は「廓丹前」。小文枝時代は「軒簾」を用いていた(桂三枝(現・六代桂文枝)が継承)。

穏やかで優しかった反面、芸に対しては厳しく、弟子に対しても鉄拳をふるうこともあった(桂きん枝は「俺ほど師匠に殴られた弟子はいない」と回想している)。

稽古に関しては、例えば上方落語の間と和歌山弁独特のイントネーションとの間で苦しんでいた桂文福や、男性社会の中で構築された古典落語の壁にぶつかっていた女流の3代目桂あやめに新作落語を勧めるなど、弟子の特徴を活かした指導を行っていた。

名跡の差配に関して、弟子に桂派の名跡の襲名・改名はあまり好んでいなかった。過去に大きな名跡を継いで苦労している落語家を見てきた為弟子たちには薦めなかった。

一門で襲名・改名を行ったのは直弟子では「枝光」「あやめ」「文昇」「枝曾丸」この4人のみで「枝雀」「ざこば」「南光」といった桂派に縁のある名前も一門の違う米朝一門が襲名している。「藤兵衛」「圓枝」に関しても東京の落語家が襲名した。

弟子が直々襲名したいと名乗り出ても却下している。例えばきん枝の「文吾」文福の「文左衛門」等。
力士の長谷川勝敏とは同じ苗字ということで親交があり大阪場所があると必ず長谷川勝敏は文枝宅を訪れちゃんこを振舞っていた。

略歴

五代目桂文枝之碑
1930年4月12日 大阪市北区天神橋筋六丁目に生まれる。父は宮大工だったが、大阪に移住してからは職を転々とし、造兵廠勤務の経験もあった。のち一家は大正区三軒家に移る。
1941年4月 叔父の住む釜山に移る。
1943年4月 帰国。大阪市立天王寺商業学校に入学。
1945年3月 海軍電測学校(神奈川県藤沢市)入学。当地で敗戦を迎える。天王寺商業には復学せず、進駐軍の施設などでアルバイト生活を送る。
1947年春 叔父の斡旋で大阪市交通局に就職。当初は大阪市営地下鉄淀屋橋仮工場に勤務。その後大阪市電天王寺車庫の電機工場に配属され、運搬部員だった矢倉悦夫(のちの3代目桂米之助)と知り合う。
1947年4月 米之助の紹介で4代目桂文枝に入門。高座名は2代目桂あやめ(「阿や免」から当代より改称)。
1947年5月2日 大阪文化会館(のちの大阪市立精華小学校(1995年3月31日廃校)の位置にあった)にて初舞台。演目は「小倉船」。
1948年 交通局を退職。
1948年3月 師・文枝が2代目桂春団治や花月亭九里丸らと「新生浪花三友派」を結成し、5代目笑福亭松鶴ら戎橋松竹派と袂を分かつ。あやめも新生三友派に誘われるが、「戎松で勉強したい」と申し出、文枝と松鶴の話し合いで松鶴の預かり弟子となる。中田つるじ(松鶴の弟弟子。のち寄席囃子に転じる)から彼の落語家時代の名を贈られ笑福亭鶴二を名乗る。
1949年4月 関西演芸協会発足により戎橋松竹派と新生三友派の再統一なる。しかし文枝についていかなかった事から旧新生三友派系の勘気を買い戎橋松竹に出られなくなる。そのため、寄席囃子三味線方の滝野光子の紹介で歌舞伎鳴物の梅屋勝之輔に入門。梅屋多三郎を名乗る。
1951年 肺結核が発覚し、入院生活を送る(~1953年2月)。
1954年4月 3代目桂小文枝に改名し、落語界に復帰。
1961年 この年始まったNHKの「上方落語の会」で「天王寺詣り」「たちきれ線香」など、のちの十八番のネタおろしを行う。
※本人の著書『あんけら荘夜話』ではこの年に千土地興行から吉本興業に移籍したとされる。
ただし本人も記憶が薄いようで、同書の表現も「1961~2年頃」と曖昧なものとなっている。4代目桂文紅の『上方落語史』では千日劇場の1963年10月中席に千土地の芸人として出演していたとの記述があり、2代目露の五郎兵衛も自著『上方落語のはなし』の中で1964年に千土地興行に所属していた落語家の一人として小文枝を挙げていた。日沢伸哉は自らのブログ「らくごくら Web編」にて吉本興業の資料(非公表の住所録)に同社入社日が「1965年5月1日」と明記されていたと真相を究明した。
1967年4月22日 初の独演会「小文枝がらくた寄席」を肥後橋の大阪YMCAで開催。
1971年3月29日 立川談志との二人会「西の小文枝・東の談志」を東京・虎ノ門の発明会館で開催。在京の小文枝ファンの努力で実現した落語会で、これがきっかけとなって「東京小文枝の会」が誕生。東京での小文枝独演会の実働部隊となった。
1971年7月27日 東京で初の独演会「夏姿・小文枝一夜」を開催。
1971年10月29日 東京で二度目の独演会。ここで口演した「軽業講釈」で芸術祭優秀賞を受賞。
1982年12月 アメリカ・ロサンゼルスのリトルトーキョーにて落語会を開催(その後もう1回開催)。
1984年1月 上方落語協会第4代会長に就任。1994年まで務める。
1984年10月9日 文楽の吉田簑助、新内の新内枝幸太夫とのジョイント公演を大阪・御堂会館で行う。演目は「天神山」。
1986年 NHK連続テレビ小説「都の風」に出演。
1989年11月 韓国・ソウルの日本大使館文化院ホールで落語会を開催。演目は「天神山」「蛸芝居」。
1990年 この年の「桂小文枝音曲芝居噺の会」(東京・有楽町マリオン)で演じた「大丸屋騒動」で芸術祭賞受賞。
1992年8月3日 5代目桂文枝を襲名。大阪・中之島のロイヤルホテルにて披露パーティーを行う。襲名披露公演は8月22日の神戸文化ホールを皮切りに大阪・国立文楽劇場、東京・新宿末広亭など全国で開催。この時より出囃子をそれまでの「軒簾」から「廓丹前」に改める。
1994年10月15日 アメリカ・シアトルのオペラハウスにて落語会を開催。演目は「天神山」。前座は3代目桂あやめと桂文福。
1996年 自叙伝『あんけら荘夜話』刊行。
1997年 紫綬褒章受章。
2003年 旭日小綬章受章。
2004年4月18日 和歌山県新宮市の新宮地域職業訓練センターにて、紀伊山地の霊場と参詣道の世界遺産登録運動と連携した自作の新作落語「熊野詣」をネタ下ろし。同年中に大阪・国立文楽劇場、東京・国立演芸場でも口演する。
2005年3月12日 肺癌のため三重県伊賀市の病院にて死去。74歳没。法名:多宝院光徳文枝居士。墓所は印山寺。1月10日の大阪・高津宮での「高津の富」が最後の口演となった。
2006年3月26日 高津宮に3代目桂春団治が揮毫した五代目桂文枝の記念碑が完成する。
2008年10月29日 朝日放送他在阪民放所蔵の音源・映像ソースから33席を厳選した『五代目 桂文枝』発売。
2012年3月 『師匠、五代目文枝へ』およびTBS所蔵の『TBS落語研究会』映像ソースから11席を厳選した『落語研究会 五代目 桂文枝 名演集』販売。

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