★金原亭馬生(十代目)船徳(舟徳)

金原亭馬生(十代目)

あらすじ

女遊びに夢中になり親族会議で勘当され、女の元にしけこんだ若旦那の徳さん。
金が無くなり、追い出されてフラフラ歩いている所を船宿の親方が引き取った。
しばらく居候を決め込んでいたが、船頭にしてくれと親方に頼み、修行を始める。
年月が過ぎたが、根っからの優男で腕が上がらない。
他の船頭が出払ったある日、無理やり頼まれ船を出したが、もやいを解かずに動かないと一騒動。
出た途端に竿を流して慌てる。
櫓に切り替えると、同じ所をぐるぐる回り、川辺の石垣にくつっけてしまった。
客の傘で押してもらったら蝙蝠傘が石垣に刺さって取れなくなった。
戻れと言う客に「私は船をひっくり返したこともある、諦めなさい、傘と命とどっちが大事か」と説得する始末。
どうにかこうにか桟橋の近くまで来た所で、客を降ろしたが、胸まである深さ。
陸に上がった客が、大丈夫かと声をかけると「すいません、誰か船頭を呼んでください」

プロフィール

10代目金原亭 馬生(きんげんてい ばしょう、1928年〈昭和3年〉1月5日 – 1982年〈昭和57年〉9月13日)は、東京市渋谷笹塚出身の落語家。本名は美濃部 清(みのべ きよし)。
父は5代目古今亭志ん生、弟は3代目古今亭志ん朝。長女は女優池波志乃で、志乃の夫である中尾彬は義理の息子にあたる。
生前は落語協会所属。出囃子は『鞍馬』だが、晩年は父の出囃子『一丁入り』に変えた。

来歴・人物

豊山第二中学校(旧制私立豊山中学校定時制)を中退した後、当時の中学生の憧れの一つであった予科練を志していたが、体調が悪化したことにより断念。腸の病気の発見がやや遅れ、駒込の病院で大手術をした。

退院すると死生観の変化により予科練志願の心は消え、落語家になろうと思い立つ。1942年8月、父・5代目古今亭志ん生に入門し、4代目むかし家今松を名乗る。

当時は落語家が足りなかったため、二つ目として落語家人生をスタートさせた。1944年頃、初代古今亭志ん朝と改名。1945年4月、終戦直前になって父・志ん生が満州慰問に出てしまったため、苦労を重ねる。

1947年1月、志ん生が帰国。同年には再び今松を名乗る。1948年に真打昇進し、古今亭志ん橋を襲名。1949年10月、10代目金原亭馬生を襲名。
志ん生からは少しも噺の稽古をつけてもらえなかった。そのため、他の師匠から稽古を受けたり、独流で噺を練り上げたりすることで独自の芸風を磨き続け、三遊派・柳派両派のネタを多く持った。また、人情噺などのじっくり聴かせる噺に本領を発揮し、独自の芸風を確立した。

1969年、芸術選奨新人賞を受賞。1973年には文化庁芸術祭優秀賞を受賞する。1978年から1982年まで、5代目柳家小さん会長の下で落語協会副会長を務めた。

1982年9月13日、食道癌のため、54歳で死去。
墓所は文京区小日向の環国寺。現在では、同じ墓に父・志ん生や弟・志ん朝も眠っている。
書画は本職並みで、酒仙でもあった。また、私生活では噺家らしく和服を貫いていた。
志ん生の長男である馬生が「志ん生」の名跡を継ぐのが筋であったが、弟・3代目志ん朝に継がせたい父の意を汲み、生前には「『志ん生』は志ん朝に継がせるよ」と約束していたという。

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