浄瑠璃息子(じょうるりむすこ)は上方落語の演目の一つ。別題は『義太夫息子』。明治期の落語家桂文屋の作。
主な演者として、上方の橘ノ圓都や東京の8代目桂文治(『義太夫息子』の題で)などがいる。
あらすじ
倅の幸太郎が浄瑠璃のマニアと化し、家業そっちのけで熱中するようになってしまった。
それも上手いならともかく、幸太郎の浄瑠璃は『豚の喘息』に準えられるほど凄まじい物で、到底聞くに堪えないのだ。
「こないだもな、『お父っつぁん、今晩浄瑠璃の会がおまんので聴きに来とくんなはれ』と、こぉ言ぃよったんじゃ…」
あんなに凄まじい入れ込み方なら、キッと少しは上手いのだろう。そう思い、行ってみたのだが…。
「【壺坂霊験記】って言う話に、『三つ違いの兄さんと…』といぅ件があるなぁ、そこへきたとろがな『四つ違いの兄さんと』とこぉ言ぃやがった」
当然、客席からは物凄い槍(野次)が飛んでくる。謝るのかと思いきや、幸太郎はひときわ声を張り上げ「戸籍調べの、間違いでぇ~♪」。
浄瑠璃の会場が、あっという間に爆笑の渦に飲まれてしまった。
「これだけなら良いんやけどな、前から『まぁしょ~まへん、こら今晩の災難やと思て、腹へ涙をのんで聴きまひょ』なんていう声が聞こえて」
帰ってきたら、絶対に家に入れるものか! 親父が息巻いている所に、何も知らない倅が帰ってくる。
今度の発表会で、いったいどんなネタをやるか…それを相談しているうちに、すっかり遅くなってしまったのだ。
「『鎌倉三代記』、あれは良い作品やなぁ…」
【 修羅の巷の戦いと、身に引きしむる兜の緒…】
家の前に着いた。中に入ろうとするが、親父が内側からがっちりと鍵をかけているおかげで入れない。
「おかしぃなぁ。いつもじきにス~ッと開くねんけどなぁ。お母はん、お母はん…」
木戸をたたいている内にまたもや浄瑠璃の節になってしまい、大声で一席うなり出す。
【 かかさん、かかさん、ここ開けて 】
「じゃがましぃわいッ!」
戸口の向こうで待ち構えていた親父に、思いっきり怒鳴られてしまった。
『勘当する』と言う親父に、息子は「勝手に生みやがって無責任な。近年、親殺しがないと思て増長してるな」と応戦。
結局、物別れになってしまい、息子は一晩表にいる羽目に…。
「お母はん、お母はん…ウッウッ…」
【 父も聞こえず、母さまも。夢にも知らして、くださったら… 】
「なんちゅう声出すか、夜深に。安眠妨害ちゅうことが分からんか!?」
今度は、巡回中のお巡りさんに怒られてしまった。そのお巡りさんの仲介で、何とか家の中に入れてもらった幸太郎。
しかし、入ってきたと単にまた浄瑠璃を唸り出してしまった…。
【 ほどもあらせず、入り来る 】」
「何が「入り来る」じゃ、もぉド気違い!」
そこに座布団がしいてある。そこにはさっきまで幸太郎の妹が座っており、何とか兄の浄瑠璃狂いが直らないかと訴えていたのだ。
「【 妹まで、自らを助けんと、様々の心遣い、想い回せば回すほど、おぉそら恐ろしぃ身の冥加。胸に迫ってひと言も、お礼は口へは出ぬわいなぁ】」
何を言っても、幸太郎に堪える様子はない。
「兄を見習え。タント歳は違ごてない、たった三つ違いじゃないかい。」
「【 三つ違いの、兄さんと 】」
「また始めやがった」
「【 言ぅて暮らしているうちに 】」
「情けないなぁ…」
「【 情けなや、こなさんわ。生まれもつかぬ疱瘡で 】」
とうとう親父の怒りが爆発。勘当する! たたき出す! と大騒ぎを始めてしまった。
「【 嫌われるはみな、あぁ、わたしが、不調法 】」
「ん? わかっとるやないか」
「【 鈍に生まれた、この身のトガ 】」
「そうじゃ。すべて、お前の過ちじゃ」
「【 今からずいぶん、お気に入るよぉにいたしましょ~ほどに、やっぱりもとの 】[6]」
「息子だと思え…ってか?」
「【 嫁 】」
「ナヌ!?」
「【 娘とおっしゃって、くださりませ。お二人さま 】」
やっぱり浄瑠璃を唸っていただけだった。これには親父も唖然。
何とか倅をかばおうとする母親に、こんな奴は駄目だと説教を始めてしまった。それを聞いていた幸太郎…。
「【 涙に声も枯れ柳、引けば引かるる恩愛の「孫よまごよ」と夕べまで、いとしがったる老母さえ、道の巷に葬らんと、かき抱きたる孝の道、忠義に厚き蔵人(くらんど)が、諌めて帰る都の土産(つど) 】」
「こんなに怒られて、剣突を食らってなんとも思わんのか!?」
「こたえまへん。いつも舞台で、槍くろぉとります」
プロフィール
橘ノ 圓都(たちばなの えんと、1883年3月3日 – 1972年8月20日)は、神戸出身の上方噺家。
本名:池田豊次郎。享年89。出囃子は『薮入り』。
神戸で代々続いた指物大工の家に生まれる。
やがて芸事好きが嵩じ、21歳の時に素人落語の座長となったため、生家を勘当される。
1905年、初代桂春團治の世話で2代目桂文團治(後の7代目桂文治)に入門、桂團壽(団寿)を名乗るが、前座修行の厳しさに耐え切れず、堺の天神席でヘタリをしたり、旅廻りになったりする。
1912年、神戸に戻り、兄弟子の橘ノ圓三郎(橘家圓三郎)(元の桂團三郎)の世話で初代橘ノ圓に再入門し、橘家圓歌を名乗る。
1917年、東京に来演の折、初代三遊亭圓歌とまぎらわしいので、2代目談洲楼燕枝の勧めにより、橘ノ圓都を名乗った。
もともと「橘」の亭号は三遊亭(三遊派)の傍流であり、本人の話によると三遊亭圓都が6代目まで存在したことにより、当初は7代目圓都として神戸で襲名披露した。
神戸で活動していたころは珍しいネタを好んで演じていた、当時神戸での寄席千代之座などでは需要がある得意ネタを演じる噺家が多く珍しいネタをやる圓都は人気を得た。
若い頃は正義感が強く、曲がった事が大嫌いであった。
そのような固い性格と四角い顔から、神戸新開地にあった劇場にちなみ「聚楽館」(しゅうらくかん、1912年開館)、あるいは「下駄」とあだ名された。
晩年は打って変わって好々爺となった。
橘ノ圓に入門後は、師匠が結成した「圓頂派」に席を置き、神戸を中心に活動するが、昭和初期に突如として引退を発表し、大工に戻る。
その後、5代目笑福亭松鶴の勧めで「楽語荘」同人に加わり、それを機に復帰するが、戦中は時局により再び活動休止状態になる。
昭和初期に一時期廃業した理由は、噺家の子はよい学校に入れない、という理由と戦時中の好景気で大工の需要が高まって儲かったからであったといわれる。
1947年頃、指物大工をしていた圓都を再び舞台に復帰させようと、2代目桂春團治と夫人の河本寿栄が、灘の六甲道にあった圓都の家を訪ねた。
圓都いわく、高座着だけは取ってあるし、復帰もしたいが、入れ歯がガタガタでしゃべりができない。
そこで夫人の寿栄が、側にあった膠を見つけ、冗談で「それで入れ歯をくっつけはったら」と言った。
圓都は大笑いしたが、後で和紙を膠に浸してやってみると、うまく入れ歯がくっつき、高座への復帰がかなった。
晩年、3代目桂米朝には『宿屋仇』『軒付け』『胴乱の幸助』『けんげしゃ茶屋』『掛取』『三枚起請』『ふたなり』など、
2代目桂枝雀には『日和違い』『夏の医者』『あくびの稽古』など、
桂三枝(のちの6代目桂文枝)に『羽織』『大安売り』、2代目桂歌之助には『寝床』、笑福亭仁鶴には『戒名書き』のネタを伝え、他にも3代目林家染丸、3代目桂文我や、あるいは2代目桂小南、6代目三遊亭圓生らの東京の落語家にも多くの稽古を付けた。
数え90歳まで高座に上がった。
今日でも多くの録音が残されている。
最後の舞台は1972年6月2日に京都府立文化芸術会館で行なわれた「橘ノ圓都・桂米朝二人会」(LP化されている)。
1972年8月20日に死去。東西落語界通して最高齢の噺家であった。最後は前立腺がんだったという。
持ちネタの数は膨大であったが、『寝床』『軒付け』『浄瑠璃息子』『猫の忠信』『鰻谷』『鬼門風呂』など、音曲、それも浄瑠璃関係の噺が得意であった。
『加賀の千代』『鬼門風呂』などの自作や、『けつね』などの新作も手掛けた。
晩年になっても落語への情熱は衰えず、特に若手には上方・東京を問わず熱心に指導した。
ただし「ちかごろの若いモンはあきまへん。なんせテープレコーダーちゅうもん持ってきて稽古つけてくれ言いよんねんさかい。」と、きちんと昔ながらの稽古を尊重した。
NHKに録音した帰り、デイレクターがお礼にタクシー代を渡そうとしたら、それを謝辞し、「わたいは、いつも市電で帰りますねん。その方が乗ってる客を観察できまっさかいにな。勉強になりま。」と答えた。
浄瑠璃を語るのが好きで稽古の後も酒をふるまいながら浄瑠璃を延々と語りだすので、皆辟易した。だが腕は玄人はだしであったという。(桂米朝談)
平成14年(2002年)度・第7回上方演芸の殿堂入りを果たした。門下には橘家圓三がいる。
圓都の没後に3代目桂米朝の預かり弟子となった。その他にも漫才に転向した喜多みちお、橘家圓之助等がいる。
晩年になっても孫ほど離れた女性を連れて楽屋に訪れるなど色男であった。
自身は「新しい弟子でんねん。よろしゅう頼んます。」とよく言っていたという。
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