★桂南光(三代目)プロフィール

桂南光(三代目)

プロフィール

3代目桂南光(1951年12月8日生)上方噺家(上方の落語家)、タレント。本名は森本 良造(もりもと りょうぞう)。
母方は千早赤阪村の笠脇氏。大阪府南河内郡千早赤阪村出身。四条畷市在住。芸能事務所米朝事務所常務取締役。
出囃子は『猩々』。桂べかこ時代の愛称は「べかちゃん」、桂南光になってからは「なんこやん(なんこうやん)」。

今宮工高在学時に『素人名人会』(毎日放送)に漫談で出演したことがある。その時に楽屋で初めて桂米朝に会い、サインを貰う。

その頃に聴いていたラジオ番組『オーサカ・オールナイト 叫べ!ヤングら』(ラジオ大阪)がきっかけとなり、桂枝雀(当時:桂小米)に弟子入りを志願するも断られ、京都の安井金比羅会館での「桂米朝落語研究会」に来なさいと言われ、行ったところ入門が許され、3代目桂米歌子(3ヶ月ほど名乗った後に桂べかこに改名)を名乗ることになった。(1970年3月3日に入門)

以来、桂ざこば、5代目桂米團治らとの落語会など、本業の落語の他、趣味を通じた活動や、関西テレビのローカル生番組「痛快!エブリデイ」の総合司会(1993年 〜 2008年)を務めた。

枝雀は当初「ぼくは弟子を取れる身分ではない」と断ったそうである。ただ、大師匠である桂米朝が勧めたこともあり、「ならば、一緒に落語を勉強しよう」ということで弟子に採ったという経緯がある(そのため、当初は「師匠」ではなく、「兄さん」と兄弟子扱いで呼ばされていた。

ただ、枝雀の師匠米朝の著書によると米朝は「それはおかしい」と苦言を呈し、それ以後、南光らは枝雀を「師匠」と呼び始めたが、実はその後もしばらくは米朝の前以外では「兄さん」と呼ばせていたらしい)。

無論、枝雀の惣領弟子なのだが、それよりも「米朝の弟子」という色合いのほうが強い扱いで、そのあたりが雀三郎以下の弟弟子との違いである。一門の香盤順位も現在は、米朝、ざこば、桂朝太郎、桂米蔵に次ぐ5番目と、米朝の孫弟子としてはかなり優遇されている(例:ざこばは南光を呼び捨てにしない)。

枝雀へ弟子入りのお願いに言った際、「落語を観た事あるのか?」と聞かれ、「春団治さんの代書屋を見ました。面白かったです。」と答えている。すると「じゃあ、春団治さんのところへ弟子入りしたら?」と言われたらしい。

しかし本人としては枝雀の人柄に惚れていたらしく、春団治とは「気が合わないのでは?」という印象を持っていたと、後のテレビ番組で語っている(無論番組中に、それは勘違いであったと、文珍、鶴瓶の前で言っている)。

南光への改名は米朝の薦めによるものだが、当初は「萬光」にするかどうかで迷ったと言う。ただ、本人が「楠公」楠木正成の出身地で知られる千早赤阪村出身であること、「萬光」名だと関東での放送コードに引っかかりやすいことなどで、「南光」に落ち着いたとのことである。

ちなみに「南光」の名跡は、初代が桂文左衛門(2代目桂文枝)、2代目が桂仁左衛門の前名であり、いずれも桂派の大立者が名乗った由緒あるものである。

週刊ヤングマガジンで連載されていたマンガ・ゴリラーマンの登場人物「田辺」のモデルとされており、本人も当時出演していた「11PM」で「このマンガに僕が出てるんですよぉ~」と田辺のシーンを嬉しそうに紹介したことが有る。

「宇宙意思の会」の開祖で会長を務める(「宇宙意思の会」名誉顧問は、上岡龍太郎。東京支部長は、立川志の輔)。また自身は「男女問題研究家」と称している。

得意ネタ

「ちりとてちん」
現在演じられるちりとてちんは南光自身が仕立て直した物で多くの噺家が演じる。
「素人浄瑠璃」
「はてなの茶碗」
「質屋蔵」
他多数。自作、枝雀作の新作落語もやっていた時期もある。東京のネタを上方に仕立て直したりもする。

交遊

岡部まりの大ファンで、『探偵!ナイトスクープ』の収録日には必ず楽屋に花を贈っていたが何らかの手違いでキダ・タローの楽屋に毎日送られていた。大林素子はテレビでオリンピックを見て以来ファンになり試合観戦するようになり一眼レフカメラで毎回撮影するほどであった。

また蒼井優のファンであるが面識はない。またべかこ時代から高倉健のファンであり、「高倉健ファンクラブ」を立ち上げ初代会長を務めていたこともある、映画が公開される度にインタビューをしたり桂南光を襲名した際は本人から祝の手紙を貰うなど交流があった。現在のヘアースタイルは高倉健のイメージしたものである。

友人河島英五の主催する神戸市の震災被災者激励のコンサートに毎回出演。河島の亡くなった年のコンサートでは、号泣しながら、彼の遺児たちと遺作の「旧友再会」をシングアウトした。

ジャズの愛好家で、河田健と共にジャズのコンサート「桂南光と河田健のほのぼのジャズ倶楽部」を開いたり、他のジャズ演奏家のコンサートに飛び入りでゲスト出演することもある。

べかこ時代に、大師匠・米朝が行きつけだった京都のスナックで、たまたま居合わせた松任谷由実と意気投合し、当日朝まで飲み明かした。以来、松任谷が大阪に来た際にはべかこのラジオ番組に出演するなど、長い交友が続いている。

べかこ時代に、彼女に振られたため、楽屋にいた若井みどりにプロポーズをしたことがあるが、両人ともタイプではなく、みどりの方が漫才重視のため、断っていた。

趣味

子供のころの夢は漫画家であった。現在でも美術館巡りをよくする、また嘉門達夫の「ヤンキーの兄ちゃんのうた」のジャケットも手掛けた。
観劇、ジャズ鑑賞、オカリナ演奏、ビリヤード、フライフィッシング、蕎麦打ち、料理、絵画など多趣味であるが、特に料理については、NHKの料理番組「きょうの料理」で料理人の村田吉弘と共演し、その腕前を披露した。また、大阪市中崎町の串揚げ店「サザンライト倶楽部」のオーナーをしていたことがある。
また2011年にはツイッター、また豊竹英大夫の元で義太夫の修行も始めた。

略歴

1970年3月 10代目桂小米(のちの2代目桂枝雀)に入門、3代目桂米歌子(後に桂べかこに改名)を名乗る。
入門当初は漢字の「米歌子」だったが、ラジオの仕事(ラジオ関西主催の落語会)依頼でラジオ局側が女性に間違えたりなどしたため、2、3ヶ月後にひらかなの「べかこ」へ改名した。

1972年 梅田トップホットシアターにて初舞台。
1984年11月 サンケイホールでの「第1回桂べかこ独演会」開催。
1993年10月 「痛快!エブリデイ」の司会を始める。
1993年11月 3代目桂南光を襲名。
2004年 同年より年に1回、桂文珍、笑福亭鶴瓶との落語会「夢の三競演 三枚看板 大看板 金看板」を開催、落語会としては破格の6,000円を超える料金が話題となる。

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