★笑福亭鶴光/手水廻し

笑福亭鶴光


笑福亭鶴光 手水廻し

プロフィール

2代目笑福亭 鶴光(しょうふくてい つるこ、1948年1月18日 – )は、大阪府中河内郡長吉村川辺(現:大阪市平野区)出身の上方落語家、ラジオパーソナリティ。
上方落語協会協会員、落語芸術協会上方真打。松竹芸能所属。本名、小林 幸男(こばやし ゆきお)。
血液型はO型。大阪市立天王寺第二商業高等学校卒業(演劇部の同級生に4代目林家小染がいる)。
出囃子は『春はうれしや』。桂三枝(現:6代目桂文枝)、桂春之輔と同期。
別名は「エロカマキリ」「Mr.オールナイトニッポン 」。弟子には笑福亭学光(しょうふくてい がっこ)らがいる。
上方落語協会公式ホームページの会員プロフィールでは、読み方は「しょうふくていつるこ」となっている。
対して、落語芸術協会公式ホームページでは「しょうふくていつるこう」となっており、また自身のブログでもタイトルを「つるこうでおま!」としている。

弟子入り
6代目笑福亭松鶴に師事。2013年現在では3代目笑福亭仁鶴に次ぐ2番弟子である。
入門の際、松鶴の許を直接訪問せずに、「入門を認めるなら○、認めないなら×」との内容を記した往復はがきを郵送したエピソードが知られる。

結局返信されなかったため、直接6代目松鶴の元に訪れ弟子入りを直訴した。その際に6代目松鶴から「笑福亭の「笑」が「松」になってたやないか!! ドアホ!!」と叱られた。

正式な入門は1967年4月。初舞台は1968年2月の新世界新花月。以降、ラジオパーソナリティとして売れるまで松鶴の運転手をする。
上方落語協会、関西演芸協会のほか、5代目春風亭柳昇の口添えで1990年より落語芸術協会にも上方真打として参加しており、通常は東京の寄席に出演している。

これは鶴光が1987年から2003年の間、東京のニッポン放送で平日帯のレギュラー番組を持っていたというスケジュール上の事情が背景にあるが、これとは別に師匠である6代目松鶴が「鶴光が引き続き東京で活躍できるように」と計らい、落語芸術協会に働きかけたことによるものともいわれている。

また、松鶴は、東京に上方の人間が常駐することによって、東京と上方の架け橋になればいいと考えていたとの説もある。

現在、東京の寄席でトリを取る資格を持つ上方落語家は鶴光のみ。東京の寄席事情を知る唯一の上方落語家として、上方落語協会会長6代目桂文枝からの信頼も厚い。
春風亭小朝ら、鶴光に上方ネタをつけてもらう東京の噺家も多いという。東京での地道な活動が徐々に認められつつあり、NHKの演芸番組『日本の話芸』にもしばしば出演する。

ラジオパーソナリティ
松鶴に入門するや否や「まずは顔と名前を売らなアカン!」と考えた鶴光は「兄弟子の仁鶴、同期の三枝(現:文枝)」をライバルとして、修業時代から関西ローカルのテレビ番組やラジオ番組に出演した。折りしも時代は演芸ブームであり、長髪という落語家らしからぬ風貌と機転の利いた喋りはすぐに注目され、ラジオのレギュラーだけで13本を抱える売れっ子になった。

1971年4月より関西の人気深夜番組『MBSヤングタウン』のパーソナリティに抜擢。三枝とともに同番組の看板パーソナリティとなる。
そんな鶴光の活躍ぶりをラジオ大阪の関係者から聞きつけたニッポン放送の亀渕昭信(後に同社社長)が、全国ツアーで『オールナイトニッポン』を3か月間休むことになっていたあのねのねのピンチヒッター要員として、鶴光にオーディションを受けさせた。

亀渕は、最初のオーディションに間違って桂朝丸(現:桂ざこば)を呼んでしまったという逸話があるが、見事オーディションに合格した鶴光は、1974年に『オールナイトニッポン』水曜日パーソナリティを3か月間担当することとなる。鶴光は「どうせ3か月しかないのなら」と、当時の全国ネットのラジオでほとんど聞くことのなかったコテコテの関西弁で下ネタを連発。一気にブレイクし、全国区への足がかりとなった。

あのねのねがレギュラーに復帰すると土曜日に担当が変わり、最終的には11年9か月という当時の歴代最長パーソナリティ記録を樹立した(現在の最長パーソナリティはナインティナイン)。鶴光の成功により、以降明石家さんまをはじめ多くの関西芸人が東京のラジオで活躍することになる。

『笑福亭鶴光のオールナイトニッポン』は「この歌はこんな風に聞こえる」「ミッドナイトストーリー」「驚き桃の木ピンク話」などエッチ系のコーナーが満載で、まだAVが存在しない時代でもあったので、若い男性にとってはこの番組は福音でもあった。
タモリとともに「なんちゃっておじさん」ブームも巻き起こした。

長期間に渡り番組を担当したため、番組内でのエピソードも多い。
生放送中に地震が発生し怖じ気づいた鶴光は、真夏の放送にも拘わらず「ストーブの火を消してください」とマニュアル通りにアナウンスした。リスナーから「こんなクソ暑い季節にストーブをつけてる家庭がどこにあるか!!アホ!!」と抗議されたという。

放送直前にとある愉快犯より「爆弾を仕掛けた」と通告されたことを受け、厳戒態勢の中放送を行なった。気丈に生放送を務めた鶴光だったが、極度に緊張していたため、放送終了後にはトイレに駆け込み嘔吐したという。

ニッポン放送のポッドキャスト番組で地震関連の放送をした時に注意喚起のアナウンスの後で「あー怖わ!!」とコメントした。
長丁場の番組中空腹を催し、屋台のおでんを食べに行こうということで、ミキサー1人を残してスタジオを離れた。
その際、場つなぎとして「河内音頭」のレコードをフルコーラス(およそ30分)放送した。この放送を偶然ゴルフに行くために起きていた亀渕(当時:編成部長)が聴いており、後に説教されたという。
亀渕から「俺の分はないのか?」と聞かれた鶴光が「ない」と答えると、亀渕はさらに怒ったという。

当時の女性アイドルもアシスタントとして出演しており(深夜4時台にアシスタント単独のコーナーもあった)、芦川よしみ、日高のり子、榊みちこ、川島なお美、松本明子、坂上とし恵らも、アイドルとして売れなかった時代に『鶴光のオールナイトニッポン』でアシスタントを務めた。

1985年の『オールナイトニッポン』降板後は、東京と大阪を行き来しながら『鶴光の代打逆転サヨナラ満塁ホームラン』『かけこみワイド・鶴光のまかせなさい』を担当したが、1987年3月にABCラジオ『ポップ対歌謡曲』を除くすべての在阪レギュラー番組を降板。東京に単身赴任して『鶴光の噂のゴールデンアワー』のパーソナリティを16年間務めた。
「乳頭(ニュートゥー)の色は?」「ダンナのアソコに小鳥は何羽止まりますか?」などの変わらぬトークぶりを展開し、主婦のアイドルとして不動の地位を築いた。

その後は冬期限定レギュラーパーソナリティとして数々の番組などを担当したが、2009年3月をもってニッポン放送でのレギュラー番組は消滅した。
なお、鶴光の中では落語とラジオは「別物」として厳密に分類しており、「ラジオのファンが高座に足を運んでくれるということは期待していない」「本業は落語、ラジオは愛人」などと発言している。

コミックソング
鶴光は多数のレコードをリリースしたが、ヒットしたのは約20万枚を売り上げた『うぐいすだにミュージックホール』(作詞・作曲:山本正之)のみである。しかし、この曲のヒットが原因で、師匠の松鶴が「鶴光のやつ、落語の勉強せずにストリップの歌など歌いおって!許せん」と激怒し、鶴光は3か月間の破門を言い渡されている。

映画

映画にも数多く出演している。代表作はレギュラー出演した『トラック野郎シリーズ』で、ビニ本屋の店長役などで持ち味のエロを存分に発揮した。五月みどり主演の『奥様はお固いのがお好き』などのポルノ映画にも出演。また、Vシネマ『ミナミの帝王シリーズ』の3作品にも友情出演している。

テレビCM
2005年、リクルートの「フロム・エー(FROM A)関東版/関西版」のテレビCMに出演する。様々なシチュエーションで「ええか~、ええか~」と語りかけるCMが人気を博した。
「ええか~、ええか~」は『鶴光のオールナイトニッポン時代』からのギャグフレーズであるが、当時の流行を知らない若者の間でもこのフレーズが再度ブレイクし、このフレーズの着メロのダウンロードは急激に増加した。

落語
売れ始めた頃にはテレビなどで新作落語や小噺などを披露し放送時間を繋いでいたが、円熟味を増してからは師匠譲りの豪快な話芸で『三十石夢の通い路』『相撲場風景』『三人旅』『阿弥陀池』『ぜんざい公社』『竹の水仙』などを得意にしている。

また、『木津の勘助』『荒茶』『鼓ヶ滝』『竹の水仙』などの講談種や『掛川の宿』などの浪曲種、『袈裟御前』『紀州』といった地噺なども得意としており、落語家・鶴光の顕著な特徴として認められる。

高座はもっぱら都内の定席や国立演芸場、首都圏の市民ホールなどが中心であるが、学校寄席にも精力的に取り組んでいる。地元大阪で新たに始まった天満天神繁昌亭の定席では、大トリも務めることもある。また、横浜にぎわい座で年2回「鶴光一門会」を開いている。

松竹芸能が新宿にオープンした寄席「新宿角座」では月に1度「角座深夜寄席〜特選真打ちの会〜」をプロデュースし、鶴光一門と落語芸術協会所属の落語家が出演している。

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