https://youtu.be/CHcAjhodNFk
ミスワカサ・島 ひろし(みすわかさ・しま ひろし)は、昭和時代の戦中から戦後期にかけて活躍した男女漫才コンビである。夫婦ではなく、師匠・ワカサと年上の弟子・ひろしのコンビだった。
それぞれの前歴を生かした、歌やアクションを大きく取り入れた華やかなしゃべくり漫才で人気を博したが、ワカサの死去により活動を終了した。
ミスワカサ(1921年5月5日 – 1974年9月30日)
本名:今岡 鈴代。京都府京都市出身。父親がレコード店や、自邸の蔵を改装したダンス教室を経営していたことから、幼少から歌や演芸に興味を持つ。幼少時から記憶力にすぐれ、自宅にあった落語や流行歌のレコードは数度聴けば覚えられたという。小学校の頃、雨で体育が中止になった際には教室で初代桂春団治の落語を披露し、クラスメイトを爆笑させていたという。
天性の音感と美貌を活かし、一時満州でダンサーとなったほか、「岡輝子」の名で歌手としても活動した。
1942年、名を「岡テル子」と改め新芸演劇部所属の漫才師に転向。1944年、「ミスワカサ」に改名。
生来心臓に持病があり、1974年4月頃から体調を急激に悪化させ、京都の病院で妹の看病を受け静養。京都の自宅を売り払って静岡の病院に転居し治療に専念するも、同年9月に亡くなった。
島 ひろし(しま ひろし、1912年10月28日 – 1989年4月30日)
本名:三浦 定四郎。福島県会津出身。俳優を志し、浅草の中野弘子劇団や節劇の一座に入る。その後、「歌う剣戟」の島陽之助一座に入り、「原章三郎」を名乗った。陽之助一座では端役ばかりで芽が出ず、大阪へ渡り、吉本興業と契約。小さな劇団に入ったりボーイズ芸の舞台に立ったりした。このとき岡テル子(のちのミスワカサ)がひろしの芸に惚れ込んだことで、漫才への転向を決意。9歳下のワカサの弟子として修業を始めた。
ワカサの死去後は、1975年1月より島キクコ(元ジョウサンズ)とコンビを組み神戸松竹座で再出発、1978年3月からはミスウララ(春風ウララ、のちの高美うらら)、同年10月からは木村栄子と組み、角座の舞台などで漫才を続けた。晩年は関西演芸協会会長を務めた。
コンビ略歴
1943年に「岡テル子・島ひろし」として結成。戦後の1951年、宝塚新芸座の座員となり、朝日放送ラジオ『漫才学校』で人気を得た。また、『上方演芸会』などのラジオの演芸番組に多数出演した。
1974年1月中席の角座がコンビとしての最後の舞台となった。絶大な人気を得たにもかかわらず、主要な漫才賞を獲得することができなかった。両者没後の2007年、第12回上方演芸の殿堂入り。
芸風・エピソード
ワカサの師匠であるワカナ・一郎譲りの「女性上位漫才」で知られた。早口でまくしたてるワカサに対し、ひろしはいつもやり込められる役回りであった。私生活のワカサは物静かな人物であったという。
ワカサは歌、ひろしは殺陣と、前歴を生かした芸をネタ中に見せた。特にひろしによる阪東妻三郎などの剣戟映画の名優の物真似などを取り入れたネタは「剣戟漫才」と称された。
ワカサは若い頃から極度の近視で、舞台以外ではメガネを常用していた。やがて舞台上ではコンタクトレンズを使うようになった。漫才師で最初にコンタクトレンズを使用した人物とされる。
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