★桂春團治(初代)野崎詣り

桂春團治(初代)

初代桂 春団治(かつら はるだんじ、1878年8月4日 – 1934年10月6日)は、天才的な巧みな話術で、戦前の上方落語界のスーパースター的存在であった。従来の古典落語にナンセンスなギャグを取り入れた大胆な改作で爆笑王として人気を集め、当時の先端技術でもあったレコードに落語を吹き込んだ。
本名は皮田 藤吉。最後の妻・岩井志うとの結婚では春団治が婿入りという形をとったため、以後、本名は岩井 藤吉と変わった。

来歴

父・友七、母・ヒサのもと、大阪市中央区高津町二番地、現在の高津宮附近に生まれる。
父はは染皮細工を生業とし、主に煙草入れなどを製造していた。

祖先は皮多と呼ばれる大阪の被差別部落民で、皮田という苗字も代々の生業を表すものである。
ただし、春団治自身は自らが皮多出身であることを特に恥じることなく、座談会でも堂々と「宅の親爺が革屋でな、その下弟子の仕事場で逢うたんです」「革屋の藤やんで丁稚扱いだす」等と発言していたという。
ちなみに、4歳年上の実兄・元吉も2代目桂玉団治を名乗る落語家。

1895年、初代桂文我に入門、三友派の桂我都(がとう)を名乗る。
1903年10月、春団治に改名し、7代目桂文治(当時は2代目桂文團治)門下に移る。
大正初年、一時三友派から他派へ走ったとき「喜楽家独身」と名乗ったことがある。
法善寺筋の紅梅亭などの寄席で人気が爆発。
1914年に真打昇進。
1917年、先妻・東松トミと離婚し、医療品問屋・岩井松商店の後家、岩井志う(じゅう)の入り婿となる(「後家殺し」の異名の由来)。
1918年、浪花派を結成するも、新勢力・吉本興業の人気で失敗。
1921年、自身が吉本興業に移籍。
晩年は病気がちで入退院を繰り返す、弟子の初代小春団治に「春団治」名を譲る計画をしていたが断念。
最晩年は自身が桂大掾、小春団治が桂小掾を名乗る計画も立てていたが実現せずに1934年、胃癌により逝去した。
死後、天王寺にある一心寺に骨仏として葬られたが、大阪大空襲で他の骨仏とともに焼失。
終戦後にそれらの骨仏から作られた第七期骨仏に、彼の遺骨が含まれている。

●人物

破天荒な生き方でも著名で、関西の俗に言う破滅型天才芸人のいまだ代表にして定型といえる存在である。
借金・女遊び・酒乱が高じた振る舞いは、常に話題となった。
その生き様は、演劇・歌謡曲など、様々な形で語り継がれている(ただし脚色も多い)。

大阪弁で言う「やたけた」「ごりがん」「すかたん」といった性格を全て併せ持つ、その憎めない振る舞いは、当時も現在も、人々からはむしろ共感・同情の目で見られ、大阪の人情味に触れる際に欠かせない存在となっている。

破天荒な生き方や金遣いの荒さはある意味で上方芸能の伝説となり、横山やすし、藤山寛美、やしきたかじんなどの初代春団治をリアルタイムで知らぬ後世の関西の芸能人にまで多大な影響を与える事になる。
また、川藤幸三は、「球界の春団治」と言われていた。
川藤は酒好きではあったが、最低年俸で契約してもらったエピソードなど、金遣いが荒いわけではなかった。
得意ネタは『いかけ屋』『うなぎ屋』『へっつい盗人』『ちしゃ医者』『からし医者』『野崎詣り』『寄合酒』など。
その多くはSPレコードに残されている。
上方落語において、その生き方・落語が現在までも話題になっている人物は、初代春団治がはじめてである。

●エピソード

初代春団治には多くのエピソードがあるが、真偽不明、真相が異なるものも数多い。
春団治本人が吹いた駄ボラ、取り巻きの人々(花月亭九里丸『すかたん名物男』など)が半ば意図的に作り出した話、芝居・歌謡の脚色が、いつしか事実として広められたものなど発信源は多数に渡るが、それらが全て伝説として語られるようになるほど、魅力的かつ破天荒な人物であった。
春団治は大工仕事が玄人はだしで、自宅の造作も自分でしていた。
春団治の前半生は不明な点が多いが、大工の徒弟であった可能性は否定できない。
若い頃、しばしば師匠をしくじっている。

自分より年下の噺家(桂小団治)が売れ出したのを妬み、ある夜、人力車で帰宅するところを襲撃、半死半生の目に合わせてみれば師匠の文治であったという。

春団治はそのまま京都に高飛びして数ヶ月逃げ回った。
「自宅から寄席まで特注の真っ赤な人力車で通った」とよく言われる。
借金漬けの自身と「赤い俥=火の車」を掛けたことにちなむとされているが、実はこれは伝説の類いで、先妻のトミや、当時の弟子、女中までもが否定している。

この赤い人力車の話は、3代目桂文三のエピソードが春団治に付会されたものらしい。
なお、天満天神繁昌亭が開場した際、この「真っ赤な人力車」を発注し、3代目春団治が実際に乗車した。

1918年、師匠・7代目桂文治の引退興行で、東京から駆けつけた弟弟子2代目桂米丸(後の2代目小文治)を可愛がっていた4代目橘家圓蔵と舞台上で衝突。

圓蔵が、引退する文治のことよりも、米丸を引き立てる言葉ばかりを述べたため、怒った春団治は、止めに入った米丸を蹴倒してから、いきなり舞台に上がり、圓蔵を罵ったのだという。
この件がきっかけになったのか、妻・志うの莫大な資産を用いて浪花派を立ち上げるが、春団治には経営の才能が全く無く、2年後には解散。

この時に背負った大借金が、後の吉本入りと、借金をかたにした吉本による束縛への伏線となる。
一方の米丸は、大阪に戻ることができなくなって生涯東京で活躍することになり、とうとう東京落語界の幹部(芸術協会副会長)にまで上り詰める

数多い録音の中でも、1925年には日東レコードの協力のもと、本物の煎餅でレコードを作ったことがある。
1926年1月に天理教大祭の人出の多さを当て込んで売り出されたが、値段の高さや、あいにくの雨で煎餅の多くが湿気ったことなどで殆ど売れず、春団治は大損した。

「レコード#その他」も参照1930年12月7日、所属の吉本興業に内緒でJOBKのラジオ番組に出演し、『祝い酒』(恐らく『黄金の大黒』または『寄合酒(ん廻し)』(SP盤「祝い酒」の内容は「ん廻し」)だろう)を口演した。
当時の吉本は、芸人が放送番組に出演すると寄席への観客数が減ると考え、これを厳禁していた。

春団治は敢えて禁を破って出演したのだが、案の定、吉本側は激怒、すぐさま社員が放送を中止させるため大阪城近くの馬場町のスタジオにかけつけたが、スタジオはもぬけのから。
春団治も先手を打って京都のスタジオから放送したのであった。
確信犯的行為として吉本側は春団治を謹慎処分にした。

しかし、皮肉にもこの放送の聴取者が寄席に殺到する事態となり、結果として今日に繋がる吉本の対マスコミ路線を築いた事となる。
このラジオ事件の後、吉本興業側の訴えにより、遂に財産差し押さえの仮執行が行われた。
この際、執行官から差し押さえの紙を奪い、「もしもし、この口押えはらしまへんのか。
これあったら何ぼでもしゃべりまっせ。」と自分の口へ貼り付け、「後はこの私を持っていかはったら?」とアピール。

この一件は写真付きで新聞にも大きく取り扱われた。
生涯文字が読めず、預金通帳もわからなかった。
若き日の4代目三遊亭圓馬がまだ大阪でとん馬と名乗っていたころ、春団治に「とんちゃん、わいの通帳なんぼあるかみてくれへんか。」と言われ、見れば、現在では数千万単位の貯金で、持つ手が震えたと証言している。

だが、晩年の春団治は長年の浪費と莫大な負債とで生活が苦しく、ある日贔屓に呼ばれて貧相な服装で料理屋に来たときは、あまりの下駄の汚さに店の者が驚いたという。

トミは春団治が貧乏の極みにあったときも黙々と夫を支え、金銭感覚のない夫の代わりに内職で生計を立てていた。
後妻の志うは世間知らずな上に、完全に春団治に惚れ切っていたため、その莫大な資産を全て春団治に使い果たされても、文句も言わず、喜んで金銭を出してやっていた。

一方の春団治も、周囲の者に志うのことを「御寮人さん」と呼ばせ、常に顔を立てていた。
ともかくも、この二人の間に夫婦の愛情があったことは疑い得ない。
後年、志うは酒で身体を壊し晩年の春団治の看護ができなくなり、先妻トミと、トミと春団治の間にできた一人娘が看病していた。

志うは夫の死後、奈良県桜井市の親戚に引き取られ、翌年、その家の玄関脇の小部屋で寂しく世を去ったという。
享年67。
贔屓客に唆されて寒い冬の夜に道頓堀に飛び込んだり、ネズミにかじられたと言って羽織の紋にネズミの絵を描いたり、客席から高座にあがったりするなどの意表をついた行動で話題をさらった。

また、金貨を羽織の紐に金時計をちらつかせるなどの反面、地方の小屋では真っ裸で高座にあがったりなどもした。
実生活では、面倒見の良い好人物で、気に入れば誰でも弟子にとった。
食事も家族から使用人、弟子、ペットまで連れ出して、近くの食堂でにぎやかに食べるのを好んだ。

好物は半助と呼ばれる鰻の頭部であった。
通天閣・初代中村鴈治郎とならび、「大阪三大名物」と謳われた。
遺された写真は何故かとぼけた、面白い表情の物が多く、滑稽なポーズで決められている。
みうらじゅんが言う「関西仕事」のポーズの嚆矢とも言える。

晩年は胃癌に苦しみながら「これでわいも依願(胃癌)免官やなあ。」とか、忠臣蔵の勘平の科白をもじって「かく(膈、胃癌のこと)なり果つるは利の当然。」などと、苦しい駄洒落を飛ばして寂しそうに笑っていたという。

●芸風

常に笑いをとることに終始し、彼が高座に上がると客席は爆笑の渦に巻き込まれた。
中には笑いすぎて生理現象をもよおし便所に駆け込む者もいた。

先輩の2代目曽呂利新左衛門は「春の奴が出たら客はいっこも浮きよらんのやが、あいつが高座降りると客みな浮きよるんでどんならん。」(浮く=途中で席を立って帰ること)とこぼしていた。

大阪だけでなく、東京の落語家にも春団治の落語は高い評価を受けた。
昭和初期、東京の爆笑王・柳家金語楼が大阪の寄席に出演したが、春団治の巧さには降参した。
戦後、「あれゃ立派な名人です。名人でなきゃあんな馬鹿々々しいこといって、とても場がもてるもんじゃありません。」と証言している。

また9代目桂文治は、大阪の修業時代に初代春団治に傾倒し、当時の師匠・2代目桂三木助を散々困らせたと証言している。
また、寄席随筆で知られる正岡容も春団治を絶賛し、その自由奔放な笑いの追求の影に、厳しい芸の鍛錬があったことを強調している。

事実、新しいことから眼を離さず、寄席の下足番に変装して客から最新の情報や何を求めているかを絶えず研究するなどして落語の新演出を行っていた。

残されたレコードからも、古典落語の中に、関東大震災に因んだギャグや、路面電車や開通間もない大阪電気軌道(現近鉄奈良線)、活動写真(映画)、ビールに洋食、自転車、マント、シャッポ(帽子)、道頓堀行進曲、飛行機、扇風機、など当時の話題や最新の風俗となったものが次々飛び出し、春団治の旺盛な研究心が見られる。

だが春団治自身、芸のあり方や人気にかなりの重圧を感じていて、寄席に出る前に酒屋で飲みながら「飲まな、こんなことやってられん。
」とこぼしていたという。

1930年11月、吉本興業主催「落語講談長演会」での高座を新聞で酷評された春団治は、その8日目に、先日の記事を書いた記者(恐らく渡辺均)が客席にいるのを確認すると、得意の『阿弥陀池』を取り止め、持ちネタでは唯一の人情噺『子は鎹』(『子別れ』の後半部)をたっぷりと演じてみせ、観客を感動させた。

後日、新聞記事には「名人春団治を聴く」と書かれてあった。
『子は鎹』は、師匠の文我が「お前も泣ける噺を一つくらい持ってたらええやろ。
何かの役にたつさかい」と教えてくれたネタであった。

春団治の芸の巧さ、底の深さを今に伝える有名な挿話である。
春団治が手本としたのは、2代目桂米喬であったと、その実子である桂小米喬や、2代目林家染丸が証言している。

米喬は春団治の兄弟子で、春団治がその名跡を継ぐという話もあったという。
残された音源からもわかるように、大阪独自のあくの強いだみ声でギャグが機関銃のように繰り出される。

当時のレコード盤の録音時間が片面3分という制約もあり早口で演じねばならず、かえってスピード感を増したものになっており、現在でも通用する笑いとなっている。

例えば、「ちしゃ医者」では医者がシルクハットをかぶって駕籠に乗ろうとして入れず大騒ぎになったり、「近日息子」では洋食屋の店員がホースの水を撒き散らして店内を混乱させたり、「うなぎ屋」ではうなぎ屋のオッサンをウナギをつかんだまま電車にのせてしまうナンセンスな演出の使用や、また独自のオノマトペ(「ジャジャアアジャアジャア…ポトン、チョビン…」=小便、「カラカッチカッチ」=拍子木、「ベリバリボリベリ」=板塀の破壊音)の多用などで笑いの効果を増幅している。

このようなやり方は観客に大いにうけたが、古くからの落語愛好家には「邪道」として非難された。
このように春団治が「邪道」として非難されたのは、春団治の人気に追随しようとする多数の落語家までもがその模倣を始めたからであった。

春団治以前の爆笑王であった2代目桂米喬や初代桂枝雀の場合も、同じく観客の絶大な人気を得たが、彼らが「邪道」として非難されることは決してなかった。
それは、彼らの爆笑芸があくまで一代限りのものであり、特別なものであると自他共に任じていたからである。

しかし、春団治の時代には観客はより強い刺激や笑いを求めており、漫才が急激に勃興し、かつての落語中心の寄席は既に消滅しようとしていた。

舞踊や音曲などの諸芸で客の気を引こうとする傾向は以前からあったものの、春団治の発明した多数のクスグリは、苦しい立場に追いやられつつあった他の落語家にとっても救いの一手となり、ここに多数の模倣者を生み出すことになる。

●語録

名を上げるためには、法律に触れない限り、何でもやれ。
芸者と駆け落ちなど、名を売るためには何べんやっても良い
借金はせなあかん
芸人は衣装を大切にせよ
自分の金で酒呑むようでは芸人の恥
使用人は時間に寝かさなあかん。
弟子に時間は無し
女は泣かしなや

●野崎詣り あらすじ

野崎詣り(のざきまいり)は上方落語の演目の一つ。
原話は、享保5年(1720年)に出版された笑話本・『軽口福ゑくぼ』の一遍である「喧嘩はどうじゃ」。
桂春團治代々のお家芸である。

五月一日から八日までの野崎詣り(野崎観音のある慈眼寺へ参詣する行事)は、大勢の参詣客で賑わう。
よく晴れた晩春の日、おなじみの喜六と清八も参詣に行く。
途中で船に乗ることになったが、喜六はカナヅチであるため船が苦手。

その恐怖感も相まって、船頭に「(船を出すために)きばってくれ」と頼まれ、あべこべに船をもやるための杭に掴まり、船が動かぬよう気張ってしまうなど大失敗をやらかしてしまった。

ようよう船が出発。今度は喜六が「忘れ物した。」と言い出す。
「ドンなやっちゃなあ。この前も我孫子の観音さん行った時、笠忘れたンやないかい。今なら船でたとこや。間に合うがな。一体、何忘れたン。」
「ションベンや。」
「アホか!ここいら船のハタでやったらええがな。」
「せやけど、わい、船ンハタ立ったら怖ウてしゃあないねん。」
「ホンマにどやしたろか。」・・・
止む無く乗り合いの客の弁当の包みにしている竹の皮を借りて済ますなど、どうも先行き不安である。
それでも一段落ついたところで、このお詣では、船に乗った者と堤を行く者の喧嘩が名物となっているからやってみようということになる。何せ、喧嘩に勝てばその年の運がいい。

喜六は、「ええか。運定めの喧嘩や。終わったら、仲直りしてどっかで酒飲むねん。」と清八に教えられ、喧嘩が始まる。
「おーい。向こう行く奴~。」
「あほか。向こう行く奴て。みな向こういくがな。誰なら誰ていわんかい。」
「あ。そうか。おーい。誰なら誰~。」
「何言うてんねん。みなこっち見て笑ろてるがな。あこに女に傘さしかけて歩いているのおるやろが・・・」
と、喜六は清八に喧嘩相手と喧嘩の言い方まで細かく教えてもらうことになる。

「おーい、そこの女に傘をさしかけている奴~!」
「へえへえ。後先に見えまへんけど。わたいですかー?」
「へえへえ。あんたでやっせ~。」
「どアホ、喧嘩にそないな丁寧な言い方いうてどうするねん。『おのれじゃ~。』というたらんかい。」

「あ、そうか。おのれじゃ~い。」「それがどないぞしましたんか~い。」
「へえ。それがその・・・あのね。まあ早い話が。」
「どアホ。喧嘩に早いも遅いもあるかい。」
と喜六側が頼りない。

「そいつはオノレのかみさんではあるまい。どこかの手習いの師匠をたらしこんで、お詣ついでに住道あたりで酒塩で胴がら痛めるちゅう魂胆やろが、おけおけ。稲荷さんの太鼓でドヨドン(雑用損=無駄金)じゃ。」
…と言いたいのだが、喜六はシドロモドロ。相手から「これはうちの女房でおます。」と逆にやりこめられ、「へえ。そらお楽しみ。」とこっちが兜を脱いでしまった。

このままでは負けてしまうと思った清八は、喜六を黙らして岸辺の男に声をかける。
「おーい、変なところでノロケを言うな! 何か踏んでるぞ!?」
「何処にー!?」

相手を俯かせた―という事でこちらが勝ち。これでコツをつかんだ…ように思った喜六は、今度は大男が歩いているのに声をかける。
「おーい、そこのドでかい奴! お前も何か踏んでるぞ!?」
「踏んだのは馬のくそじゃ! こいつを踏むと背が大きくなるぞー」

体つきに違わず大きな声。おまけにやけに威勢がいい。
「あかんやっちゃなぁ。こう言うてやれ!『大男、総身に知恵が回りかね。
入日の影法師、半鐘盗人、大きなものにロクな物などあれへんやろうが!』とな」
「わし、脈が早くなってきたわ…」

喜六はもうダウン寸前。それでも何とか喧嘩をふっかけてみるが、基がガタガタな上に疲れているため目茶苦茶になってしまった。
「おい、あの野郎がえらいこと言っとるぞ? 『片仮名の「ト」の時のチョボがへたった』ってな」
清八が長身で喜六がチビ。たしかに、二人が並ぶと「ト」の字に見えるような…。

「感心している暇はあれへんで? こう言うてやれ、『小さい小さいと軽蔑すな! 大きいのが何の役に立つかい、江戸は浅草の観音様、お身たけは一寸八分でも十八間のお堂に入ってござる。山椒は小粒でもヒリリと辛いわい!』とな」
「え。おい、わい、汗出てきた。」と喜六疲労困憊。

それでも、言われたとおりにやってみるが、
「お~い。お前・・・小さい小さいとな。センベツすな。」
「何、いうとんねん。軽蔑やがな。」
「あ、・・・そや。しっかりせえ。」
「お前がしっかりせえ。」
「江戸はなあ。コラ・・・江戸はドサクサの観音さん。」
「ドサクサやない。浅草じゃ。」「あ・・・そのクサ。」
「あほか。しっかり行け。」
「・・・し、しっかり行ってるがな。・・・お~い。聞いてくれ。お身たけは十八間でも一寸八分のお堂に入ってござる。」
「そら、さかさまじゃ。」
「・・・あ、さかさまじゃ。アホンダラ。」と散々の体たらく。

ようよう「山椒は…山椒はヒリリと辛いわい!!」にさしかかるが、
「…それを言うなら『山椒は小粒でもヒリリと辛い』じゃ、お前のは【小粒】が落ちとるぞ!?」
「何処にー!?」
大男に言われ、今度は喜六が俯いてしまった。
「おい、チビ! 何を下向いておるんじゃい!?」

「ヘイ、落ちた小粒を、探しております」

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