【感動実話】柿谷曜一郎 ライバル香川真司との知られざる真実

感動

柿谷曜一郎選手の感動エピソード!

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[出典:柿谷曜一郎オフィシャルブログ]

2008年12月、笑顔があふれるサッカー選手たちの中心には香川真司、しかしその後ろには、ガムを噛みながらふてくされている一人の男がいた。

まさに対照的なこの2人は、同期入団。

この時香川の後ろにいたのは、Jリーグセレッソ大阪の絶対的エース柿谷曜一郎(24歳)。

2013年の東アジアカップで、初めて代表に選ばれると、得点王に輝き衝撃のデビューを果たした。

柿谷の名は一躍知れ渡った。

2008年の、あのふてくされた姿とは全く違う。

柿谷曜一郎は、何故これほど大きく変わったのか?

ライバル香川の活躍の裏で味わった挫折。

さらに、「遅刻」「無気力」容赦なく押された「問題児の烙印」

そんな柿谷を、復活へと向かわせたのはこの言葉だった。

「香川真司はヨーロッパでお前は何やってんだ!」

4歳でサッカーを始めた柿谷は、地元セレッソ大阪の少年チームに入団すると、すぐにその才能を見せつけた。

子供とは思えないボールさばきを見せる柿谷に、大人たちは舌を巻いた。

元セレッソ大阪ユース総括責任者 中田仁司

「ずば抜けていた事は確かですね。見て上手い、上手いどころじゃなくて“こいつ天才かな”っていう感じは受けました」

サッカーの天才

コーチを驚かせたこんなエピソードがある。

2002年の日韓ワールドカップ、その中継を子供たちに見せていた。

だが、柿谷は何故かテレビを見ようとしない。理由を聞くと、こう答えた。

「いいんだよ、将来その大会に出るから」

幼い時からみなぎる絶対的な自信。

そんな柿谷がJリーグ入りを果たしたのが2006年、その時彼はまだ16歳。

クラブ史上最年少でのプロ契約だった。

同期には、当時17歳の香川真司がいた。柿谷より年は一つ上。

しかし、天才と呼ばれた柿谷は、香川を“格下の存在”ととらえていた。

入団会見で

「香川真司です。早くチームに慣れて、一日でも早く試合に出れるようにがんばるので応援よろしくお願いします」と、新人らしい謙虚な言葉。

一方、柿谷は、

「僕がボールを持った時は、ぜひ期待しといて下さい。よろしくお願いします」

と、“活躍して当然”自信に満ち溢れていた。

だが、この後2人の運命は、彼ら自身ですら予想もできない意外な展開を見せる。

セレッソに入団したその年2006年11月に、天才柿谷は早くもJリーグデビューを果たす。
同期香川がベンチを温める前で、柿谷は“ある目標”に向かって、着実に階段を上っていた。

柿谷の夢……それは、セレッソで背番号「8」をつけること。

セレッソの誰もが憧れる栄光の8番。18年間、チームの中心選手として活躍、2002年日韓ワールドカップでも、見事ゴールを決めた、セレッソのエース森島寛晃の背番号だ。

“森島の跡を継ぐのは自分しかいない”そう信じて疑わなかった。

ところが、柿谷の半年後の2007年4月に、Jリーグデビューを果たした香川が、いち早くチームに溶け込み、いきなり7得点を挙げる大活躍を見せた。

かたや柿谷は、その自信とは裏腹に、デビューから3年たっても、わずか2得点しか決められなかった。

このつまずきの理由は、“天才”そう呼ばれ続けたことでの慢心にあった。

ひとたびボールを持つと、相手のマークが厳しかろうとお構いなし、チームプレーではなく個人プレーに走る。

その結果、天才は疎まれる存在になっていた。

柿谷「チームが勝とうが負けようが、自分が楽しくプレーできればいいやっていう、そういう気持ちがすごいあったし、プロサッカー選手としての必死感とか」

石橋「この当時はちょっと足りなかった?」

柿谷「足りないというか、ほぼ……」

石橋「無かった?」

柿谷「うん……と僕は思います」

一方香川は、同じ3年間で23得点を挙げ、19歳で早くも日本代表に招集された。

「こんなはずじゃなかった……」

柿谷と香川、2人の逆転を決定づけたのは、2008年10月に柿谷が憧れるセレッソのエース森島の引退だった。

栄光の背番号「8」は、誰が受け継ぐのか?

引退試合で指名されたのは、『香川真司』

森島「今後、やっぱりセレッソを引っ張っていってくれる選手は、自分自身“香川真司”だと思ってます」

欲しかった背番号「8」は、香川に奪われた。

「実績が違う」「しかたがない」頭ではわかっていた。

しかし柿谷は、その現実と向き合うことが、どうしてもできなかった。

柿谷「見てられなかったですね」

石橋「見てられなかった?」

柿谷「はい。ある程度わかってましたし。真司君は、試合の最中に下に8番のユニフォームを着て試合をしてたので」

石橋「下に?着て?」

柿谷「はい。サポーターに出したりって事をしてたんですね」

石橋「つまり“俺が後継者”だと?」

柿谷「その時点でわかりますよね。大体どうなるかっていうのが。だからその試合とかは見れなかったですね」

背番号「8」を受け継いだ香川は、森島の期待にたがわずゴールを量産。

2009年には、27得点を挙げ、Jリーグ得点王に輝く大活躍を見せた。

一方柿谷は、ベンチから外れることも増えていった。

このとき、柿谷の胸に渦巻いていたのは、同期の香川への複雑な想い。

事件は、そんな最中に起きた。

この頃から、練習に遅刻することが多くなった柿谷。

練習が終われば、仲間たちが体をケアしているのを横目に、そそくさと帰る始末。

「自分は、セレッソに居てはいけないと思ったし、誰からも信頼されてなかったし、結果を残せてないのも当然ですけど、とりあえず、恥ずかしいっていう……このチームに自分がいることが恥ずかしいっていうことがあったので」

仲間との溝は、ますます深まった。

“天才”と呼ばれ続けたプライドが、現実を認めなかった。

そして、度重なる身勝手な行動は、チーム内で問題視され、ついに当時の監督から、

「お前がやっていることは、チームとファンへの侮辱だ。責任感がないなら、もう来なくていい」

柿谷は、15年間育てられたセレッソに居られなくなってしまった。

期限付きで、当時J2で最下位に沈んでいた徳島に移籍。

“天才”柿谷曜一郎の挫折。

一方、香川真司は、ドイツの強豪チーム、ドルトムントへの移籍が決定。

出会ってわずか4年、2人の逆転した立場は、もはや再び交わることなど考えられないほど広がっていた。

だが、移籍先の徳島に、柿谷の運命を変える男が待っていた。

当時の徳島ヴォルティス監督 美濃部直彦

「一番最初に来てすぐに話した時には、『いろいろ聞いているようなことがね、ここでやるようだったら、うちはいらない、とっとと帰ってくれ』という話はその時もうしました」

『どんな選手だろうが、特別扱いはしない。』『チームプレー至上主義』それが美濃部の哲学。

刃物のような言葉は、膨れ上がった柿谷のプライドを容赦なく切り裂いた。

監督「サッカーは一人で出来るかアホ!」「サッカーっていうのはな、チームプレーだ!」

柿谷「『あんなプレーしとったら試合使わへんぞ!』というようなことを平気で言われました」

石橋「何クソと思って?」

柿谷「『お前の考えはわかるけど、それはチームの考えではない!!』っていう風に言われたり」

「何でわかってくれへんねんって思うときはよくありましたし」

さらに、柿谷が試合中、自分のプレーがうまくいかず、周囲に不満をこぼすと、美濃部はあの男の名前を柿谷につきつけた。

監督「香川真司はヨーロッパでお前は徳島か?徳島の田舎でお前何やってんだー?おらー、立てよ!」

美濃部「あいつが嫌がることを平気で言うっていうかね。一番わかりやすいのは香川真司を出すことやと思ったし。真司は上がって行ったけど、曜一郎は下がっていった。その差はなぜ起きたのかっていうことを、本人がまず感じないとダメ」「それはプレーじゃないよねって。人間的な部分やでっていう話をけっこうしました」

周囲が気遣い、避けてきた香川真司との比較。美濃部は、そんなつらい言葉で、『現実を受け入れ、向き合う事でしか人生は変えられない』と柿谷に伝えようとしていた。

柿谷「やっぱり、逃げてたんですよね。現実からずっと。だから、サッカーやってても、心底楽しいと思ってやってなかったと思うし。何かキッカケが必要やって思ったし」

石橋「今までは、自分よがりなサッカーをしていたのが、ここで、フォア・ザ・チームっていうことに?」

柿谷「そうですね。いろんな面でチームに信頼されて、そのチームでプレーすることが、多分、人としても成長出来るんじゃないかなって思えたんで……」

“全てはチームのために”

本気でそう思えたときから、柿谷は輝きはじめた。

柿谷の才能が、チームに欠かせないピースとして機能し始めた。

柿谷が移籍して3年目、弱小チームだった徳島は変わった。

なんと、J1昇格をもうかがえる上位のチームへと躍進を遂げたのだ。(2011年J2 20チーム中4位)
そして、2012年、4年間の移籍期間を終えた柿谷は、セレッソ大阪に復帰。

そこには、かつてのひとりよがりな天才の姿はない。

ゴールだけではなく、以前は見られなかった献身的な守備で、ボールを奪おうとする柿谷。

それはまさに、“天才が覚醒した”瞬間だった。

この年、17得点を挙げ、優秀選手賞に選ばれた。

そして、プロ8年目の2013年、長年の夢がついに実現した。

背番号「8」。かつて、悔しさの中であきらめたその栄光が、柿谷に託されたのだ。

そして、2013年はセレッソ大阪歴代1位となる21得点を挙げ、ついに、日本代表として招集された。

「ホンマに、サッカーしかやってこなかったので……」

「『サッカーを楽しみながら生きていくんや。』って思えたのは、徳島で試合に出て、監督に面と向かって会話しながら、素晴らしいチームメイトに恵まれたって本当に思いますし……」

「サッカー選手としてスタートした年かなと思ってます」

2014年3月、徳島への感謝の思いを地元の新聞に掲載した柿谷。

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[出典:スポニチ]

それは、J1に昇格した徳島と、セレッソ大阪が初対戦する日のことだった。

柿谷にとってこの試合は、自分を変えてくれたチームとサポーターへの恩返しだった。

[出典:2014年4月6日TBS「今夜解禁!石橋貴明のスポーツ伝説…光と影」より]

(了)

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