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日本史上最も有名な怖い女性ランキング! The 歴史人物ミステリー#5847-0629

雑学・豆知識

更新履歴
2016年04月05日(火):初投稿
2026年06月29日(月):史実関係を一次史料・専門メディアで再確認し、人物名・因果関係の誤りを修正。テレビ番組の煽り表現と主観的コメントを整理

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日本史で「怖い」と語られる女性たち 北条政子・紫式部・卑弥呼から細川ガラシャ夫妻まで

歴史を動かしたのは男性ばかり、というイメージは正確ではありません。表舞台に立つ武将や将軍の傍らで、嫉妬・復讐・統治をめぐる強烈なエピソードを残した女性が数多く記録されています。ここでは雑誌や歴史番組でしばしば取り上げられる「好きな歴史上の女性」「怖い女性」の代表例を、史料に当たりながら整理します。

雑誌「歴史街道」の読者アンケートで人気を集めた歴史上の女性

第3位 北条政子(源頼朝の妻)

北条政子

源頼朝の死後、承久3年(1221年)の承久の乱で朝廷軍が鎌倉に迫ったとき、動揺する御家人たちの前で結束を訴えたのが北条政子です。頼朝から受けた恩は山より高く海より深い、いまこそ報いるときだ、という趣旨の演説が武士たちの団結を促し、幕府は朝廷軍を退けました。この場面は政子が「尼将軍」と呼ばれる所以の一つとされています。

北条政子の演説

第2位 紫式部(源氏物語の作者)

紫式部

『源氏物語』の作者・紫式部は、自身の『紫式部日記』に、同時代を生きた『枕草子』の作者・清少納言への辛辣な人物評を書き残しています。冒頭は「清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人」。得意顔で鼻につく人物だ、という書き出しです。

紫式部日記

続けて、賢そうに漢字を書き散らしているが、よく見れば未熟な点が多い、人と違うところを見せたがる人の行く末は良くないだろう、と容赦なく評しています。当時、漢字(真名)は男性のものとされ、それを操る女性は出すぎた存在と見られがちでした。学者の家に育ち漢籍の素養を持つ紫式部だからこそ、清少納言の振る舞いに思うところがあったとみられます。ただし二人が宮中で同時期に仕えていた記録はなく、清少納言が退出したのち紫式部が出仕したと考えられているため、直接いがみ合っていたかどうかは定かではありません。

第1位 卑弥呼(邪馬台国の女王)

卑弥呼

3世紀、弥生時代後期の倭国は「倭国大乱」と呼ばれる争乱の時代でした。中国の歴史書『魏志倭人伝』によれば、長く続いた混乱を収めるため、約30の小国が一人の女性を女王に共立します。それが卑弥呼でした。卑弥呼は「鬼道」と呼ばれる呪術的な権威で人々をまとめ、弟が政務を補佐したと記されています。239年には魏に使者を送り、「親魏倭王」の称号と金印、銅鏡を授かりました。

邪馬台国

以下では、歴史番組などでしばしば「怖い女性」「重い愛」として語られる夫婦・親子のエピソードを、史料に照らして見ていきます。

歴史上の怖い女性

北条政子の「後妻打ち」 頼朝の浮気への報復

征夷大将軍として頂点に立った源頼朝も、家庭では妻・北条政子に頭が上がらなかったと伝わります。政子が二人目の子(後の2代将軍・源頼家)を懐妊していた寿永元年(1182年)、頼朝は亀の前という女性を寵愛します。これを継母の牧の方から知らされた政子は激怒しました。

【問題】北条政子が、頼朝の愛妾・亀の前に対してとった報復とは?

北条政子の報復

【答え】政子は牧の方の縁者・牧宗親に命じ、亀の前をかくまっていた伏見広綱の屋敷を破壊させました。

後妻打ち

これは当時「後妻打ち(うわなりうち)」と呼ばれ、前妻が従者を率いて後妻の家に押しかけ、家財を壊す半ば習俗化した制裁行為でした。屋敷を壊された亀の前は命からがら逃げ出します。愛妾への仕打ちを知った頼朝は激怒しますが、御台所である政子を罰するわけにもいきません。そこで頼朝は実行犯の牧宗親を呼び出して叱責し、その髻(もとどり)を切り落として恥辱を与えました。当時、髻を切られることは武士にとって最大級の屈辱でした。この頼朝の処置に今度は政子の父・北条時政が怒り、一族を率いて伊豆へ引き揚げる騒動にまで発展しています。

吾妻鏡

この一件は、鎌倉幕府の正式な歴史書吾妻鏡(あずまかがみ)に記録されています。政子を正室、亀の前を妾と明確に位置づけたうえで「後妻打ち」として描くことで、後の尼将軍・政子の正当性を示す意図があったとする見方もあります。

二代将軍・徳川秀忠が恐れた妻・江

徳川秀忠と江

江戸幕府二代将軍・徳川秀忠は、初代・家康の跡を継ぎ、260年以上続く幕府の支配体制を固めた人物です。その秀忠が頭を上げられなかったとされるのが、6歳年上の正室・江(ごう、崇源院)でした。江は秀忠と結婚した時点で再婚を重ねた子持ちでしたが、気の強さで知られ、恐妻家の逸話が多く残ります。秀忠が生涯ほとんど側室を持たなかったのは江への遠慮ゆえともいわれます。

その秀忠が、側室を持たないなかで側女に男児をもうけたことがありました。江の嫉妬を恐れた秀忠は、その子を密かに家臣のもとへ預け、生涯ほとんど対面しなかったと伝わります。秀忠と江の子・家光が三代将軍を、その子・家綱が四代将軍を継ぎますが、隠された男児はどうなったのでしょうか。

保科正之

この男児こそ、後の名君・保科正之です。母は静(お静、後の浄光院)。正之は信濃高遠藩主・保科正光の養子となって育ち、後に会津藩主となりました。三代将軍・家光にとっては異母弟、四代将軍・家綱にとっては叔父にあたり、家光の死後は幼い家綱の後見役として幕政の中心を担いました。

明暦3年(1657年)、江戸の大半を焼いた「明暦の大火」で江戸城の天守も焼け落ちます。天守再建の声が上がるなか、正之は「天守はもはや遠くを見るだけのもので守りには不要。今は復興を優先すべきだ」と主張し、再建費を町の復興に回しました。以後、江戸城に天守が建つことはありませんでした。

明暦の大火と江戸城

正之は被災者への救助金支給や、防火のための広小路・両国橋の整備など、江戸を災害に強い都市へ作り変える施策を主導しました。後の江戸の発展は、この復興方針が土台になったといわれます。

江戸城天守台

秀吉の妻・おねの「復讐」 信長への告げ口

続いては、豊臣秀吉の妻・おね(ねね、北政所)です。

豊臣秀吉とおね

秀吉がおねに宛てた手紙には、便秘がひどいなら下剤を使い、どのくらい出たか知らせてほしい、といった文面まで残っています。体調を気遣うほど妻を大切にしていた一方で、女好きで知られた秀吉は浮気を重ねました。

秀吉の手紙

度重なる浮気に怒ったおねがとった行動は、秀吉の主君である織田信長への告げ口でした。

織田信長の手紙

これに対して信長がおねへ宛てた返書が今も残っています。あなたほどの美人がよその女に嫉妬するものではない、どっしり構えていなさい、という趣旨で妻をなだめたうえで、この手紙をあの「はげねずみ(秀吉)」に見せてやりなさい、と添えていました。

信長の返書

主君直々の手紙を突きつけられた秀吉は、さぞ青ざめたことでしょう。部下の妻をおだてて場を収める信長の対応からは、当時としては女性に配慮するふるまいだったとも読み取れます。秀吉も、若い頃から苦労を共にしたおねを生涯大切にし続けたと伝わります。

愛妻家・細川忠興と細川ガラシャ 重すぎた愛のエピソード

細川忠興

織田信長・豊臣秀吉・徳川家康という三人の天下人に仕えた武将が細川忠興です。茶の湯に通じた文化人でもありました。

細川ガラシャ

その妻が、明智光秀の娘で、後にキリシタンとして知られる細川ガラシャ(洗礼前の名は玉)です。忠興はガラシャを深く愛しましたが、その愛情は常軌を逸した嫉妬としても語り継がれています。代表的なのが、ガラシャと言葉を交わした庭師を斬ったという逸話です。忠興がその場で庭師を手討ちにしても、ガラシャは少しも動じず食事を続けた、という伝承も残ります。

もっとも、この庭師(料理人とする異伝もある)殺害の話は細川家の家記などに由来する逸話で、後世の創作とする指摘もあります。事実そのものというより、忠興の激しい性格とガラシャの肝の据わり方を象徴するエピソードとして伝わってきたものと見るのが妥当です。ガラシャは関ヶ原の戦いの直前、石田三成方の人質になることを拒んで自害し、37歳でその生涯を閉じました。

江戸時代の「アイドル」笠森お仙

笠森お仙

江戸・谷中の笠森稲荷門前にあった水茶屋「鍵屋」の看板娘・笠森お仙は、明和年間(1764〜72年)に絶大な人気を集めました。お茶を出す仕事ぶりと美貌が評判を呼び、店は連日にぎわいます。浮世絵師・鈴木春信が描いた錦絵によって、その名は江戸中に広まりました。お仙見たさに笠森稲荷の参拝客が増えたとも伝わります。

鍵屋では錦絵だけでなく、絵草紙や手拭い、双六、人形といった「お仙グッズ」まで売り出されました。逢いに行ける存在で、関連商品も展開するという点で、現代のアイドル文化に通じる先駆けといえます。

鈴木春信の錦絵

人気絶頂の明和7年(1770年)、お仙は突然店から姿を消します。駆け落ちや殺害といった噂が飛び交いましたが、実際には旗本御庭番を務める倉地家の倉地政之助に嫁いでいました。倉地家は笠森稲荷一帯の地主でしたが、将軍家の隠密を担う家柄だったため結婚は極秘とされ、お仙は世間から忽然と消えたように見えたのです。「とんだ茶釜が薬缶に化けた」という言葉が流行ったのは、お仙を訪ねても店に老父しかいなかったことを揶揄したものでした。お仙はその後9人の子に恵まれ、77歳まで長寿を全うしたと伝わります。

(出典:2016年4月2日放送「世界一受けたい授業 男性VS女性スペシャル」、および『吾妻鏡』『魏志倭人伝』『紫式部日記』ほか各種史料・専門メディア)

文責:ライターズラボ編集部(2026年06月29日(月)06:32執筆)

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