★笑福亭松鶴(六代目)らくだ

笑福亭松鶴(六代目)


『らくだ』は、古典落語の演目。上方落語の演目の1つである。
人物の出入りが多い上に、酔っ払いの芝居が入るなど演者にとって難解な話で、よく「真打の大ネタ」と称される。
題名は、主人公のあだ名を表すが(上方では「らくだの卯之助」、東京では「らくだの馬」)、登場した時には既に死人であるという、他に例のない話である。

解説

本題は「駱駝の葬礼(そうれん)」。
上方落語の4代目桂文吾が完成させ、大正時代に3代目柳家小さんが東京へ移植した。
当時、小さんが本郷の若竹亭という寄席でよくかけていたため(3代目桂米朝は茅場町の宮松亭であっただろうと述べている)、「若竹(宮松)へ行けばらくだの尾まで聞け」という、川柳ができるほど流行した。

「ラクダ」というあだ名については、1821年(文政4年)、両国に見世物としてラクダがやってきたことに由来する。
砂漠でその本領を発揮するラクダだが、それを知らない江戸っ子達は、その大きな図体を見て「何の役に立つんだ?」と思ったらしい。
そこで、図体の大きな人や、のそのそした奴をラクダになぞらえて表現したことが下敷きになっている。

東京では5代目古今亭志ん生8代目三笑亭可楽6代目三遊亭圓生、上方では戦中、戦後は4代目桂文團治、4代目桂米團治、6代目笑福亭松鶴が得意としたが、その中でも、6代目笑福亭松鶴の「らくだ」は特に評価が高い。

3代目古今亭志ん朝は、若き日に、7代目立川談志とともに来阪した際に、松鶴の『らくだ』を見て、そのあまりの完成度の高さに、しばらく二人とも口がきけなかったと述懐している。

3代目桂米朝も「らくだ」を演じているが、松鶴存命中はあえて演じなかった。
松鶴自身『らくだ』を物にするにはかなりの苦労があった。

若い頃演じた時は、始め勢いがあったのが終わり近くの葬礼あたりで目に見えて力が落ち散々な出来となり、居合わせたお囃(はや)しの林家とみらは声も掛けられなかった。
そんな研鑽(けんさん)を経て、1969年(昭和44年)12月17日大阪大淀ABCホールでの「第38回上方落語をきく会」と1973年(昭和48年)6月12日、大阪難波高島屋ホールでの「第50回上方落語を聞く会」で演じた『らくだ』は松鶴にとって双璧(そうへき)といえる出来であった。

特に後者はライバルの桂米朝との二人会という事情もあり、力のこもったものであった。
近年では笑福亭鶴瓶の口演が話題であるが、これは松鶴の弟子なら「らくだ」は避けては通れな
いとの周囲の声に押されたものである。その他にも3代目桂雀三郎の口演が有名。

古いところでは、初代桂春團治の録音がSPレコードで残っている。
終盤に登場する火屋(火葬場)の所在地は、江戸では落合、上方では千日前となっている。
歌舞伎化(岡鬼太郎脚色『眠駱駝物語』)され、初代中村吉右衛門の久六は当たり役となった。
さらに榎本健一によって喜劇化(『らくだの馬さん』)されている。
榎本の久六と中村是好の馬の配役で人気を集めた。
また2009年には主演、大滝秀治、演出、山下悟で舞台化されている(劇団民藝)。
TVドラマ『大岡越前』において、「らくだが死んだ」(第8部17話)として脚色されている。

あらすじ

(以下は江戸落語での演出に従う。〔 〕で括った人名・地名は上方落語での名称である。)

とある長屋に住むのが本名を「馬〔卯之助〕」、あだ名を「ラクダ」という男。
そのラクダの長屋に、ある日兄貴分の「丁目の半次〔弥猛(ヤタケタ)の熊五郎〕」がやってきた。
返事がないので入ってみると、何とラクダが死んでいる。

そういえば、昨夜会ったときにフグを持っていたが、さてはそいつに中(あた)ったのか……。
「兄弟分の葬儀を出してやりたい」、そう思った半次だが金がない。
考え込んでいると、上手い具合に屑屋がやってきた。

早速、その屑屋の久六〔固有名はなく単に「紙屑屋」とされている〕を呼んで室内の物を引き取ってもらおうとするが、久六はラクダ宅の家財道具の状態を全て言い当てて断ってしまう。
なんでも、何回もガラクタばかりを引き取らされたらしい。
ますます困る半次。
と、その頭にあるアイディアが。

「月番を呼んでこい」久六を月番の所に行かせ、長屋から香典を集めてくるよう言いつけさせるのが半次の魂胆。
久六は断るが、仕事道具を取られ、しぶしぶ月番の所へ。
「らくだが死んだ」と聞き、喜ぶ月番。
香典の申し出には「一度も祝儀を出してもらったことはない」と断るが、結局「赤飯を炊く代わりに香典を出すよう言って集めてくる」と了承した。

安心した久六だが、ラクダ宅に戻ると今度は大家の所に通夜に出す酒と料理を届けさせるよう命令された。
ところが、ここの大家は有名なドケチ。
そのことを話すと、半次は「断ったらこう言えばいい」と秘策を授ける。

「死骸のやり場に困っております。ここへ背負ってきますから、どうか面倒を見てやってください。ついでに『かんかんのう』を踊らせてご覧にいれます」

仕方なく大家の所へ行った久六。らくだが死んだと聞き、大喜びする大家。
しかし、酒と料理の申し出は拒絶。
なんとこのらくだという男、店賃を何年も溜(た)めているどころか引っ越してきてから一度も店賃を納めていなかったのだ。

すかさず久六が「かんかんのう」の話をすると「やれるものならやってみろ!!」。
久六がそのことを伝えると、何と半次は久六にラクダの死骸を担がせ、本当に大家の所へ乗り込んでしまった。
そして、死骸を文楽人形のように動かし、久六に歌わせて「かんかんのう、きゅうれんすー」。
本当にやると思っていなかった大家、縮み上がってしまい、料理を出すよう約束した。
これで解放されたと思った久六。

だが、今度は八百屋の所へ「棺桶代わりに使うから、漬物樽を借りてこい」と命令された。
しぶしぶ行くとやはり八百屋は喜び、申し入れは断られた。
「かんかんのう」の話をすると先ほど同様「やってみろ」と言われるが、つい今しがた大家の所で実演してきたばかりだと言うと「何個でもいいから持っていけー!」。
これで葬式の準備が整った。

久六がラクダ宅に戻ると、大家の所から酒と料理が届いている。
半次に勧められ、しぶしぶ酒を飲んだ久六。
ところが、この久六という男、普段は大人しいが実はものすごい酒乱だったのだ。
呑んでいるうちに久六の性格が豹変(ひょうへん)、もう仕事に行ったらと言う半次に暴言を吐き始める。

これで立場は逆転、酒が無くなったと半次が言うと、「酒屋へ行ってもらってこい! 断ったらかんかんのうを踊らせてやると言え!!」何だか分からなくなった半次は言われたとおりに酒を買ってくる。
そうこうしているうちに、話はラクダの葬礼へ。
剃刀を借りてきて坊主にし、漬物樽に放り込んで荒縄で十文字。
天秤棒を差し込んで二人で担ぎ、久六の知人がいる落合〔千日前〕の火葬場に運び込んだ。
が、道中で樽の底が抜けてしまい、焼き場についたら中は空。

仕方なく死骸を探しに戻ると、橋のたもとで願人坊主(にわか坊主)がいびきをかいて眠っている。
酔った二人はそれを死骸と勘違いし、樽に押し込んで焼き場に連行するとそのまま火の中へ放り込んでしまった。
熱さで願人坊主が目を覚ます。

「ここは何処だ!?」
「焼き場だ、日本一の火屋(ひや)だ」
「うへー、冷酒(ひや)でもいいから、もう一杯頂戴……」

種類

全て演じると1時間近くなるため時間の都合か、終盤になるにつれ笑いが減り、サゲが良くないとされるためか、久六の性格が豹変した辺りで切る場合が多い。

中でも異色なのが5代目古今亭志ん生の口演で、半次の登場から大家のところで死骸に「かんかんのう」を踊らせる件までをすっ飛ばしてしまい、その間の出来事は八百屋で久六に語らせてしまうという大胆なアレンジが加えられた。

らくだの死骸の髪の毛を剃刀で剃る件では、手に絡みついた髪の毛を歯で食いちぎったり、残った毛をむしり取ってしまう、頭皮を切ってしまい血が出るなど凄惨(せいさん)な演出がある。
上方ではよく演じられているが、東京では8代目三笑亭可楽が演じているくらいである。

上方では、酔っ払った二人が死骸の入った桶を担いで「葬礼(ソウレン)や葬礼や。
らくだの葬礼やァ」と奇声を上げながら街中を練り歩き、来かかった店に因縁をふっかけて、金をせしめる件ののち、火屋に着くという形をとっている。

東京ではらくだの遺骸を桶に入れて練り歩く演出をさまざまに工夫しており、2代目蝶花楼馬楽は、
「あすこに見えるのは吉原だな。らくだも道楽が好きだったからなあ。・・・どうでえ。陽気に野辺送りと行こうじゃねえか。・・・いよ~。スチャラカチャンチャン。」と二人で色町の口三味線をしながら焼き場へ運ぶものであった。

※「かんかんのう」は、日本の俗謡。
江戸時代から明治時代にかけて民衆によって広く唱われていた。
別名「看々踊(かんかんおどり)」。
元歌は清楽の「九連環」だが、歌詞もメロディー(試聴)も元歌とはかなり変わっている。

★参考動画 ⇒ https://writerzlab.com/500

プロフィール

6代目笑福亭 松鶴(しょうふくてい しょかく、1918年8月17日 – 1986年9月5日)は、上方噺家(上方の落語家)。
大阪府大阪市出身。生前は上方落語協会会長。本名は竹内 日出男(たけうち ひでお)。
出囃子は「舟行き」。父は同じく落語家5代目笑福亭松鶴。母は落語家6代目林家正楽の養女。
息子は同じく落語家5代目笑福亭枝鶴(後に廃業)。

人物

入門当時、消滅寸前だった上方落語の復興を目指し、3代目桂米朝らと奔走。
埋もれていた演目を掘り起こし、また多くの弟子を育て上げ、上方落語の復興を果たす。
米朝、3代目桂小文枝(後の5代目桂文枝)、3代目桂春団治とで「上方落語界の四天王」と讃えられた。

豪放な芸風と晩年の呂律が回らない語り口(1974年頃に脳溢血を患った後遺症による)が知られているが、若い頃はまさに立て板に水というところで、テンポよく迫力のある語り、酔態や子供の表現の上手さで人気を得た。

特に酒を題材に取った噺(らくだなど)や芝居噺(蔵丁稚など)を得意としていた。
松鶴襲名ころまではまさに他の四天王たちやほぼ同年代の噺家たちよりは頭ひとつ頭抜けた存在であったと評判であった。

また、枝鶴、染丸同時襲名の折は看板は枝鶴(6代目松鶴)が上であった。
私生活においては、酒と借金にまつわる数々のエピソードなど、豪遊で知られる。
これらは松鶴の弟子たちによって今でも面白おかしく語られ、「六代目」の生き方を偲ぶよすがとなっている。

実際は家ではほとんど酒を飲まず、外では芸人「松鶴」を演じていたのではないかと筆頭弟子の仁鶴ほかが証言している。
また、若手の芸人を非常に可愛がっていた事もある。
特に、桂きん枝が不祥事で師匠文枝(当時:小文枝)から破門され、サラリーマン生活を送っていた頃に4代目林家小染が他界。
その通夜できん枝が泣きながら参列し、松鶴はその姿を見て文枝にきん枝を許すように助言し、その結果きん枝は破門も解かれ、復帰もかなったという。

6代目の旧住居は現在は寄席小屋「無学」となっており、弟子の笑福亭鶴瓶が月1回「帝塚山 無学の会」というイベントを開催している(後述)。
NHK等、媒体で発表された辞世の句は「煩悩を我も振り分け西の旅」である。
これは、父・5代目の辞世の句「煩悩を振り分けにして西の旅」(4代目桂米團治作)を踏まえたものである。

作者は甥の和多田勝(『六世笑福亭松鶴はなし』桂米朝の回顧より)である。
戒名は「笑福亭楽翁松鶴居士」。
墓所は大阪府大阪市天王寺区上本町9丁目の壽法寺(別名・紅葉寺)。

エピソード

元は役者志望だったが、少年時代に片足に重傷を負い引きずるようになったため、断念せざるを得なかった。
この経験が後年、視覚にハンディキャップを持つ笑福亭伯鶴を弟子に取ることに繋がった。
生涯三度結婚している。

最初の妻とは死別し、最後の妻は元芸妓であり、出会った当初は今里新地で店を開いていた。
当時は別の男性と結婚しており、店に夫が姿を見せると機嫌が悪くなり、今里駅前から自宅までの200メートル余りの間を大声を上げながら歩き帰り、家の中でも壁や柱に当り散らしていた(『六世笑福亭松鶴はなし』桂文枝の回顧)。

結婚後は家族・弟子から「あーちゃん」と呼ばれて親しまれ、名物的なおかみさんだった。
若手の頃はヒロポン好きであった。
覚せい剤取締法が制定される1951年までヒロポンの市販は合法であったが、どれだけのヒロポンを打てるかが芸人のステータスとなっていた当時、松鶴は一升瓶に入ったヒロポンの溶水を掲げ「一日に30本打ったった」と自慢、「ワシや春団治は楽屋でヒロポン打っとったけど、米朝はリンゴ食うとった」との思い出を語っている(同じ松竹芸能所属だった北野誠のラジオでの談話)。

紙切り芸人の香見喜利平が、舞台で使った残り紙を利用して年賀状用に翌年の干支である鼠(子)を切っていたのを見つけ、喜利平の不在の間にそれを全部捨てた上で、自己流の猫を紙で切って置いておいた。

用事から帰って破り捨てられた鼠と松鶴の切った猫を前にした喜利平は「これで腹を立てたらシャレの通じん奴やと思われるやろな」とぼやいた(『桂米朝 私の履歴書』より)。
ある日舞台袖に押しかけていた借金取りたちから逃れるため、高座が終わると客席に飛び降りそのまま逃走した。

ベルが鳴っている電話に出るのが苦手で、まず弟子か家人に受話器を取らせてから電話を代わった。やむを得ず電話に出なければならないときは受話器を取るなり開口一番「だっだっだ、誰や!」と怒鳴っていた。

タクシーで移動中、阪神高速道路上で運転手と喧嘩し下車、高速道路を歩いた。
一時期「笑福亭」という名の割烹料理屋を営んでいた事がある。
芸人が毎日出入りし食事代を踏み倒すのですぐに店を潰した。
鶴瓶の弟子で松鶴の孫弟子にあたる笑福亭笑瓶は落語家志望だったため、鶴瓶に弟子にしてほしいと懇願した。

そこで鶴瓶は「鶴瓶の妻と、師匠の松鶴に気に入られれば入門を認める」と条件を出す。
妻には認められ、その後松鶴と対面した際に「君は人を笑わせるのが好きか」と問われ、笑瓶は「好きです」と即答した。
松鶴は笑瓶に対し、「こいつ(鶴瓶)の生き様を見習え」と告げたという。
桂春団治と新世界の飲み屋で、それぞれの弟子を連れて飲んでいた時の事。
近くの席でヤクザが女に因縁をつけているのを見つけた松鶴は、春団治にアイコンタクトを取りつつ「三代目」と代数で呼びかけた。

状況を察した春団治も松鶴を「六代目」と呼び、弟子たちも師匠を「おやっさん」と呼ぶなどしてしばらく会話しているうちに、件のヤクザは席を立っていた(『六世笑福亭松鶴はなし』春団治の回顧)。
『驚きももの木20世紀』で語られたところによると、地方で独演会を開いた際、なかなか客が集まらなかった。

そこで、興行主は、「笑福亭仁鶴の師匠来たる」と既に全国区の売れっ子だった弟子の名前を使い、客を満員にさせた。
しかし、この事を知った松鶴は、プライドを傷つけられた事に憤慨。
正統派の上方落語で、客席を爆笑の渦に巻き込む。
そして、「仁鶴の師匠」ではなく、「名人の松鶴」を実力で見せつけ、来た客に認識させたという。
1971年、有馬温泉で行われた松竹芸能の親睦パーティーの席で泥酔して騒ぎ、来賓として出席した松竹本社の城戸四郎社長を激怒させるなど周囲の顰蹙を買った。

松竹芸能の所属タレントはもちろん、親会社からも松鶴の解雇を要求する声が挙がる中、松竹芸能の勝忠男社長が仲裁に入り、松鶴が勝に謝罪することで事態は収拾した。
皮肉にも松鶴はこのあとメディアでの露出が増えるが、勝は『六世笑福亭松鶴はなし』にて、有馬温泉の一件での松鶴の謝罪が影響したと回顧している。

弟子の笑福亭鶴光が山本正之のプロデュースで「うぐいすだにミュージックホール」をリリースして大ヒットしたが、それを聞いた松鶴は「鶴光のやつ、落語の勉強せずにストリップの歌など歌いおって、許せん!」と激怒し鶴光に3ヶ月間の破門を言い渡した。
1971年から1979年まで大阪府知事を務めた黒田了一の支持者として知られ、黒田の選挙応援を度々行った。

紫綬褒章授与の際に市民税を30年間滞納していたことが発覚し、急遽支払った。
父が五代目松鶴だったこともあり、上方落語のサラブレッドやプリンスと呼ばれたことがあった。
立川談志は初対面の時「随分汚ねえプリンスだな。」とあきれたが、松鶴は「わてがプリンスですねん。そう見えまっか。」と逆手に取って周囲を笑わしていた。

最期の言葉には諸説ある。
笑福亭鶴瓶によれば、最期に「ばば(大便)したい」と言い残し直後に息を引き取った(『鶴瓶上岡パペポTV』での談話)。
また当時の新聞記事には「主治医に『戦争じゃ!』と呼びかけた」という記述がある(『落語ファンクラブ』より)。

東京とのつながり

東京の落語家とも親交を持ち、東京でも「六代目」と呼ばれた。
特に5代目柳家小さんと三笑亭夢楽とは同じ世代でもあり無二の親友であった。
松鶴自身東京の若手をもよく可愛がり、7代目立川談志と3代目古今亭志ん朝は松鶴に心酔した。

後年、談志は松鶴について、外見は豪放だったが実に繊細で面倒見がよく、毎晩のように御馳走になったり、普段の高座は「相撲場風景」などの軽いネタしかやらず「大したことないな」と思っていた矢先、「らくだ」をたっぷりと演じたのを聴いて体が震えるほど感動したなどと証言している。
東京の噺家が角座に来演するときは、必ず松鶴自らはトリに出ず東京方に取らせた。
「わざわざ遠いとこから来てくれてんのやさかい、気持ちよう出てもらわなあかなん」というというのが口癖で、その心遣いにみんな感激した。

弟子の鶴光が東京の落語芸術協会にも加入した時、周りの芸人たちが「六代目の師匠にはかわいがってもらいましたから」と手厚く扱ってくれ、改めて師匠の偉大さに気付いた。
また、2代目快楽亭ブラックも短期間ではあるが、松鶴に世話になった事がある。

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