★桂米丸(四代目)わたしは誰

桂米丸(四代目)

男がある日洗面所の鏡をのぞいて見ると突然若返っていた。
驚いて「これは夢ではないか?」と疑うが……

プロフィール

4代目桂 米丸(かつら よねまる、1925年4月6日 – )は、神奈川県横浜市出身の落語家。
社団法人落語芸術協会最高顧問。本名は須川 勇(すがわ いさむ)。
出囃子は『金比羅舟々』。
若いころのキャッチフレーズ「ホワイトライス」。

来歴・人物

生家は港湾荷役業の名門で、ミナト横浜の大親分・須川太助が祖父にあたる。
鎌倉学園を経て、東京都立化学工専を卒業。
都立化学工専は幾度かの改称を経て、1949年の学制改革により他の(旧制)都立高校、(旧制)都立専門学校とともに新制の東京都立大学(現:首都大学東京)の母体となる。
1946年(昭和21年)4月、芝居関係の仕事をしていた兄の勧めで、9代目柳亭芝楽の紹介を介し、5代目古今亭今輔に入門。

古今亭今児の名を貰うが、師匠・今輔の方針で寄席での前座修業は一切やらされなかった。
1947年(昭和22年)1月 、二つ目付き出しで寄席の高座に上がる。
1949年(昭和24年)4月、師匠・今輔の前名4代目桂米丸を襲名し、真打昇進。
1976年(昭和51年)12月の師匠・今輔死去に伴い、翌1977年(昭和52年)、日本芸術協会(現:落語芸術協会)(芸協)3代目会長就任。
1999年(平成11年)、会長職を師匠・今輔の弟弟子10代目桂文治に譲り、顧問就任。
2002年(平成14年)、最高顧問就任。

「お婆さんの今輔」と呼ばれた新作落語派の師匠・今輔に入門し、現在までその流れを汲む新作落語一筋の落語家である。
芸協会長時代、席亭との意見対立で上野鈴本演芸場から撤退したことなどは師匠譲りの頑固者故と囁かれた。

家電製品好きで知られ、まだそれほど普及していない早い時期からビデオカメラを取り入れ、弟子の稽古、初舞台の模様などを撮影していた。
2008年(平成20年)5月に古今亭寿輔の弟子が真打昇進し、6代目今輔を襲名したが、彼の真打昇進時に「特定の落語家のみを祝うわけではない」と念を押しつつも、師匠の名跡・今輔が復活したことに感慨を覚えていると発言している。

総領弟子で現在の芸協会長である桂歌丸が現在司会を務める日テレ『笑点』で真打昇進披露口上が行われた際にも、同様の発言を行った上で、手締めの音頭をとった。
2012年現在、東西落語界併せて最年長の噺家である(ただし入門順では4代目金馬が最長老にあたる)。
現在も寄席を中心に活動を続けている。

略歴

1946年 – 5代目古今亭今輔に入門。
初舞台は3月上野鈴本演芸場の柳家金語楼作の「バス・ガール」。
1947年 – 古今亭今児を名乗り、二つ目。
前座修業はなかった。
1947年 – 真打昇進、4代目桂米丸を襲名。
1977年2月14日 – 日本芸術協会会長に就任。
1977年12月10日 – 旧法のもとで日本芸術協会が法人格を取得、団体名も社団法人落語芸術協会と改称される。
米丸は会長を続投。
1992年 – 紫綬褒章受章。
1998年 – 勲四等旭日小綬章受章。
1999年 – 同会長職を勇退、顧問に就任。
2002年 – 同最高顧問に就任。

エピソード

新作落語一筋ではあるが、落語家になったきっかけは古典落語への憧れであったという。
弟子には古典を演じる者も多い(歌丸がその典型例であり、後述の歌丸が5代目今輔一門を事実上破門状態になった一因が、新作派の今輔のもとで古典を演じようとしていたこともあった)。

1962年、3代目三遊亭圓右、5代目春風亭柳昇、初代林家三平、2代目三遊亭歌奴(現・3代目三遊亭圓歌)、三遊亭小金馬(現・4代目三遊亭金馬)と共に「創作落語会」を結成し、毎月新作の新ネタを掛ける勉強会を行っていた。
前座修業を一切しなかったのは終戦直後の若い噺家が足りない時期に入門したという事情がある。

他方、当時としては一般的にも高学歴の専門学校(現在の大学に当たる)卒だったからという説もある。
米丸本人の談では、師匠・今輔自身が若い頃苦労したので、同じ思いをさせたくなかったとある。
前座経験なしにいきなり二つ目で高座に上がったとされるが、実際には浅草にあった松竹演芸場という色物中心の演芸場で、噺の練習がてら前座として高座に上がっている。

これは「二つ目として寄席に出す以上は、それ相応のレベルに達しておかなければならない」という師匠・今輔の配慮によるものであった。
本人の回想によると客が多かった(開演前にもかかわらず、いつも100人近く入っていた)のでかなり勉強になったという。

二つ目経験も少ないが、これは師匠・今輔から授かった新作落語『バスガール』を大阪戎橋松竹で演じたところ大いに受けたのが契機となった。
この話を聞いた大師匠で、当時の芸協副会長である2代目桂小文治は相当気をよくした。
小文治はもともと上方噺家であり、入門から3年しか経過していない孫弟子が自分の地元・大阪で受けたことを素直に喜ぶと共に、その力量を認め、彼を真打に推挙し、同時に自らの前名・米丸の名跡も与えた。

若手の待遇改善で揉め、今輔一門を飛び出した弟弟子・古今亭今児(桂米坊を経て、現在の桂歌丸)が、結局自分の弟子になることで収拾した時、修行経験の少ない米丸は戸惑ったが、今輔は「もう弟子を持つ身分だから」と諭したという。

なお、米丸は歌丸にはほとんど稽古を付けず、弟子というよりはブレーン(座付き作家)に近い扱いをした。
もともと二つ目に昇進していた弟弟子で基礎が身に付いていたからでもあり、米丸が新作一筋であるのに対して歌丸がどちらかといえば古典志向であったことも一因だが、それでも歌丸にとってはよい経験になったという。

ちなみに、初めての直弟子となるヨネスケ(桂米助)にも当初はあまり稽古を付けなかったとのことで、初めてヨネスケに稽古を付けたのは歌丸であったという。
1973年、49歳の時に師匠・5代目今輔から「6代目今輔」の襲名話を持ちかけられたことがある。
5代目今輔の「大きな看板の襲名は40代までにやるべき」という考えに基づいたものだが、米丸は「生前贈与はありえない」「自分には大きすぎる名前である」として断った。

その3年後に5代目今輔が他界し、以後30年以上「今輔」の名跡が空席になったこともあり、米丸は「(襲名の話があった時に)自分が飛びつかなければいけなかった」と後悔の念を明らかにしている。
2008年の6代目今輔誕生の際の一連の発言も自身のこうした経験を踏まえたものと考えられる。
ほぼ同時期に落語協会の会長職に在った5代目柳家小さんをいつも目標にしていた。
落語芸術協会の会長職を23年間務められたのも、落語協会会長を24年間務めた小さんの存在を励みにしていたからだと著書で語っている。

なお、1999年に落語芸術協会の会長職を退いた際には、落語協会の「最高顧問」として健在であった小さんに配慮して「顧問」となり、2002年5月の小さんの他界後に「最高顧問」に就任している。
2006年の4代目柳家小せん没後は、東西落語界における最年長の落語家となっている。
なお、上方落語界最年長は2代目笑福亭松之助(米丸は、同学年の松之助より生まれが4か月早い)である。

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