PR

★桂文楽(八代目)愛宕山

桂文楽(八代目)

スポンサーリンク

桂文楽(八代目)『愛宕山』あらすじ・解説|小判を追う幇間一八の滑稽

※この記事は、落語『愛宕山』のオチまで触れる。

『愛宕山』とはどんな噺か

『愛宕山』は、春の京都を舞台にした古典落語である。

旦那が芸者衆や幇間を連れて愛宕山へ出かける。そこで始まるのが、山登り、かわらけ投げ、小判投げ、そして幇間・一八の命がけの大騒動だ。

もとは上方落語の演目で、のちに江戸落語にも移された噺とされている。三代目三遊亭圓馬によって江戸落語へ入ったとされ、八代目桂文楽の得意演目としても知られる。

八代目桂文楽、本名・並河益義は、明治25年生まれ、昭和46年没。上野の黒門町に住んでいたことから「黒門町の師匠」と呼ばれた。五代目古今亭志ん生と並ぶ戦後落語の名人とされるが、志ん生の破天荒さとは逆に、文楽の芸は細部まで磨き込まれた精密な芸だった。

その文楽が演じる『愛宕山』は、単なるドタバタではない。景色、人物の立ち位置、欲の動き、身体の使い方まで、きっちり組み上げられた噺として聴く価値がある。

あらすじ

春の京都。

ある旦那が、芸者衆や幇間を連れて野掛けに出る。幇間とは、いわゆる太鼓持ち。座敷で客を持ち上げ、場を盛り上げ、旦那の機嫌を取る商売である。

その中に、一八という幇間がいる。

一八は調子がいい。口も軽い。見栄も張る。旦那が「愛宕山へ登ろう」と言い出すと、一八は「そんな山くらい朝飯前だ」と大きなことを言う。

ところが、実際に登り始めると話が違う。

旦那たちは軽々と進むが、一八は荷物や弁当を持たされ、すぐに息が上がる。強がっていた手前、弱音も吐きにくい。やっとのことで山上の茶店にたどり着く。

そこで旦那は、かわらけ投げを始める。

かわらけ投げとは、素焼きの皿を谷底の的めがけて投げる遊びである。旦那は慣れたもので、見事に的へ通していく。一八も真似して投げるが、うまくいかない。

負け惜しみで一八は言う。

大阪では、かわらけなんかではなく、金を投げて遊ぶのだ、と。

この一言がまずい。

旦那は面白がって、本物の小判を取り出す。そして谷底へ向かって投げ始める。演者や系統によって小判の枚数には違いがあり、二十枚とする型もあれば、三十枚とする紹介もある。

一八は慌てる。

いくら旦那の金とはいえ、小判である。もったいない。すると旦那は涼しい顔で、「拾った者のものだ」と言う。

一八の欲が動く。

谷底には小判が落ちている。だが、そこへ降りるのは危険だ。普通なら諦める。ところが一八は、茶店にあった大きな傘を見つける。これを開いて飛び降りれば、谷底まで降りられるのではないか。

無茶である。

だが、一八は飛ぶ。

傘を開き、崖から谷底へ飛び降りる。命がけの小判拾いである。放送ライブラリーの番組概要でも、一八が唐傘を開いて飛び降り、小判を拾い集める場面が『愛宕山』の中心として紹介されている。

一八は無事に谷底へ降り、小判を拾う。旦那も「その小判はお前にやる」と言う。

ここまではいい。

問題は、どうやって戻るかである。

飛び降りることばかり考えて、上がる方法を考えていなかった。谷底には狼が出るとも言われる。道を回って戻るのも大変だ。

そこで一八は、着物を裂いて紐を作り、竹に結びつける。竹をしならせ、その反動で自分の体を山上へ飛ばそうとする。

これまた無茶である。

しかし落語だから成立する。

一八は竹の反動で見事に上へ戻ってくる。旦那も感心する。命がけで小判を拾い、さらに奇想天外な方法で生還したのだから、たいしたものだ。

そこで旦那が聞く。

「ところで小判は?」

一八は気づく。

「あっ、忘れてきた」

命をかけて谷底へ降り、苦労して戻ってきたのに、肝心の小判を置いてきた。

これが『愛宕山』のオチである。

この噺のおもしろさ

『愛宕山』のおもしろさは、ただの欲張り噺ではない。

一八は愚かだが、ただの馬鹿ではない。旦那に持ち上げられ、からかわれ、見栄を張り、欲に動かされる。だが、いざ追い詰められると、異様な機転を見せる。

傘で飛び降りる。着物を裂いて縄にする。竹の反動で戻る。

発想はめちゃくちゃだが、落語の中では妙に筋が通っている。ここが大事だ。

現実にはありえない。だが、噺の中では「一八ならやりかねない」と思わせる。そこに落語の人物造形がある。

また、旦那も単なる善人ではない。小判を谷へ投げるのは、気前がいいというより、お大尽の遊びである。金を金として見ていない。自分の余裕を見せつけ、幇間の欲を刺激し、その反応を楽しんでいる。

一八は旦那に振り回されているようで、同時に旦那の遊びを成立させている。旦那だけでは噺は動かない。一八の見栄と欲があって、初めて『愛宕山』は跳ねる。

八代目桂文楽で聴く意味

八代目桂文楽の『愛宕山』が重要なのは、この噺が派手なだけに、雑に演じると単なるドタバタになってしまうからである。

文楽の芸は、緻密さに強みがある。大げさに暴れるのではなく、一八が疲れていく呼吸、旦那の余裕、一八の欲がむくむく起き上がる間合いを、細かく積み上げる。

『愛宕山』には身体性がある。

山を登る。疲れる。皿を投げる。小判を見る。崖をのぞく。傘を持つ。飛び降りる。拾う。戻れなくなる。竹をしならせる。飛び上がる。

つまり、聴く落語でありながら、かなり「見る」噺でもある。

文楽のように型を磨いた噺家が演じると、荒唐無稽な展開でも、場面の輪郭が崩れない。そこが文楽版『愛宕山』の強さである。

オチの意味

「あっ、忘れてきた」というオチは、単に間抜けなだけではない。

一八は小判が欲しくて命をかけた。だが、戻ることに必死になるうちに、目的そのものを忘れてしまう。

これは笑える。

同時に、人間らしい。

欲に走る。危険を冒す。途中で別の問題に追われる。そして、最初に欲しかったものを忘れる。

落語は、こういう人間の滑稽をよく知っている。

『愛宕山』は、春の京都を舞台にした陽気な噺でありながら、欲と見栄と機転の噺でもある。旦那の散財、一八の貪欲、幇間という職業の哀しさとたくましさ。それらを笑いに変えるから、古典落語として残っている。

八代目桂文楽の『愛宕山』を聴くなら、オチだけを追うのはもったいない。

一八がどこで見栄を張り、どこで欲に負け、どこで本気になり、どこで目的を忘れるのか。その流れを見る噺である。

小判を忘れた一八を笑いながら、こちらも少しだけ刺される。

人間は、わりと大事なものを忘れながら、必死で崖を登っている。

コメント

タイトルとURLをコピーしました