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2026年5月29日(金):初投稿
動画(五代目古今亭志ん生)
動画(立川談志)
動画(柳家小満ん)
二階ぞめき(にかいぞめき)とはどんな噺か
「二階ぞめき」(にかいぞめき)は江戸落語の廓噺・滑稽噺。別題に「二階素見」(にかいひやかし)。吉原通いが止まない若旦那のために番頭が一計を案じ、家の二階を吉原そっくりに作り替えるという荒唐無稽な設定を軸にした噺だ。
もとは上方落語の演目で、明治期に三代目柳家小さんが江戸落語に移入した。五代目古今亭志ん生(1890〜1973)が生涯で最も多く高座にかけた噺のひとつとも言われ、息子の三代目古今亭志ん朝が「親父の持ちネタの中で一番だ」と評した。禁演落語53演目の一つとして1941年(昭和16年)10月30日に禁じられ、1946年(昭和21年)9月30日に解禁。現在は志ん生の薫陶を受けた系譜の演者を中心に演じられている。
あらすじ
あるお店の若旦那、毎晩吉原へぞめきに出かけるのが止まらない。堅物の親父がとうとう堪忍袋の緒を切り、「世間の手前、勘当する」と言い出した。番頭が心配して若旦那を呼び、「内緒で馴染みの花魁を身請けして、よそに囲っておいて会いに行けばいい」と勧める。ところが若旦那の返事はこうだった。
「女がどうこういうんじゃねえんだよ。吉原てものが好きなんだ。吉原ぜんぶをうちに持ってきてくれりゃあ行かないよ」
これには番頭も驚いたが、「それで若旦那の気がすむなら」と親父に相談し、出入りの腕のいい大工を頼んで家の二階を吉原そっくりに作り替えることにした。大門・仲の町の通り・張見世の格子まで再現し、あんどんまで灯して立派なミニ吉原が完成した。
若旦那は大喜びで、毎晩二階をひとりでぞめきはじめた。仲の町を歩き回り、花魁の声色を使いながら大騒ぎする。親父がうるさくてかなわないと、小僧に「二階へ行って、何をしているか見てきい」と命じた。小僧が二階へそっと上がっていくと、若旦那が花魁の扮装をして一人芝居をしている。
「どうしていた」
「へい。二階で、若だんながかぶっておりました」
これがサゲ。「かぶる」は吉原の花魁が座敷で頭からかぶる薄物(被衣・かずき)を被る意と、若旦那がひとりで「かぶった」=ひとり全部やっていたという掛け言葉になっている。
解説
「ぞめき」は「騒く(さわく)」が転じた江戸言葉で、大勢で騒ぎながら歩くことを指す。吉原の仲の町を花魁や牛太郎(客引き)を相手にわいわいとひやかして歩き回る行為を「吉原ぞめき」と呼んだ。漢字では「騒き」。
「ひやかし」の語源には、浅草付近の紙漉き職人が漉いた紙を干して乾くまでの待ち時間に吉原をぶらついたが、金がないから見るだけで帰ったことに由来するという説がある。漢字では「素見し」と書く。この噺の別題「二階素見」はそこから来ている。
噺の核心にあるのは「吉原という場所そのものへの愛着」という若旦那の執着の特異さだ。普通の廓通いは女(花魁)が目当てだが、この若旦那は女ではなく「吉原の雰囲気」が好きだという。仲の町の常夜灯の明かり、張見世の格子越しに並ぶ花魁、牛太郎の呼び込み——そういった場の空気ごと持ち帰りたいという趣向が、この噺を他の廓噺と一線画する。志ん生自身が明治の吉原に実際に通っていたこともあり、その描写には格別の臨場感があったとされる。
張見世(はりみせ)は、吉原の遊女屋が格子戸越しに遊女を並べて客に見せた商売の形式で、大正初期まで続いた。張見世があった頃の吉原を実際に知る最後の世代の噺家たちにとって、この噺は懐旧の情とともに演じられるものだった。志ん朝が父の高座を「一番」と評したのも、そうした時代の空気ごと語られる志ん生の口演を指してのことだろう。
成立と演者
原話は延享4年(1747年)刊の笑話本『軽口花咲顔』第5巻所収「二階の遊興」。その後も複数の笑話本に同工の話が収録されており、上方では万延2年(1861年)の桂松光の演題集『風流昔噺』に「息子二階のすまい ここでおうたゆうな」とあり、この頃には落語として口演されていた。江戸落語への移入は明治期、三代目柳家小さんによるとされる。
現在も活発に演じられており、立川談志・柳家小満ん・柳家花緑・柳家喜多八・春風亭一之輔・三遊亭萬橘(2025年10月NHK「日本の話芸」収録)など幅広い系統の演者が手がける。禁演落語が解禁されてから八十年近く経ったいまなお演じ継がれる、廓噺の中では珍しく「現役」の演目だ。
関連演目
同じ禁演落語53演目の廓噺として、文違い・明烏・五人廻し・付き馬が代表格として知られる。「花魁ではなく吉原という場所が好き」という若旦那の設定は、「明烏」の時次郎(吉原を知らない純粋な堅物)とはまったく正反対の廓狂いで、両者を並べると廓噺の若旦那像の幅の広さがよくわかる。
文責:ライターズラボ編集部(2026年5月29日(金)執筆)


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