あらすじ
頭はちょっと弱いが腕の良い大工の与太郎を、棟梁の政五郎は何かと面倒をみていた。
「でっけえ仕事が入ったから道具箱を出せ」
と言うと、溜めた店賃のカタに大家に持っていかれてないと言う。八百足りないが手持ちの一両二分を持たせて大家のところへ行かせ
たが、金が足りないと追い返されて来た。
棟梁が出向いて頭を下げるが「タカが八百」との言い種が気に入らないと口論となり、棟梁が大家の素性について啖呵をきり、遂に
は奉行所へ訴える騒ぎになる。
お白州での奉行の裁きは、与太郎は不足分八百を支払い、大家は直ちに道具箱を返すこと、日延べ猶予は相成らぬ。
ところで、大家は質株を持っておろうの?「ございません」
何と質株を持たずして、他人の物品を預かり置くはご法度、罪に代えて二十日間の手間賃を与太郎に支払えと、沙汰した後で、奉行が「ちと儲かったか、さすが、大工は棟梁」
政五郎答えて「へえ、調べを御覧じろ」
プロフィール
3代目春風亭 柳好(野ざらしの柳好)
(1887年4月24日 – 1956年3月14日)は
本名 松本 亀太郎。東京都台東区出身。出囃子は「梅は咲いたか」。
来歴・人物
花が咲いたかのように艶やかかつ華のある高座で、「唄い調子」と言われる流麗な口調が独特。多くのファンを獲得した。今日でも落語愛好家の間で「柳好」と言えば決まって「3代目」の事を指すほどである。
ただし人物描写や心理表現といったものは皆無で、批評家の評価は低く、人気のわりには高い評価を受けなかった。TBS専属落語家。
1912年2月、2代目談洲楼燕枝に入門し燕吉を名乗る。その後同年?に柳亭燕玉、柳亭燕雀、1913年、4年頃に春風亭錦枝を経て1917年に6代目春風亭柳枝の門下で柳好で真打ちに昇進。東京演芸会社から落語睦会に陣営強化の為にスカウトされる。
8代目文楽、6代目柳橋(当時小柳枝)、2代目小文治と並び「睦の四天王」と呼ばれた。その後、一時期高座を離れ幇間となるが、間もなく日本芸術協会(現在の落語芸術協会)に所属。
出囃子の「梅は咲いたか」が流れ高座横の出演者を示すめくりが「柳好」に変わると客席は「柳好だ。」と期待にどよめきだし、本人が高座に出ると拍手の嵐となった。その凄さに、
8代目桂文楽は「楽屋で聞いても上手いとは思えません。でも、もう、あの、ぱあっとしたはなやかさは何なんでしょうねえ」と誉め、序列は上でも構わないから落語協会の方に来て欲しいと真顔で語った。
(以下は6代目圓生が川戸貞吉に語った述懐)6代目圓生も同様に、序列は上でも構わないから落語協会の方に来て欲しいと思っていた。
実際に、落語協会が、柳好を日本芸術協会から引き抜くという計画があった。頓挫したのは、落語協会側の2代目円歌が反対したからである。
得意ネタは「野ざらし」、「がまの油」、「鰻の幇間」、「電車風景」、「二十四孝」、「たちきり」など。高座へ上がると客席から決まって「野ざらし」や「がまの油」を求める掛け声がかけられたという。
また、学習院大学落語研究会に依頼され、学内の講堂にて『五人廻し』を演じたこともあった。
しかし、噺の途中で会場に目をやったところ、客席の最前列に皇太子明仁親王がいるのに気づき、動揺して途中で高座を下りてしまった。『五人廻し』は遊郭を舞台とする艶噺だったことから、控室に戻ってからも「あたし、不敬罪で逮捕されるんじゃないか」と顔面蒼白で動転しており、落語研究会の吉村昭らが「今は民主主義の時代ですから、そんなことありません」と必死に宥めたという。
晩年は向島の芸者屋の若旦那となっていた。1956年、TBSラジオで「穴どろ」を収録後、上野鈴本演芸場の楽屋で急逝(尚、鈴本の楽屋で亡くなったのは4代目柳家小さんにつぐ二人目)。
享年69。
弟子に4代目春風亭柳好、10代目柳亭芝楽、燕雀(元・春風亭好燕、廃業)、実の弟の春風亭梅好、千代若、漫才の桂金吾等がいる。
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