公開日:2026年4月14日
娘がSNSで絵を発表していると知った父親が、会社中にそのアカウントを広めた。

同僚の愚痴を聞いた女性が、本人に無断で上司に報告した。無名のクリエイターの作品に才能を見出した男が、許可も取らずに加工して公表した。認知症の母が「やめて」と言っても、息子はカメラを向け続けた。
全員が善意だった。全員が「あなたのために」と思っていた。そして全員が、相手に一度も「これを望んでいるか」と確認しなかった。
小谷地市朗の短編集『よかれと思って——善意という名の侵略 10の物語』は、この「善意の加害」を正面から描く一冊だ。登場する10人は全員が本物の善意を持っている。悪魔は一人も出てこない。にもかかわらず、善意が静かに、確実に、相手を追い詰めていく。
善意には、二種類ある
人はよく「相手のため」と言う。しかしこの言葉には、実は二種類が混在している。ひとつは、相手が本当に必要としているものに合わせようとする姿勢。もうひとつは、相手のために何かをしたいという「自分の気持ち」を大事にする姿勢。前者は相手が中心にいる。後者は、自分の意図が中心にいる。
この違いは、うまくいっているうちは見えない。試されるのは、相手が喜ばなかったときだ。
本当に相手中心の人は、まず止まる。「あれ、ずれたか」と考える。しかし意図中心の人は別の処理に入る。「こちらの気持ちが伝わっていないのでは」「たぶん、まだ価値がわかっていないのだろう」。前向きに聞こえるが、都合もいい。自分の手つきを点検せずに済む構造になっているからだ。問題は受け手の受信状態へ移され、自分の善意は無傷で残る。
しかも厄介なのは、相手が笑って「ありがとう」と言えば、一件落着にしてしまうことだ。礼儀は賛同ではない。笑顔は満足ではない。その「ありがとう」の裏で、相手は静かに「この人には本音を言わないでおこう」と学習している。こうして、親切にされた人だけが本音を言わなくなるという、奇妙な現象が起きる。
三つの場面

認知症の母を毎日カメラで記録し続ける息子がいる。母が「やめて」と言っても、「今やらないと間に合わない」と撮り続ける。デイサービスで、母は別の利用者にこう漏らしていた。「うちの息子は優しいんだけど、毎日写真を撮るの。私がおかしくなっていくのを、全部撮ってるの。怖いの」
母親を亡くして職場に復帰した女性がいる。同僚たちは「無理しないでね」と声をかけ、花を贈り、飲み会で「泣いていいんだよ」と言う。女性が欲しかったのは、ただの「普通」だった。普通に仕事をして、普通に帰る。それだけだった。しかし善意の包囲は、彼女を「悲しんでいる人」として固定し続けた。
パン屋を一人で営む女性が、SNSに一行だけ弱音を書いた。「いろいろあるけど、パンを焼いてると少しだけ大丈夫になれる気がします」。それだけだった。しかしインフルエンサーが「黙って見ていられなかった」と三万人のフォロワーに拡散した。「応援」が殺到し、離婚調停中だった彼女の生活は破壊された。
どの話も、悪人が登場しない。全員が純粋だ。全員が確信している。それがこの短編集のいちばん怖いところだ。
「こういう人」は、自分の中にもいないか
読み終えたあと、ほとんどの人はまず「こういう人、いるよね」と思うはずだ。
しかし、もう一歩だけ考えてほしい。「こういう人」は、あなたの周りにだけいるのか。あなた自身の中には、いないのか。
本書に登場する10人は、誰一人として自分を加害者だとは思っていない。「あなたのために」という言葉を、本気で信じながら動いている。その感覚は、案外遠くにない。
読み終えたとき、あなたはこの10の物語のどれかに、見覚えのある顔を重ねるはずだ。それが誰の顔なのかは、あなた自身が一番よく知っている。
書籍情報
タイトル:よかれと思って——善意という名の侵略 10の物語
著者:小谷地市朗
編集:ササハラセイスケ
出版:セイスケクリエイティブラボ
Kindle版:¥99




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