ユダヤ人を救った日本人/杉原千畝(すぎはらちうね)いま明かされる真実
第二次世界大戦下、多くのユダヤ人を救った外交官、杉原千畝
世界史の教科書にも載っているすごい功績を残した人です。
杉原は、ヨーロッパのリトアニアという国で、ナチス・ドイツの迫害から逃れようとするユダヤ難民を、ヨーロッパから脱出させるために、日本を通過するビザを発給、6000人の命が救われ、「命のビザ」と言われました。
そんな外交官、杉原千畝を描いた映画も公開されました。
杉原千畝 SUGIHARA CHIUNE [ 唐沢寿明 ]
杉原のことを教えてくれるのは、元NHKワシントン支局長 手嶋龍一先生。外交ジャーナリストとして、杉原千畝の素顔を追って30年。杉原千畝、今初めて明かされる真実!
日本の通過ビザを求めるユダヤ難民
唐沢寿明さんは、杉原千畝を演じましたが、撮影中に、エキストラのユダヤの方々によくお礼を言われました。
杉原千畝は、ロシア語の達人でした。さらに、人柄も大変立派な方だったので相手側に厚く信頼され、本当に貴重な情報を日本に提供していた、いわば、インテリジェンス・オフィサー、情報士官でした。
スパイのような印象もありますが、国家のリーダーが舵を定める、もっと大きな存在と言えます。
1939年、ナチス・ドイツのユダヤ人迫害が激化する情勢で、杉原はドイツとソ連の間に位置するリトアニアに行くよう命じられました。当時この国には、迫害を受けたユダヤ人がポーランドから逃げてきていました。リトアニアが侵攻されるのも時間の問題、ユダヤ人はすぐに次の逃げ場を見つけなければいけません。
彼らが外国に行くときには、パスポートと共に、行先の国が入国を認める滞在許可証、つまりビザが必要でした。
ユダヤ難民はアメリカなどに行きたかったのですが、その経由地としてまず、日本に上陸する通過ビザを、日本の外務省から発給してもらわなければなりませんでした。
杉原が懸命に掛け合っても、日本の外務省は通過ビザ発給を簡単に認めようとしません。
日本の通過ビザ発給の条件は、
①十分な渡航費を持っていること。
②最終目的地の入国ビザがあること。
日本領事館の前には、通過ビザを求めるユダヤ難民が日に日に増えていきます。当時の事を語る杉原の貴重な肉声が残っています。
「日本を通ってよその国へ行くんだ。通過だけのビザをくれと。東京(外務省)に聞いたんだけど、ガンとして応じない。『ノータッチでいろ』と言ったってねえ、みんな僕の宿舎に集まってるしね、何千人。」
後藤新平の言葉
杉原千畝が学んだ日露協会学校の創立者、後藤新平の言葉>>>
「人のお世話にならぬよう 人のお世話をするよう そして、報いを求めぬよう」
ビザを発給するかどうかで悩む杉原に、妻の幸子はこう問いかけます。
「あなたは今でも『世界を変えたい』と思っていますか」
翌日、「ただ今から、ビザの発給を開始致します」
領事館の前で待っていたユダヤ難民たちは大喜びしました。杉原がビザ発給を始めた頃、リトアニアにソ連軍が侵攻し、領事館の閉鎖を言い渡されます。閉鎖までのおよそ1ヶ月、昼夜を問わずビザを発給し続け、さらに、領事館の閉鎖後も、ホテルに滞在しながら発給を続けました。
晩年、杉原は、ビザを発給した想いについてこう語っています。
「とにかく行くところがないから人道問題だ!って僕は言ってる。クビになったってかまわない!そしてハンコを押した。」
外務省に背いて発給されたビザになりますと、無効という風に断定されてしまうことがありますので、難民はヨーロッパに強制送還されてしまう危険があります。
杉原千畝は、お金や行先など、条件を満たしていない人にも、ビザをほとんど全部、発給しました。
杉原は、「近いうちに必ず条件を満たします」と約束をしたという風に外務省に伝え、これを特例とする、つまり「日本に着く頃にはきっと条件を満たしています」
これは、ウソにはなりません。こういうマジックを使ったのです。
孫の千弘さんの話
しかし、杉原はこの功績を、全くと言っていいほど家族に話しませんでした。
孫の千弘さんによると、
「祖父は、『自分がビザ発給しました』と声を大きくする必要がどうしてあるんだろう、当たり前の事をしただけ、自分から家族に、僕はビザ発給したなんてことは言わなかった。」
唐沢さんが言うには、リトアニアの人は当然のごとく杉原さんのことは100%知っていたそうです。日本人の方が、まだ知らない人が多いと思います。杉原千畝と言う人は、自分がこんなに偉大なことをしたという事を言わない、一番肝心な所は墓場に持って行ったということなのです。
6000人の命が救われた
ビザをもらった人たちは、その後簡単に逃げられた訳ではありませんでした。ソ連の港で足止めされてしまいます。
ユダヤ難民は、リトアニアから鉄道を使って、ソ連 ウラジオストクの港へ。日本へ向かう船に乗り込もうとする大勢のユダヤ人に対し、日本の船員は、
「日本の政府はこれ以上、難民の受け入れができません!」
既にこの頃、日本の外務省からは、ソ連のウラジオストク領事館に、ユダヤ人の入国を拒否するよう指示が出ていました。
「助けなかったとしても、他国から責められることはないでしょう。ただ今日、彼らの中に小さな子供がおりました。その目はまるで、私の娘を見ているようでした。」(JTB職員)
「私が全責任を負いましょう!彼らを船に乗せてください!」
政府に背き、難民を船に乗せる決断をしたのは、ソ連・ウラジオストク総領事代理、根井三郎、杉原の母校、日露協会学校の杉原の後輩でした。
彼を動かしたのは、あの言葉、
「人のお世話にならぬよう 人のお世話をするよう そして、報いを求めぬよう」
根井三郎は、ウラジオストクに来たユダヤ難民を、一人残らず日本行きの船に乗せました。杉原の発給したビザによって、6000人の命が救われたのです。2015年の9月にはリトアニアで記念碑を設置、切手にもなり、その功績は世界中で称えられています。
「助かったこの命を無駄にしない」
1945年、第二次世界大戦が終わり、杉原は帰国しました。その後、外務省の規模縮小に伴う大幅な人員削減があり、杉原は必要な人とはみなされず、47歳で退官しました。
杉原の肉声>>>
「終戦後帰ってきて、(外務省が)『ご存じの件で色々と問題があった、文句を言わないで暇をとってくれ』と言うから、『わかった』と……」
孫の千弘さん>>>
「退官後は、ほぼ毎日、夕食の後にピアノを弾いていました。よくこの譜面に向かってピアノを弾いていましたね。『エリーゼのために』は強烈によく覚えていますね。」
杉原千畝は86歳で生涯を閉じました。
一方、杉原のビザで生き残った人々はスギハラサバイバーと呼ばれ、「助かったこの命を無駄にしない」とあらゆるジャンルで活躍しています。
ゾラフ・バルハフティクは、イスラエルの宗教大臣になりました。当時8歳だったレオ・メラメドは、世界最大規模の金融取引所を創設、2014年に来日したとき、こんな感謝の言葉を述べました。
「杉原千畝さんの行動がなければ、私は何もできませんでした。」
杉原千畝は語学の達人で、
①ロシア語
②ドイツ語
③フランス語
④中国語
⑤英語
⑥日本語
の6ヶ国語を話せたそうです。
時々、日本語が出てこないこともあったと孫の千弘さんがおっしゃっています。
[出典:2015年11月28日放送「世界一受けたい授業」]
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