★古今亭志ん生(五代目)鈴振り(鈴まら)

古今亭志ん生(五代目)


1964年(昭和39年)10月31日「東宝名人会」東宝演芸場で収録/strong>

★聴き比べ→金原亭馬生

鈴ふり(すずふり)は、落語の演目の一つ。(鈴まらとも)
原話は、松浦静山が文政4年(1821年)に出版した随筆、『甲子夜話』。
別題:四つ目屋~鈴振り/甚五郎~~鈴振り

『鈴振り』だけでは、志ん生は『四つ目屋』『十八檀林』(じゅうはちだんりん)を付けて一席にしている。

両国に『四つ目屋』という、男根の張り形を売る店があった。そこへ、大名に奉公している年頃の達が買いに来る。
男子禁制の奥座敷にいるため、禁煙する為にハッカパイプを吸うように、これで間に合わせていた。
あるとき、体の具合が悪くなったので家に帰り、医者に診せると「御妊娠です」と診断された。
驚いたのは両親で、特に母親は「お屋敷に行ったのは、行儀見習いに行ったのに、どうしてこうなったのですか。何処の誰ですか。」と、問いつめた。
娘の手文庫を調べると、張り型が出てきた。「おまえ、これで赤ちゃんが出来るかね」と、ヒョイと裏を返したら『左甚五郎作』としてあった。
…四つ目屋・甚五郎

男子も我慢をするのはつらいこと。浄土宗の僧は、十八檀林といって、十八の寺を順番に厳しい修行をして歩いた。
下谷の幡随院で修行し、そこを抜けると鴻巣の勝願寺へ入る、というように、順に修行して、最後は芝の増上寺へ入って、大僧正の位になる。
…十八檀林

舞台は藤沢の遊行寺というお寺。次代の大僧正(住職)を決めることになったが、何しろ弟子の数が多いため誰に決めたらいいか分からない。
困った当代の大僧正は、側近たちとの協議の末、とんでもない方法を思いついた。
さて…次期大僧正を決める当日。各地から集まったお坊さんで客殿が瓜畑みたいになる中、大僧正の側近が登場。
そして坊さんたちの前をまくり、下の方にぶらぶらしている何かに紐が付いた小さな鈴を結びつけた。

不審に思いながらも本堂に入り、待っていると御簾内からお有り難い大僧正の声。
「吉例吉日たるによって、御酒、魚類を食することを許す」
『お寺で酒?』と弟子たちが目を丸くしていると、なんとお酌に絶世の美女がずらりと並んで入ってくる。
実は、入ってきたのは柳橋あたりの遊郭から厳選してきた芸者さん。大僧正の真意に気づいた弟子たちは、必死になって坐禅を組み気を鎮めようとした。

「南無阿弥陀仏、ナンマイダブ…」
「これ、ちょいと」
芸者がしなだれかかって来た。慌ててももう遅い。腰のあたりで鈴がチリーン!
気がつけば、あちこちで鈴の音が鳴り響き、本堂は秋の草原のようになってしまった。

「何たることか。仏法も終わりじゃ…」
そんな様子を御簾内から眺め、大僧正は倒れそうになってしまう。だが、よくみると本堂の隅、若い坊さんが涼しい顔で念仏を唱えていた。
耳を澄ますと、彼の腰からだけは鈴の音が聞こえてこない!

「彼こそがわしの後継者である!」

感涙にむせび、大僧正がその坊さんを呼びつけ、裾をめくると何故か鈴が付いていない。

「鈴はどうした?」

「はい、とっくに振り切りました」

概要

原話では、五戒の一つである『邪淫戒』のテストとして鈴を使い、弟子が全員アウトになった後で師匠の様子をみると、師匠が真っ先にアウトになっていたことが判明するというもの。
いわゆる艶笑噺と呼ばれるもので一段格下に見られる傾向はあるが、なかなか面白い内容であり、川柳などにもこれを元ネタとしたものが登場した。
なお、大本は中国の明代に書かれた笑話本、「笑府」だと言われているが、笑府中にこの内容を扱った話はない。
艶笑噺というものの性質上、名だたる落語家による口演の録音・録画の記録などは少ないが、知られるところでは5代目古今亭志ん生の録音が幾つか残されている。
志ん生は、高座や落語会などにおいて、主に事務方の調整ミスなどにより当日の高座や会で複数の落語家の噺の傾向が被ってしまう、落語業界では「出し物がつく」という禁忌とされる状態になってしまった際などに、その場の判断で噺を差し替えて、手持ちの噺の中からこれを選んで口演したことがある。
志ん生自身もマクラで「放送などでは絶対にやれない」と観客に予め断りを入れつつも、楽しそうに演じている。

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