★三遊亭圓右(初代)三人旅

三遊亭圓右(初代)


初代三遊亭圓右(1860年6月15日 – 1924年11月2日)は、落語家。本名は沢木勘次郎。
4代目橘家圓喬と並び称される明治期から大正期にかけての名人。一代で圓右の名跡を築いた。

1872年頃に2代目三遊亭圓橘門下で橘六、1877年に二つ目で三橘、1882年に圓右となり、1883年真打昇進。1924年10月24日、大師匠三遊亭圓朝27回忌に2代目圓朝の名跡を管理していた藤浦三周からその年の秋に名乗る事を許されるが、既に身体は肺炎に冒されていた。
結局病床で襲名するも間もなく逝去。享年65。

2代目圓朝となったのは事実であるが、圓朝としてはほとんど活躍せずに没したため「幻の2代目」と言われる。一方、圓右時代の功績が華々しかったためか、一般には「初代圓右」として認識される。
「名人圓右」といえば、初代圓右の事を指す。墓所は谷中龍谷寺。

『唐茄子屋』『火事息子』『包丁』などが得意ネタ。
ズボラな性格でろくに稽古もしないで噺を演じるが、聴衆には不自然に聞こえなかったという。 宮松亭での落語研究会で、「包丁」を当日の朝に教えてもらい高座に上がったところ、果たして途中で忘れてしまった。「楽屋ではもう、明かにわすれちゃったってことが判って、『さア困ったネエ』ってんですが、教えるわけにもいかず、どうするだろう、お客様はダレやアしないかしらんてんで…同じようなところをとっくり返しひっくり返し十分間ほどもやったが、ようやくその間に先の方を思い出して、どうやら噺がおしまいになったんで、楽屋ではもう、みんなほっとしました。ところが、お客様にはそれがちっとも判らなかったらしい。ですから、非常に腕はあったですね。だけども、そういういけぞんざいなことをするんです」(6代目三遊亭圓生著『寄席育ち』より)

あだ名は「ほうたく」(天一坊の幼名)
弟子に初代三遊亭圓歌、4代目古今亭今輔、5代目三遊亭圓橘、3代目三遊亭萬橘、三遊亭圓條(太田卯三郎)、三遊亭橘園(福田富次郎)、2代目立花家千橘、三遊亭右太作(在原ないし有原次郎)、三遊亭右朝(田中金太郎)、三遊亭右鶴(松永辰三郎、後の3代目三遊亭新朝)、三遊亭圓丸(安井国太郎)、三遊亭右左喜(丸吉竹次郎、後の古今亭志ん上)がいる。
8代目三笑亭可楽(三遊亭右喜松、後に三橘に改名)、5代目古今亭今輔も一時期圓右門下だった。

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