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《対馬の海に沈む/窪田新之助》読書ノート:島に漂う闇と私たちの共犯性 #343-0708

読書ノオト
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更新履歴
2025年09月03日(水):初投稿
2026年07月08日(水):受賞歴・被害総額・著者情報などの事実を追記し、記述を整理

『対馬の海に沈む』書評——JAの神様はなぜ海に沈んだのか

窪田新之助のノンフィクション『対馬の海に沈む』は、2019年2月に長崎県対馬のJA職員・西山義治が車ごと海へ落ちて溺死した事件から始まる。地元では「日本一の営業マン」「JAの神様」と称えられた男がなぜ死んだのか、そして背後に広がる共済金不正流用事件はなぜ長年見過ごされてきたのか。著者はその謎を追い、JAの構造的な闇と人間の欲望を描き出す。2024年、第22回開高健ノンフィクション賞を受賞した。集英社刊、328ページ、税込2,310円。

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プロローグ——海に沈む車

本書の掴みは強烈だ。まだ夜の明けきらぬ海で、一台の車がゆっくり沈んでいくのを女性が見つめる場面から物語は始まる。窓越しに見える運転手は微動だにせず、車とともに海底へ消えた。この冒頭の情景は物語の結末と呼応し、読者を最後まで離さない。

死んだのは西山義治、享年44。JA対馬のライフアドバイザー(LA、共済=保険の営業担当)として全国表彰を重ね、歩合込みで年収が4000万円を超えることもあった。人口約3万人の島でこれほどの成績が上がること自体が不自然だ。この違和感が著者の取材の出発点になった。死後に判明した共済金不正流用の被害総額は、約22億円にのぼる。

西山義治という人物——怪物か被害者か

西山は島で「神様」と崇められ、顧客や部下を巻き込む集団を率いた。営業成績は突出し、その裏で共済金の横領が行われていた。台風被害や事故を装って保険金を不正に受給し、顧客の通帳や印鑑を預かって差配する。不正の期間は10年以上に及んだ。

部下には虚偽報告や「自爆営業」——自分や家族を契約者に仕立てる手法——を強い、協力しない職員を排除した。得た金は高級時計や新築住宅、贈答に費やされた。一方で本人はタコとカップラーメンばかりを口にし、良い車に乗り、毎晩のように飲み歩く。虚勢と孤独が同居する生活だった。著者は本書で彼を「田舎のヤンキー」と評している。

とはいえ、西山を単なる悪人として切り捨てるのは難しい。著者は、狭い島社会で「成功者」であり続けることが彼の生存条件だった経緯を丁寧に描く。西山が築いた支配構造は、JAの厳しいノルマ制度と島社会の閉鎖性に支えられていた。

JAという巨大組織の闇

本書の真の主題は、西山個人ではなくJAの仕組みそのものだ。共済や信用事業の収益に依存する構造のなかで、各支所のライフアドバイザーには契約件数の厳しいノルマが課される。未達成者は自分や家族に不要な保険をかける自爆営業へ追い込まれ、人を数字として扱う組織文化が事件の土壌になった。

全国優績者は表彰の場に集められ、豪華な催しで顕彰される。成績がすべてという価値観のもと、西山は数字を維持するために不正へ踏み込み、周囲も彼から流れる金に沈黙した。

著者は以前からJAの構造問題を取材していた。前作『農協の闇』で自爆営業やノルマの腐敗を描き、その過程で対馬の事件に行き着いた。人口の少ない集落で「日本一」の営業マンが生まれた不自然さと、事件の規模の大きさが結びついた。

その後、著者は長崎地裁の裁判資料や内部文書を読み込み、多数の関係者へ取材を重ねる。JA側は個人の横領という位置づけで処理したが、著者の調査は、不正が職場・顧客・地域を巻き込む構造的なものだったことを浮かび上がらせる。

共犯者たち——島社会のグレーゾーン

対馬という島の閉鎖性も事件を拡大させた。西山は被害を偽装して業者に保険金を請求させ、その一部を受け取ったとされる。金に依存した業者は不正に口をつぐみ、顧客のなかにも不正と知りつつ応じた者がいた。著者はこうした人々を含めて「共犯」を問う。個人の弱さや保身、利益追求がどのように犯罪を助長するかを描き出す。西山が死ぬと、彼に群がっていた人々は散り、責任を取る者はいなかった。

このグレーゾーンは読者自身にも通じる。自らの職場や地域で同じように不正を見逃していないか、と問いを突きつけられる。作家・塩田武士との対談で著者は、システムのなかで生きる個人の苦しさや淋しさを書きたかったと語っている。白と黒の二分法では捉えきれない人間の業が、本書の核にある。

取材の裏側——告発者との出会い

本書には重要なキーパーソンがいる。西山の不正にいち早く気づき、内部告発文書を作成した元支店長の小宮である。彼は2011年、上対馬支店長の時期に不正を察知して文書を役員へ提出したが、黙殺され、左遷された。

著者が小宮の存在にたどり着いたとき、彼は九州大学病院に入院していた。病状がわからず逡巡しつつ会いたいと伝えると「わかった」という返事があり、著者はすぐ病院を訪ねる。西山の手口や組織ぐるみの隠蔽について証言を得た。2か月後の再訪が最後になった。小宮の証言がなければ本書は書けなかったと著者は振り返っている。

語りの工夫——ミステリのような構成

ノンフィクションでありながら、本書はミステリのような緊迫感を持つ。冒頭の車の沈没で読者を引き込み、事実を少しずつ開示しながら結末へ運ぶ。

著者は当初、事件の結末を早い段階で明かす構成にしていたが、編集者の助言を受けて構成を組み替え、大幅な書き直しを重ねたという。結果として起承転結の明確な作品となり、選考委員からは高い評価を得た。歴史学者の加藤陽子は、ノンフィクションが人間の淋しさを描く器になったと評している。

読後に残るもの——自分もまた「共犯者」か

『対馬の海に沈む』は一個人の転落劇を超え、組織と社会の病理を炙り出す。西山は稀代の悪人であると同時に、ノルマ制度とムラ社会に追い詰められた存在でもあった。その死の背後には、保身や利益に目を奪われた組織と人々があり、誰も責任を負わないまま事件は収束した。読み終えると、自分の職場や地域にも同じグレーゾーンが潜むことに気づく。ノルマは人を数字に変え、人間関係を壊す。権力と金が人間を狂わせる構図は、決して他人事ではない。

著者は実名で記録することの意義にも向き合う。関係者の実名を記すことで記録性と責任を担保し、同時に取材相手を守る配慮を払う。その姿勢は、本書が告発にとどまらず後世の資料として機能することを示している。

著者について

窪田新之助は1978年、福岡県北九州市生まれのノンフィクション作家。明治大学文学部を卒業後、2004年にJAグループの日本農業新聞へ入社し、8年間にわたり農政・農業・農村社会の現場を取材した。2012年にフリーランスへ転じ、食と農をテーマに執筆を続けている。著書に『データ農業が日本を救う』『農協の闇』、共著に『誰が農業を殺すのか』『人口減少時代の農業と食』などがある。本書で第22回開高健ノンフィクション賞を受賞した。

結論

『対馬の海に沈む』は、ひとりの男の死から始まる重厚なノンフィクションだ。執拗な取材と緻密な構成で、JAという巨大組織の闇と島社会の共犯関係を暴き、人間の欲望と孤独を浮かび上がらせる。「JAの神様」の溺死というミステリ仕立ての物語は、読者自身の内にも潜むグレーゾーンを照らし出す。

文責:ライターズラボ編集部(2026年07月08日(水)06:46執筆)

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