【ひろゆき】長野立てこもり発砲事件について語る。

事件
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長野の立てこもり事件:容疑者が「悪口を言われたと思い殺した」と供述

長野県中野市で発生した立てこもり事件について、31歳の青木政憲容疑者が警察官1人を含む4人を殺害した疑いで逮捕されました。青木容疑者は中野市議会議長の長男で、農業を営んでいました。

事件は25日午後4時半ごろに発生し、青木容疑者が女性2人をナイフで刺し、駆けつけた警察官2人を猟銃で撃った後、近くの住宅に立てこもりました。この事件で、村上幸枝さん(66歳)、竹内靖子さん(70歳)、中野警察署の玉井良樹警部補(46歳)、池内卓夫巡査部長(61歳)の4人が死亡しました。

青木容疑者は事件から半日後の26日午前4時半すぎに逮捕され、池内巡査部長に対する殺人の疑いで起訴されました。警察の調査に対し、「殺しました。撃ったことは間違いありません」と容疑を認め、動機については「被害者の女性に悪口を言われたと思って殺した。射殺されると思ったので駆けつけた警察官も殺した」と供述しています。

青木容疑者の父親である中野市議会議長の青木正道議員は26日に議員を辞職しました。また、長野県警察本部は捜査本部を設置し、事件の詳細と動機について調査を進めています。

0:00 人の価値と人を褒める意味
2:51 長野立てこもり事件の犯人像
5:16 人を追い詰めてしまう社会
7:43 伝えることの難しさ

このYouTube動画は、ひろゆき氏が長野県の立てこもり発砲事件の犯人像と、人を追い詰めてしまう社会や価値観について語っています。社会の価値観や人々の行動について深く考えるきっかけを提供しています。以下に主な内容を要約します。

1. 人の価値と人を褒める意味: ひろゆき氏は、社会が人々を価値がある人と価値がない人に分けてしまっていると指摘します。人々は能力や見た目で他人を褒める傾向があり、その結果、褒められない人々は社会で優遇されません。彼は、人々が自分自身の成果を褒めるようになれば社会は良くなると提案します。

2. 長野立てこもり事件の犯人像: ひろゆき氏は、事件の犯人が自分の存在価値を認められないと感じ、攻撃を選んだと分析します。彼は、社会が人々を比較し、負けていると感じさせることが問題であると指摘します。

3. 人を追い詰めてしまう社会: ひろゆき氏は、困っている人を助けるのが当たり前であるという価値観を持つ人々が多い社会が理想的であると述べます。彼は、この価値観が大きな組織や国を運営する上で必要であると考えています。

4. 伝えることの難しさ: ひろゆき氏は、優秀な人々の話が偏差値50以下の人々には伝わらないという問題を指摘します。彼は、この問題が社会の一部を見落としてしまう原因であると考えています。

ひろゆき氏が語る事件に対する見解:書き起こし要約

今回、長野の長野市中野市で立てこもり事件がありました。その犯人の人が、父親が議員で、何か議長のようなことをやっていました。その人はジェラート屋を経営しており、そこそこ事業としてうまくいっていました。

息子さんは野球部に所属しており、学校の成績も良かったです。彼は東京の大学に進学しましたが、中退して30歳で地元に戻りました。近所の人が自分の悪口を言ったと感じ、その人を殺すと警察に報告していました。

私は、彼が心の病に悩んでいたのではないかと思います。自分は勉強もでき、野球もうまくいっていました。しかし、東京に行って大学に入学したものの、うまくいかずに中退しました。その結果、自分の能力が報われないと感じていました。

彼は農家をやらされていました。好きだったかもしれませんが、農業をやっていました。その一方で、親は議員でした。そのため、彼は自分の存在価値や存在理由について非常に敏感な状態になっていました。

悪口を言ったかどうかはわかりませんが、彼はそれを感じ取りました。その結果、自分の存在価値が人に認められていないと感じ、自分を守るために攻撃を選んでしまいました。これは人間の構造上、あると思います。

その人々は、社会的にはあまり上位に行けなかったり、ポジションを取れなかったりする人たちです。彼らは、自分たちが社会の中で負けていると感じています。そして、その感覚が彼らを追い詰めてしまいます。

私は、このような状況が良くないと感じています。私自身が海外の大学に行っていた経験から、宗教の人と話をすることがよくありました。彼らは、人を助けることが当たり前で、その見返りを求めないという価値観を持っていました。

彼らは、「困っている人を助けるのが当たり前だから」という理由だけで、困っている人を助けていました。そのため、私は若い頃に一人親切にするのが好きではありませんでした。それは、見返りを求めてやっているのではないか、下心があるのではないかと思われるのが面倒だったからです。

しかし、アメリカでは「マイプレジャー」という言い方があります。これは、「私が好きでやっているから、あなたのためではない」という意味です。その感覚で、彼らは普通に人を助けています。

そのため、能力がない人がいて、腹が減っていると言ったら、「うちに来て飯を食べればいい」と言います。また、困っている人がいたら、「助けるよ」と言います。これは、その人がいるから助けるのではなく、単純に困っている人がいたら助けるのが自然だという価値観から来ています。

このような価値観を持つ人が多い社会は、私が学んだキリスト教の教えと一致しています。私が言っていたアーカンソーシューの大学の街は、教会に通う熱心な信者の多い白人の多い地区でした。そのため、誰かが助けてと言ったら、「助けるのが当然でしょ」という価値観がありました。

(了)

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