★蝶花楼馬楽(六代目)応挙の幽霊

蝶花楼馬楽(六代目)

1976年(昭和51年)7月月13日録音

あらすじ

書画骨とう屋が一人で酒を飲んでいる。そこへ旦那がやってきたので、骨とう屋は、旦那に幽霊の絵(掛け軸)を勧める。
これはふつうの幽霊のとはちょっと違う。枯れ柳なんかがないが素晴らしいなどと、半可通の旦那の気をそそるような勧め方だ。
円山応挙の絵だというんですがね」と、骨とう屋
「いや、オウキョでもラッキョでもかまわんよ」、絵なんて自分が気に入ればいいんだ、と旦那は早くも買う気。
そこで「では、1万円といいたいところだが、9千円でどうでしょう?」
「今、財布に1500円しかないから、それを内金にして…」「内金なんか…」「いや、気持ちの問題だから」と旦那は1500円置き、後は明日の朝、絵を届けてくれたときに払うといって、去っていく。
実はその絵は骨とう屋が市場で650円で買ったもの。
「1万5千円といえばよかったな、これだから、この商売やめられねえ。」と、お多福豆をつまみに酒を飲み続ける。
これも掛け軸の幽霊のおかげだと鰻と酒を供える。
気分良くした骨とう屋は鰻を届けてもらい、「かかあがいたら、喜ぶだろうなあ」と往時をしみじみ振り返りながら、かつて朝鮮にいた頃唄った鴨緑江の歌を一節。
鰻と酒を供えたそれが、あれ?その鰻と酒が減った…
急にあたりが暗くなり、涼しくなった。三味線の音とともに掛け軸から女幽霊が出てきた。
「こんばんは、私は幽霊です。」久しぶりに酒と鰻をいただいて、あたしゃ、嬉しくて…、「そばにいってもいい?」と女幽霊は骨とう屋の横に来て、「もういっぱいちょうだい」と酒をせがむのだ。
彼女がいうには、どこでも幽霊の絵は三日か四日は掛けて眺められても後は女子供に怖がられてお蔵入り、虫に喰われて…であった。が、ここでは認められて嬉しいというわけだ。
「もう一杯」と女幽霊は骨とう屋と差しつ差されつ、幽霊のつま弾く三味線に合わせて鴨緑江の唄や都々逸など唄って酒酌み交わす。明るく色っぽい幽霊はやがて酔っぱらって掛け軸に戻ったが、手枕で向こう向いて眠り込んでしまった。
困った骨とう屋、「明日の朝までにこの酔いが醒めれば良いが…」。
[出典:http://ginjo.fc2web.com/126oukyono_yuurei/oukyonoyurei.htm]

プロフィール

六代目 蝶花楼 馬楽(ちょうかろう ばらく、1908年1月21日 – 1987年6月3日)は、落語家。落語協会副会長を歴任。本名∶河原 三郎。出囃子は『勧進帳』。東京都芝南佐久間町の生まれ。

経歴

南桜小学校中退。洋服屋の丁稚奉公を経て1931年7月に四代目柳家小さんに入門、落語「三人旅」の登場人物に由来する名花之丞を名乗る。

1940年5月、二ツ目昇進し金原野馬の助に改名。

1947年9月30日に師匠小さんが死去。11月に華形家八百八に改名し真打昇進。1952年6月、兄弟子八代目林家正蔵一門の客分格となり四代目小さんの旧名であり彦六の前名である六代目蝶花楼馬楽を襲名する。

1982年に当時の落語協会副会長十代目金原亭馬生が死去したことに伴い副会長就任。なお、当時馬楽の年齢は74と高齢であったことから一時的な中継ぎとして就任した。1986年に著書「馬楽が生きる」口述 遠藤智子, 加藤貴子著. 創樹社)を出版。

1987年6月3日、肝硬変のため入院中の東京都新宿区の聖母病院で死去。79歳没。葬儀・告別式は新宿区の大日本獅子吼会で行われた。後任の副会長は常任理事三代目三遊亭圓歌が就任した。

芸歴

  • 1931年7月∶四代目柳家小さんに入門、花之丞を名乗る。
  • 1940年5月∶二ツ目昇進、金原野馬の助に改名。
  • 1947年
    • 9月∶師匠小さん死去。
    • 11月∶真打昇進、「華形家八百八」と改名。
  • 1952年6月∶兄弟子八代目林家正蔵一門の客分格となり六代目蝶花楼馬楽を襲名。
  • 1987年6月∶死去、79歳没。

役職

  • 1982年∶落語協会副会長

人物

得意ネタは多かったが、博打の出てくるネタは演じなかった。法華信者だったから演じなかったのだという。主に「二番煎じ」「もぐら泥」をよく演じていた。また、「紙入れ」、「転宅」、「子は鎹」なども得意とし、林家正雀は馬楽から「子は鎹」を教えてもらった。

正雀が「林家茂蔵」で前座の頃、歌舞伎座での「仮名手本忠臣蔵」公演のチケットを2枚入手し、そのチケットを馬楽に譲ろうとした。趣味が歌舞伎や芝居通いなのを知っていたからであるが、その公演日時は鈴本演芸場の出番が重なっており、鈴本の出番を優先させて「気持ちだけ貰っておくよ。誰かほかの人にあげてよ」とチケットを受け取らなかった。このことから正雀は馬楽の事を、「寄席を大事にする師匠」と感心していた。ところが、それから半年ぐらい経った頃、池袋演芸場での出番があった際に雷を伴った激しい夕立が降った時があり、そんなさ中、出番の時間が迫っても馬楽が姿を見せないため、中井にあった馬楽の自宅に電話をかけると在宅中であり、「雷怖いから」と言って出番をすっぽかした。正雀は「やっぱり鈴本と池袋では違うんだ」と考え直したという。

日頃から、自分の事を「あたい」と言っていた。ある時の浅草演芸ホールでの出番の時、楽屋に若い女性がやってきて馬楽にサインをお願いするということがあった。馬楽は「あたいでいいの?」と言いつつサインに応じていたが、その様子を楽屋の奥にいた正蔵が気にして正雀に「どうしたい」と声をかけ、正雀がこのことを説明すると正蔵曰く、「何を、馬楽に、女の子が!そりゃ先代の間違いじゃないのかい」。

楽屋ではよくお囃子方をからかっており、その様子を見ていた十代目金原亭馬生が「いつまでたってもあの人は直らないんだ」と苦笑いしていたという。そんな馬楽も高座に上がれば急に気取る、もったいぶった顔付きになり、楽屋で下心を出していたのが一転して「人間は欲をかいてはいけません」などと喋りだすそのギャップが面白かったことを正雀は振り返っている。

義太夫、新内、清元も得意とした。

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