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★立川志の輔/バールのようなもの

立川志の輔

解説:言葉のズレが、家庭の修羅場に火をつける(ネタバレあり)

立川志の輔の『バールのようなもの』は、現代のニュースでよく耳にする曖昧な表現を、落語の笑いに変えた新作落語である。もとは清水義範の短編小説を題材にした作品とされ、志の輔落語らしい「日常の違和感」を出発点にしている。

話の入口は単純だ。はっつぁんがご隠居のもとへやって来る。彼はテレビのニュースで聞いた「犯人はシャッターをバールのようなものでこじ開け……」という言い回しが気になって仕方がない。「バールでこじ開けた」なら分かる。だが「バールのようなもの」とは何なのか。バールなのか、バールではないのか。その曖昧さがどうにも引っかかる。

この問いに対して、ご隠居はもっともらしく説明する。「のようなもの」と付いたら、それは本物ではない。たとえば「女のような」と言えば女ではない。「夢のような」と言えば夢ではない。「ハワイのような」と言えばハワイではない。つまり「バールのようなもの」はバールではない。はっつぁんは、その理屈にすっかり納得する。

ここまでなら、単なる言葉遊びである。だが、この噺がうまいのは、その理屈が家庭の修羅場に持ち込まれるところだ。

帰宅したはっつぁんは、女房から問い詰められる。「妾のところへ行ってきたんだろう」と責められる。はっつぁんは否定するが、女房は取り合わない。そこで彼は、さっき覚えたばかりの理屈を使う。「あれは妾じゃない。妾のようなものだ」と言い放つ。

当然、これは最悪の弁解である。

ご隠居の説明では、「○○のようなもの」は○○そのものではないはずだった。しかし「妾のようなもの」は、実生活の文脈ではほぼ妾である。むしろ「妾っぽい関係」「妾に近い女」「正式には認めたくないが、実質的には妾」という意味になり、言い訳としては自爆に近い。女房からすれば、否定どころか白状である。

この噺の核心は、日本語の曖昧さそのものではない。曖昧な言葉を、自分に都合よく使おうとする人間の浅はかさにある。

「バールのようなもの」は、報道では断定を避けるための表現である。現場に残された痕跡や状況から、バールに似た工具が使われた可能性はある。しかし、正確にバールと確認できていない。だから「バールのようなもの」と言う。これは慎重な表現だ。

ところが、はっつぁんはそれを「○○のようなもの=○○ではない」という単純な公式に変えてしまう。ここで笑いが生まれる。人間は、言葉の意味を理解したつもりになると、すぐに別の場面へ雑に応用する。しかも、自分を守るためならなおさらだ。

『バールのようなもの』は、古典落語でいう「根問いもの」の現代版とも言える。根問いものとは、物知り顔のご隠居に若い者や職人が質問し、もっともらしい説明を受ける形式の噺である。『千早ふる』『やかん』『つる』などにも通じる型だと紹介されている。

ただし志の輔版の面白さは、古典的な型をそのまま使いながら、題材を現代のニュース言葉に置き換えている点にある。江戸の言葉遊びではなく、テレビを見ている誰もが一度は耳にしたことのある表現から始まる。だから落語に慣れていない人でも入りやすい。

そして最後のオチがきれいに決まる。

女房に痛い目に遭わされたはっつぁんは、ご隠居のもとへ戻る。ご隠居は、彼の傷を見て「何で殴られたんだ」と尋ねる。はっつぁんは答える。「バールのようなものです」。

ここで最初の言葉が回収される。ニュースの中の「バールのようなもの」は、はっつぁん自身の身に降りかかる。しかも、彼は最後までそれが何だったのか正確には分かっていない。自分が言葉にこだわった結果、言葉どころではない痛みを味わう。この循環が、落語として非常に強い。

この噺の笑いは、三段構えになっている。

第一に、「バールのようなもの」という誰もが聞いたことのある曖昧表現への違和感。第二に、ご隠居の知ったかぶりめいた理屈。第三に、その理屈を現実の修羅場で使って失敗するはっつぁんの愚かさである。

つまり、笑いの対象は言葉だけではない。言葉を使う人間の都合のよさが笑われている。

志の輔の新作落語が強いのは、こういうところだ。題材は軽い。事件報道の決まり文句をいじっているだけにも見える。しかし、奥には「言葉は文脈で意味が変わる」という冷静な観察がある。「ようなもの」は、常に本物から遠ざかる言葉ではない。場面によっては、むしろ本質を強めてしまう。

「妾のようなもの」は、妾ではないという否定にはならない。逃げようとすればするほど、核心に近づいてしまう言葉である。

だからこの噺は、単なる言葉遊びで終わらない。曖昧な表現に引っかかった男が、曖昧な表現で自分をごまかそうとして失敗する。そこに、現代的な滑稽さがある。

まとめ

『バールのようなもの』は、ニュースの定型句を入口にした、志の輔らしい知的な滑稽噺である。古典落語の「ご隠居に聞く」型を使いながら、扱っている題材は完全に現代的だ。笑いの中心にあるのは、日本語の曖昧さではなく、その曖昧さを自分に都合よく解釈する人間の浅知恵である。

はっつぁんは「言葉の意味」を知ったつもりになる。だが本当に理解していなかったのは、言葉そのものではなく、言葉が置かれる場面のほうだった。そこを一撃で笑いに変えるのが、この噺のうまさである。

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