立川志の輔『ディアファミリー』ネタバレあらすじ:押し入れから見えてくる、家族という名の不用品置き場
立川志の輔の『ディアファミリー』は、家庭の押し入れを舞台にした新作落語である。題材は地味だ。会社勤めを続けてきた父親、母親、子どもたち、そして家に届いた「鹿の頭の剥製」。だが、この一見くだらない荷物をきっかけに、家庭の中に積み重なってきた物、記憶、執着、言い訳が一気に噴き出していく。初出は2003年とされ、志の輔の代表的な新作落語の一つとして知られている。
物語は、父親の勤続三十周年の日から始まる。家族は、長年働いてきた父親の帰宅を待っている。そこへ宅急便が届く。差出人は父親の会社の社長。中身は、社長の趣味である狩猟に関係した贈り物だった。開けてみると、そこに入っていたのは鹿の頭部の剥製である。
ここでまず笑いが立ち上がる。勤続三十年の記念品として、なぜ鹿の頭なのか。普通なら時計、花束、記念品、商品券あたりが妥当だろう。ところが届いたのは、壁に飾るしかないような巨大で異様な剥製である。しかも家庭は公団住宅。広い応接間もなければ、暖炉の上に飾るような空間もない。
問題は単純だ。「これをどこに置くのか」
家族は困る。捨てるわけにもいかない。会社の社長から父親へ贈られた記念品である。父親の勤続三十年の象徴でもある。とはいえ、リビングに飾れば家の空気が変わる。玄関に置けば来客が引く。寝室に置くのも不気味だ。そこで出てくるのが、どの家庭にもある最終避難所、押し入れである。
ところが、この押し入れがすでに満杯だった。
中には、ジューサーミキサー、餅つき器、美顔器、スノーボード、サーフボード、雛飾り、ぶら下がり健康器などがぎっしり詰まっている。どれも「買ったときは必要だった」「いつか使うと思った」「捨てるには惜しい」と言われがちな品物である。
ここから『ディアファミリー』は、単なる鹿の剥製騒動ではなく、「家庭内不用品裁判」になっていく。
鹿の剥製を入れるためには、何かを出さなければならない。つまり、家族の誰かが持っている何かを捨てなければならない。しかし、ここで全員が抵抗する。自分の物は残したい。他人の物は捨てていい。家庭内でよくある、もっとも小さく、もっとも醜い利害対立である。
ジューサーミキサーは、健康のために必要だったはずのもの。餅つき器は、正月に家族で餅をつく夢を託されたもの。美顔器は、買ったときには本気で使うつもりだったもの。スノーボードやサーフボードは、若さや趣味や憧れの残骸である。雛飾りは簡単に捨てられない。ぶら下がり健康器も、かつての健康ブームの記念碑のように押し入れに鎮座している。
面白いのは、どれも現実にありそうな物ばかりだという点である。志の輔の新作落語は、突飛な人物を出して笑わせるより、普通の人間が普通に抱えている矛盾を丁寧に掘る。そのため、この噺の押し入れは、特定の一家の押し入れであると同時に、多くの家庭の押し入れでもある。
やがて家族の目に留まるのが、母親が嫁入りのときに持ってきた『サザエさん』全五十巻である。
ここが大きな転換点になる。
鹿の剥製は父親の勤続三十年の象徴である。一方、『サザエさん』全巻は母親が嫁入りのときに持ってきた物だ。つまり、どちらも単なる物ではない。父親にとっての会社人生、母親にとっての結婚生活の入口。その二つが押し入れの中で場所を取り合う。
この対立がうまい。
もし押し入れの中身が全部ただのガラクタなら、話は「捨てればいい」で終わる。しかし家庭の中にある物は、たいてい物だけではない。そこには買ったときの気分、家族の記憶、失敗した計画、諦めきれない自分像が貼り付いている。だから捨てられない。
『ディアファミリー』の笑いは、ここにある。
家族は合理的に考えればいい。使っていない物を捨てればいい。だが、誰も合理的には動けない。自分の物になると急に理屈が増える。「まだ使う」「高かった」「思い出がある」「これは違う」「それよりあっちを捨てろ」。この言い訳の応酬が、家庭の会話として非常にリアルである。
この噺では、鹿の剥製そのものは不条理な異物である。しかし、その異物が入ってきたことで、家族の中に眠っていた問題が可視化される。押し入れは、単なる収納ではない。家族が先送りしてきた判断の墓場である。
父親の勤続三十年も、きれいな美談だけではない。会社に尽くしてきた年月があり、社長からの奇妙な贈り物を無下にできない立場がある。母親には母親の人生がある。嫁入り道具のように持ってきた漫画を、簡単に「いらない」とは言われたくない。子どもたちにも、それぞれの過去の趣味や、すでに使わなくなった物への執着がある。
つまり、鹿の頭を置く場所を探す話に見えて、実際には「この家で誰の記憶を優先するのか」という話になっている。
ここが『ディアファミリー』の鋭いところである。
家族とは、仲のよい共同体のように語られがちだ。しかし現実の家族は、物理的な空間を共有する集団でもある。部屋、棚、押し入れ、冷蔵庫、玄関、テレビの前。限られた場所を誰がどれだけ使うかで、家庭内の力関係が見える。
押し入れに何を入れるかは、くだらない問題に見える。だが、それは「誰の過去を残すか」「誰の都合を優先するか」「誰の記念品を大事にするか」という問題でもある。志の輔は、それを説教ではなく笑いで見せる。
『ディアファミリー』という題名もよくできている。
英語で書けば「Dear Family」。親愛なる家族、という意味になる。だが、内容は決して美しい家族愛だけではない。むしろ、家族の中にある小さな身勝手さ、捨てられない未練、押しつけ合い、責任逃れが描かれる。にもかかわらず、どこか憎めない。家族とは、きれいに整理された関係ではなく、押し入れのように雑多で、矛盾していて、捨てられないものが詰まった関係なのだと分かる。
また、「ディア」は鹿の「deer」とも響く。鹿の剥製をめぐる話でありながら、親愛なる家族の話でもある。タイトルの時点で、志の輔らしい言葉遊びが仕込まれている。
この噺の結末は、演じ方や収録によって細部の印象は違う可能性があるが、基本構造としては、鹿の剥製をどうにかしようとする過程で、家族が押し入れの中身を次々に問題化し、それぞれの執着をさらけ出していく。その結果、鹿の頭は単なる邪魔者ではなく、家族の本音を引きずり出す装置になる。
言ってしまえば、鹿の剥製は「外から来た迷惑な贈り物」である。だが本当に厄介なのは、その剥製ではない。厄介なのは、家族がそれまで何も決めずに押し入れへ押し込んできた物たちであり、さらに言えば、それらを捨てられない家族の心理である。
志の輔の落語として見ると、『ディアファミリー』は典型的な「日常の異物混入型」の噺である。大事件は起きない。怪物も出ない。悪人もいない。だが、日常に一つだけ異物が入る。今回は鹿の頭部の剥製である。それによって、普段は見えない家庭の構造が浮かび上がる。
この作りは非常に強い。なぜなら、観客は「鹿の剥製なんてうちにはない」と思いながらも、「押し入れに眠っている使わない物」は確実に思い当たるからだ。そこで笑いが自分の生活に刺さる。
野暮だがチョット笑いの解説を
『ディアファミリー』の笑いは、三つの層でできている。
一つ目は、贈り物のズレである。勤続三十年の記念品に鹿の頭部の剥製という時点で、すでにズレている。しかも贈り主が社長なので、捨てられない。迷惑だがありがたがらなければならない。この社会的な面倒くささが笑いになる。
二つ目は、収納のリアリティである。押し入れに何かを入れようとしたら、すでに不要品でいっぱいだった。この状況は、ほとんどの家庭に通じる。だから笑いが説明不要で伝わる。
三つ目は、家族内の自己正当化である。他人の物はガラクタに見える。自分の物だけは思い出に見える。この非対称性が、家庭内の会話を滑稽にする。人間は、自分の執着には名前をつける。「思い出」「必要」「いつか使う」「捨てるには忍びない」。だが、他人の執着には容赦なく「邪魔」と言う。
この視点があるから、『ディアファミリー』は単なる片づけ落語では終わらない。
まとめ
立川志の輔『ディアファミリー』は、鹿の頭の剥製をどこに置くかという、ばかばかしい問題から始まる。しかし、そのばかばかしさの奥には、家族が長年ため込んできた物と記憶がある。
押し入れは、家庭の無意識である。
使わないのに捨てられない物。高かったから残している物。かつての自分を証明する物。家族の誰かには大事だが、別の誰かにはただの邪魔に見える物。そうしたものが積み重なった場所に、鹿の剥製という異物が放り込まれる。
その瞬間、家族の中のバランスが崩れる。
『ディアファミリー』が面白いのは、家族を美化しないところだ。仲が悪いわけではない。だが、それぞれに身勝手で、それぞれに捨てられないものを抱えている。だから揉める。だから笑える。そして、だから家族に見える。
志の輔は、鹿の頭という奇妙な小道具を使って、家庭というものの雑然とした実態を見せる。家族とは、きれいに片づいた棚ではない。何を捨て、何を残すかで揉めながら、それでも同じ押し入れを使い続ける関係である。『ディアファミリー』は、そのどうしようもなさを、かなり正確に笑いにしている。


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