★柳家三語楼(初代)眼鏡屋泥棒

柳家三語楼(初代)


1928年(昭和3年)頃の録音

プロフィール

初代 柳家三語楼(1875年3月 – 1938年6月29日)は、落語家。本名は山口 慶三。
横浜生まれで家業は運送業、セント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジ出身で少年時代から外国人商社で働いていたため、噺家としては珍しく英語が堪能だった。
落語が好きで、素人落語を長らくやっていた。

1910年頃に4代目橘家圓喬に入門し右圓喬、1912年師匠圓喬の死後は1913年に2代目談洲楼燕枝門下に移籍し燕洲となり、後に3代目柳家小さん門下で三語楼を名乗った。
1916年5月に真打昇進。大正期を代表する人気落語家の一人で、枕(落語の導入部)に英語を入れるなどナンセンス落語が大いに受けた。1927年、東京落語協会を飛び出し、5代目三遊亭圓生と共に独立。落語協会、俗に言う「三語楼協会」を設立した。

1930年三語楼協会を解散して東京落語協会に戻るが、1932年再度離脱。1938年没。享年63。
門下には柳家金語楼、7代目林家正蔵(初代林家三平の父、9代目林家正蔵、2代目林家三平の祖父)、初代柳家権太楼、5代目古今亭志ん生(東京落語協会脱退せず、協会残留)、語ン平(後の2代目古今亭甚語楼)、三味線漫談(粋談)柳家三亀松、都家琴月(後の柳家三亀坊)、柳家金語(後の古今亭志ん好)、柳家語楽(1901年-1980年代以降)、もともと漫才師で「柳家語楽・大和家こたつ」というコンビであったが、のちに膝人形などの珍芸で花王名人劇場などに出演していた。息子はやはり花王名人劇場に出ていたタップ紙切り師の花房蝶二である。)など。

なお、亡くなる直前一時期の弟子志ん生(当時7代目金原亭馬生)の次男3代目古今亭志ん朝の本名「強次」(誕生日が陸軍記念日の3月10日で勝利に因んで)は三語楼が名付けたとされる。 得意ネタは『九段八景』『寝床』『たぬき』『お直し』『締め込み』など。古典落語に大胆なアレンジを施して5代目志ん生などに伝えるなど、現在に影響を与えた点では初代三遊亭圓遊、初代桂春團治と並ぶ功績をあげている。「たぬき」で狸が札束に化けた時に使う「いけねえ札から蚤が出てきた。」というのは三語楼の作ったクスグリである。

そのほかには『鰍沢』でお熊にピストルを持たせたり飛行機に乗って女郎買いにいくなどの奇想天外な演出を行っていたために、無名時代は仲間内の評判はよくなかったという。
最初の師匠圓喬を崇拝しており、「俺が死んだときは、師匠から貰った袴が大事にとってあるから、それをはかして棺の中へ入れてくれ。」と遺言していた。(6代目三遊亭圓生談)

残されているSPレコードは『厄払い』『嘘の皮』『意趣返し』『眼鏡屋泥棒』『たぬき』『高尾』『見世物風景』『宴会』のほかにコント風の『花嫁十人』『耳鏡』などがある。

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