★古今亭志ん生(五代目)浜野矩隨(はまののりゆき:名工矩隨)

古今亭志ん生(五代目)


1956年(昭和31年)録音
浜野矩隨は、江戸中期の装剣金工家。通称を忠五郎、江戸神田小柳町に住したといい、浜野政随の門下で学ぶ。
15歳から17歳ごろ、師から矩随の名を許された。
浜野の苗字は師の流名を許されたもの。蓋雲堂・望窓軒・青柳軒・生寿軒などの号銘がある。
浜野派の豪快な彫法を修得するとともに、後藤乗意風の肉合彫りの研鑽にもはげみ、色絵を施した独自の境地を創りあげ、師と共に浜野流の興隆に大きく貢献した。
実子の松次郎も上手として知られ、2代矩随を継いでいる。

あらすじ

浜野矩随の父親、矩康(のりやす)は、刀剣の付属用品を彫刻する「腰元彫り」の名人だった。父親の死後、矩随も腰元彫りを生業としているが、てんでへたくそ。
芝神明前の袋物屋・若狭屋新兵衛がいつもお義理に二朱で買い取ってくれているだけだ。

八丁堀の裏長屋での母子暮らしも次第に苦しくなってきたあるとき、矩随が小柄に猪を彫って持っていった。
新兵衛は「こいつは豚だ」と言い、
「どうして、こうまずいんだ。今まで買っていたのは、おまえがおっかさんに優しくする、その孝行の二字を買ってたんだ」
となじり、挙げ句の果ては「死んじまえ」と。

帰った矩随は、母親に「あの世に行って、おとっつぁんにわびとうございます」と首をくくろうとする。
「先立つ前に、形見にあたしの信仰している観音さまを丸彫り五寸のお身丈で彫っておくれ」と母。

水垢離の後、七日七晩のまず食わず、裏の細工場で励む矩随。観音経をあげる母。

やがて、完成の朝。
母は「若狭屋のだんなに見ておもらい。値段を聞かれたら『五十両、一文かけても売れません』と言いなさい」と告げ、矩随に碗の水を半分のませ、残りは自らのんで見送った。

観音像を見た新兵衛、父親矩安の作品がまだあったものと勘違いして大喜びしたが、足の裏を見て「なんだっておみ足の裏に『矩随』なんて刻んだんだ。せっかく五十両のものが、二朱になっちゃうじゃねえか」

矩随が母への形見に自分が彫った顛末を語ると、新兵衛「えっ、水を半分? おっかさんはことによったらおまえさんの代わりに梁にぶらさがっちゃいねえか」

矩随は慌てて駕籠でわが家に戻ったが、母はすでにこときれていた。

これを機会に矩随は開眼、名工としての道を歩む。

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